第16話(4)
◆ ◇ ◆
その日は、何となく、朝からついていなかった。
寝室から出ようとしたら、ドアに足の小指をぶつけた。
打ち合わせに遅刻しそうで、慌てて家を出たら、携帯を忘れた。
単車で事務所へ向かう途中で雨に降られ、びっしょりと言うほどではないものの、濡れるはめになった。
ついでに言えば、飛び出してきた猫にぶったまげて、急ブレーキと濡れた路面でスリップをしそうになった。
もちろん、打ち合わせには、遅刻した。
21年間も生きていれば、当然そういう日もある。別に占いやら何やらを信じるタチではないし、大したことではない。重なる時は、重なるものだ。
そう思ってはいるものの、あまり気分は良くはない。
「一矢ぁ、試写会、どーすんの?」
Grand Crossの今日の仕事は、昼下がりに終了したこの打ち合わせだけである。
明日から、2週間まるまる地方へ遠征に行くと言うことでそれについての最終的なミーティングがあったわけだが、しばらく東京に戻って来られないことを慮ってか、一応早く終わるように気を使ってくれたらしい。
しばらくぶりにAQUA MUSEの淳奈から「最近どうしてんの?」メールが届き、打ち合わせの終わった会議室で椅子に沈んだまま、遅刻の原因のひとつとなった携帯をいじっていると、帰る準備を整えた啓一郎がドアノブに手を掛けながら、尋ねた。
「ん? ん〜、保留……」
本日、Grand Crossのファースト・シングルとなる楽曲を挿入歌とする映画の試写会がある。
もちろんGrand Crossの面々は関係者なので、試写会に行きたければ行っておいでと言う広田の言葉と共に、入場パスをもらっていた。
「保留? 行かないの?」
「わからん」
「行くんだったらさ、後で連絡してよ。一緒行こうよ」
「うん。ま、バイト先に連絡してから考える」
試写会は、夜の19時半からだと聞いている。だが一矢はビデオ屋でのバイトがあるし、試写会に最後まで残っていると勤務開始時間に被ってしまいそうだ。
試写会の方を途中でさっさと抜けても良いのだが、どうしようか決めかねたままである。
「啓一郎、あゆなちゃんと行くんじゃないの?」
淳奈へのメールを送信して携帯を閉じると、「んじゃあお疲れぃ」とドアを出て行きかけていた啓一郎は、その場で足を止めた。
「ああ、うん、まあ……。でも別に、映画なんか何人で見たところで、見てる間はひとりの世界じゃん。ロンリーじゃん」
「そういう問題じゃねぇだろう……」
相変わらず女の子の気持ちに頓着しない啓一郎に呆れていると、「んじゃあ行く気になったら連絡しろよ〜」などと言って、啓一郎がドアの向こうに姿を消した。恐らくは、今からあゆなとデートだろう。和希も同じパターンなのか、打ち合わせが終わるなりさっさと姿を消している。武人は、今日は最初から用事があると言って行く気さえないみたいだった。
(どーすっかなー)
見たい気持ちは、もちろんある。
自分たちにとって記念すべきファースト・シングルが、一部とは言え公のものとして公開されるその瞬間を、見たくないはずはない。
楽曲に映像がつけば、それはどのように映るのだろう。物語の中で、どんな役割を担うのだろう。その存在を、どれほどの人間に感じてもらえる出来になっているのだろうか。
(行くかなー)
とは言え、明日から2週間もいなくなってしまうと言うのに、あゆなの邪魔をするのは可哀想だ。
行くなら誰か誘って行くか、もしくはひとりで行っても構わないのだけど……。
ともかくも夜までは暇なので、夜のバイトに備えて一度家で仮眠でも取ろうかと思いながら、ようやく会議室を出る。事務所の使用表では、D.N.A.も今日どこかの会議室の使用予定が入っていたはずだが、紫乃の姿は見かけていない。
そう思ってから、先日の神崎の勝ち誇ったような笑みが脳裏に過ぎった。勝手に思い出してむっとしつつ、会議室のドアを閉めて出入り口に向かいかけ、気を変える。
一矢がいつも単車を停めているのは、事務所の駐車場の最奥だ。
本日使用していた会議室は1階の奥なので、裏口から出た方が早いことに気がついた。そちらへ足を向けながら、あの後2人はどうしたのだろうなどと、考えても仕方がないことを考える。
常識で考えれば、深夜に差し掛かろうと言う時間帯に女性がひとり暮らしをする部屋に入って行った男女と言うのは、不健全な展開を想像させる。いや、それが当たり前なのだから、むしろ健全な展開と言うべきかも知れない。
(そういう話じゃねえつーの)
逸れた考えに自分で突っ込みつつ、裏口のドアを開ける。ここの扉は、内側からは開けられるけれど、外からは鍵がかかって入れないようになっている。
ノブを回すのに合わせてカシャっと鍵が開く音を聞きながら、思わず深い息をついた。
……そういうことがあったとは、正直、考えていないけれど。
神崎が今も紫乃を好きなのだとは一矢も感じているし、元々付き合っていた2人なのだから、この先もどうにもならないとは言えない。何せ、ほんの少し前までは一矢自身が「それが紫乃にとってベストだろう」と考えていたくらいなのだから。
裏口から外に出ると、まだ昼下がりの太陽が落ちていこうとしているところだった。雨はすっかり止んだらしい。降っていた気配は、僅かに濡れた路面に残るだけである。少しずつ翳り始めているとは言え、だいぶ日も長くなってきた。
(あったかくなったなあ……)
気がつけば、もうじき桜が咲こうとしているのだ。モンンシロチョウが、一矢を馬鹿にするようにふわふわと鼻先を掠めて飛んで行った。
足を止めたまま、裏口から駐車場へ続く僅かな階段に視線を向け、以前、紫乃がここで号泣していたことを思い出す。
今思えば、あの時からもう既に始まっていたのだろう。一矢の心に、紫乃が滑り込んで来ていた。その、涙と共に。
彼女の泣き顔を思い出しながら、何気なく、顔を上げる。駐車場の、一矢の単車とは反対の端に停められた車。こちらに背中を向ける形で停車されているが、ライトが点いているから、エンジンはかかっている。
(神崎の車かよ……)
嫌なタイミングで出て来てしまった。
ドアノブに手を掛けたままで顔を顰めていると、リアゲートガラス越しに運転席で人が動くのが見えた。続いて、助手席に人がいることに気がつく。揺れる長い髪……紫乃、だ。
助手席から運転席寄りに座っている紫乃の後ろ姿が、神崎の方を向いていた。
そう認識した次の瞬間、一矢はそのまま、凍りついた。
運転席から助手席に向かって身を乗り出す男は、神崎だ。やや不自然に助手席に身を乗り出したまま、神崎の動きが止まる。
紫乃の顔に、顔を、覆い被せるようにして。
(……嘘だろ?)
どくんと、全身の血が逆流するような気がした。
世界の全てが一瞬遮断され、顔を重ね合わせたままの2人の姿だけが、ガラス越しに見えている。
強制的に意識を引き離し、一矢は回れ右をすると、開けたままのドアの内側に戻った。背後でバタンとドアが閉まり、思わずそこにずるっと背中を持たせかける。
いやに鼓動が速く、嫌な汗が額に滲んだ。片手を額に押し付け、無意識に止めていたらしい呼吸をつく。
(何……だ……?)
今、見たものは。
――神崎と、紫乃の、キスシーンか?
頭の中で言葉にしてみれば、今更のように衝撃的だった。片方の掌を押し付けた鉄の扉が、いやに冷たく感じる。まるで脳が麻痺しているように、思考が働かない。
「はは……」
乾いた笑いが口から漏れた。
「何だよ……」
寄りを、戻したのか。
それとも、これをきっかけに、戻すのか。
いずれにしても、そういうことなのだろう……。
うまく出来ているものだ。神崎と紫乃の復縁を、一矢が望むのをやめた途端にそうなるなんて。
自分の方を向いて欲しいと……望み始めた途端に、だなんて。
(いーじゃん……)
神崎はかなりいけ好かないが、それでも今の紫乃のそばで最大の理解者であることはほぼ間違いないのだろう。
ならば、この展開が最も彼女の幸せに繋がるはずだ。……少なくとも、間違って自分なんかの方を向いてしまうよりも、ずっと。
そのまま、ずるずるとしゃがみ込む。背中越しの向こうで紫乃が神崎と唇を重ねているのだと思えば、気が狂いそうな嫉妬が込み上げ、飲み下すのが大変だった。
(だっせぇ……)
泣きたい気分だ。と言って本当に泣くのはプライドが許さない。結果として、乾いた笑いだけが口元に貼り付けられたままになる。
こうなって、改めて、気づく。
彼女が笑っててくれればいいなんて、大嘘に決まっている。
彼女が幸せならばそれでいいなんて、本心のはずがない。
自分の隣で、笑って欲しい。自分の腕の中で、幸せになって欲しい。――それが、間違いなく、本心だ。
自分でさえ否定してきた自分を肯定して欲しい、所詮、そんなものが本音なのだろう。
(どっちにしたって……)
何が、一矢の本心だとしたって。
何を本音の自分が望んでいるのだとしたって。
(もう、手遅れだろ……)
――神田くんッ……
重ねられる神崎の顔と紫乃の後ろ姿に、無邪気な笑みを浮かべる紫乃の笑顔と声が、儚く掻き消された。
◆ ◇ ◆
嫌なこと、と言うのは、やはり重なるものらしい。
到底試写会に向かう気になどなれず、時間を見計らって2人の姿が駐車場から消えた頃になって単車を引っ張り出した一矢が真っ直ぐ家に戻ると、会いたくない人物の姿が見えた。
マンションの出入り口にあるガラス扉の向こうに、ちょうどエレベーターから降りてきたらしい中年男性の姿を見つけ、一矢は単車を両手で支えたまま動きを止めた。
こちらに向かってくる彼も、『息子』の姿に気づいたらしい。父親である元春―― 一矢風に言えば『神田のおっさん』の歩みに合わせて、自動ドアが開く。
「一矢」
「……」
「ちょうど良かった。部屋に行ったらいないようだったから、帰るところだった」
「……ちょうど良くねぇよ」
口の中で呟いた悪態は、元春の耳には届かなかったらしい。
それに対する言葉はなく、元春は自動ドアを抜けてこちらに向かって歩いてくる。一矢の近くまで来ると足を止めて、僅かに両目を眇めるようにしてから一矢を仰いだ。
「話があるんだ」
「俺にはありませんが」
「お前、音楽だかバンドだかやってると言うのは本当か」
まさかそんな角度から元春に話を振られるとは思っていなかったので、一瞬虚を突かれる。無言でその顔を見つめ返す一矢の回答を待たずに、元春は尚も口を開いた。
「くだらん音楽なんかでやっていこうと思っているんじゃないだろうな?」
「そんなこと、誰に……」
「たまたま雑誌で見かけた。調べてみたら、ラジオなんかにも出てるだろう。……冗談じゃない」
「……それが、あなたに関係があるとは思えないんですが」
辛うじて口を開くと、元春の目元に険しい皺が寄った。
「やっていけるはずがない。みっともないことは、やめなさい」
――『みっともない』?
一瞬、目の前が赤く染まったような気がした。両手が塞がっていて良かった。空いていたら、咄嗟に胸倉を掴んでいたかもしれない。
かっと顔を上げ、それから怒鳴りつけたい衝動を押さえ込む。……揉め事は、嫌いだ。それが例え『父親らしきモノ』でも、赤の他人でも。
どうしても、争いごとはしたくない。幼少期に根付いたトラウマが、一矢に徹底して争いや喧嘩を避けさせる。
言葉を飲み込んだ一矢に、元春は満足をしたらしい。更に、続けた。
「そんな夢みたいなこと、出来るわけがないだろう。神田家の恥になる。もっと、安定した仕事を……」
「父親ヅラかよ?」
『神田家とは、どこにあるんだ?』。
殴りたい衝動を抑えるのは、大変だった。今しも単車を投げ出して殴りそうな両手を押さえつけるために、単車を支えるグリップを力一杯握り締める。
「父親だ」
「笑わせてくれる。『らしい』こともせずに、自分の気に触ることをした時だけしゃしゃり出てくるのが父親か?」
「一矢」
「あんただって、どうせそんなこと、思っちゃいないだろう。疑ってるんだろう? 俺は、自分の息子じゃないかもしれないってさ」
「一矢!!」
「あんたにごちゃごちゃ言われる筋合いじゃない。俺は俺のやりたいようにやる。あんたに指図される言われはない」
「お前の家賃、生活費を面倒見てやってるのは、誰だと思ってるんだ!?」
こうして改めて見れば、つくづくと元春と自分は、似ていなかった。年を追い、成長するにつけ、その差は開く一方のような気がする。
自分の知る自分の肉親は、母親だけだったのかもしれない。
けれど、その母親も今はどこにいるのかわからない。わかりたいとも思わない。
「金を出せば、それが父親だと思ってんのか?」
「……」
「だったら……」
そう、確かに一矢は元春から、金銭を搾取している。
それが、復讐になると思ったからだ。
けれどそれがこうして、自分が唯一見つけた生き甲斐であり夢の足枷になるものなら。
「いらねぇよ」
金が欲しかったわけじゃない。
「一矢」
「近いうちに、ここを出てってやるよ。それだけで縛られちゃ、たまんねぇ」
「どうやって生活するつもりだ!?」
「あんたに、関係ねーだろう」
「異性のところに転がり込んだりするんじゃないだろうな!? そんな生活は……」
「ほっとけよッ!!」
なぜなのだろう。
怒鳴りながら、心の片隅で考える。
なぜ、邪魔しようとするのだろう。世間体などと言うものならば、とっくの昔に崩壊しているだろうに。そして崩壊させたのは他でもない、あんたとその妻ではないのか。どうしてその余波を、自分にまで被せようとするのだろう。……親とは、何なのだろう。
「残り半年分……220万、惜しいけどな。喜べば? 浮いてらっきー」