第16話(1)
「あー……広瀬サンのお電話でしょーかー……」
「そおですがあ? どちらさまですかあ?」
「……」
携帯のディスプレイを見ればわかるだろう。
バイト中のビデオ屋のバックルームで、休憩時間に紫乃に電話をかけてみる。
昼間のゲネスタでどことなく攻撃的に見えた彼女の様子が気になったのだが、こうして電話をしてみてもやはり、攻撃的に聞こえる。
「あの……」
「はいぃ?」
「……何か怒ってらっしゃるんですか?」
「あたしが? 怒る理由はないっしょ? 何で? ……ああ、昨夜はどうもお邪魔致しました、ありがとう、もうないと思うので安心して下さい、晴美ちゃんによろしく、さようなら」
「こらこらこらこらッ」
矢継ぎ早に言う紫乃に、慌てる。ぼんやりしていたらこの勢いで切られてしまう。
「あのさ、何か怒ってますよね?」
「怒ってないってば。怒る理由はないっしょ」
言われてみれば、その通りなのだが……。
仮に神崎が紫乃に何か余計なことを吹き込んだところで、それが紫乃の怒る理由にはなりえない。
けれど、やはり攻撃的ではある。
「広瀬サン」
「何」
「……。とりあえず、デートでもしてみませんか」
「嫌」
「せめて5秒悩めよ」
「5秒ってどっから出てくんの……」
「怒ってないとおっしゃいますが、何か余り良い感じではなくて大変消化不良なので、ぜひその辺りを解決する為に、ここはひとつ『うん』と言って戴きたいんですが」
「嫌」
尚も短く言い捨てると、紫乃は鼻の頭に皺でも寄せていそうな声で付け足した。
「お父さんの遺言で、軽い男にはついてっちゃいけませんって言われてるから」
「嘘をつけ嘘をッ」
「ああ、あたし、無事で良かった」
「てめ……」
神崎の野郎、何を吹き込みやがった。
頭を抱えながら、紫乃の態度が緩和するよう試みる。別に喧嘩がしたいわけじゃない。
「……何でも奢る」
紫乃が、向こう側で一瞬押し黙った。
「ほんと? 何でも?」
「……現金な女」
「何か言った」
「いえ? ええ、ええ、何でも奢ります」
悲しいほど、力関係がはっきりしているような気がする。
「ハンバーガーでもラーメンでも牛丼でも」
「うわ。凄い限られた」
「だから、どっか時間、作ってよ」
そこだけは、真面目にもう一度繰り返す。
また短い沈黙を挟んだ後、やがて紫乃が、ようやく笑った。
「わかった。いーよ」
「いらっしゃ……。何だ、一矢じゃん」
下北沢『listen』の扉を開けると、途端に煙草の煙とアルコールの混じった匂いが鼻についた。流れるBGMはDREAM THEATER……余り、他のバーでチョイスされているものではない気がする。
「ちぃす……席、あ……りそうだね」
「何だ、客か? 適当なとこに……」
作っていたカクテルにオレンジを添えてカウンターの客に差し出したテルが、ドアから中に入り込んだ一矢のその後ろ……ちょこんと顔を覗かせた紫乃に、目を留めた。
「こんばんはー……」
「はい、いらっしゃい」
目を丸くしながらも、とりあえずは定石通りの挨拶を口にする。
カウンター席に向かう一矢に続く紫乃を眺め、それからテルはにやっと笑った。
「美人さんを連れて」
「えぇ? いやぁ……」
「あ、マスター。そういう見え透いたお世辞とかいらないから」
腰を下ろすなりの悪態に、紫乃が見事な反射神経で一矢の腕を殴った。
「うるさい」
「何にする?」
くすくす笑いながら、テルがチェイサーのグラスを置く。紫乃が愛想良く、テルを見上げた。
「とりあえず、グラスビール。それからぁ……」
そこで、ちらーっと一矢を横目で見る。その視線に耐えかねて、一矢は「はいはいはいはい」と無駄に返事を繰り返しながら、自発的に立ち上がった。
紫乃が、「神崎に何を吹き込まれたのか」「吹き込まれたとしたら、それを誤解として払拭する」機会を与えてくれたのはありがたい。
だが、「奢る」と言った一矢に対する彼女の要求は、『listen』に紫乃を連れて来ることだった。
先日一矢は確かに紫乃にここでご馳走してやると言ったし、楽しみに待っているとも言ったのだから、それは一向に構わないのだけれど。
「珍しいよなあ。一矢がここに女の子連れて来るなんてさあ」
これが、嫌だ。
自分にとって、テリトリーであると思っている『listen』には、一矢はまず女の子を連れて行かない。踏み込まれるのが嫌だからである。
だから、武藤辺りが連れてくるのであればともかくも、一矢が連れてくれば目立ちやすく、テルや常連客の良いおもちゃになる。
「うーるさいよ、テルさん」
紫乃のご要望に応えるべくカウンターの内側に回る一矢に、テルが耳元で囁いた。
「何? 彼女?」
「誰が」
「この状況下、あのコ以外の誰がいる」
「……違いますよ」
顰め面で答えながら、ともかくも流しで手を洗う。
「何食いたい」
「何食わせてくれるの?」
「そこのメニューに載ってるものでも、載ってないものでも。材料があれば」
「うおー。オールマイティ? 酢豚とか言ってもありなの?」
「殴るぞ、オマエ。店見回してから考えろ」
実際問題、酢豚の材料は特殊な中華食材でなくてもいけるので出来ないわけではないのだけれど、肯定して要求が中華に偏っても困る。即座に却下すると、紫乃は素直に店を見回した。
「アジアン」
「中華はチャイニーズ」
「中国ってアジアじゃないの?」
「中国は中国」
「日本は?」
「ジャパニーズ。……何の話だよ」
一矢と紫乃の無意味すぎる会話に、隣でテルが腹を抱えている。カウンターで先ほどまでテルと話していたらしい常連客の男も、テーブルに突っ伏して笑っていた。非常に居心地が悪い。
「じゃあ〜、神田くんの得意料理って何?」
「別に」
そっけなく答える一矢に、横からテルが口を挟んだ。
「大抵何でもいけると思うよ。相当特殊なこと言わなければ」
「特殊なことって? ちゃんこ鍋とか?」
「だから店見回せよッッッ」
「それ作れって言ってないじゃんよ……。特殊なものを挙げたんじゃないよ〜」
タコのような口をして見せてから、紫乃はテーブルの上に乗せられている小さなスタンドメニューを手に取った。
「あーッ。オムライスあるー。作れるの? 食べたい食べたい」
「はいはい、オムライスね……。ガキかよ」
「何でッ。バーのメニューにあるんでしょッ、オトナでしょッ!? バーだよここッ」
「テルさん、卵切れてない?」
「き、切れてない……」
抱腹絶倒でカウンターの内側にしゃがみ込んでいるテルは、一矢の問いに途切れ途切れに答えた。
「デミグラ、使い切ってない?」
「あるある」
「りょかい」
冷蔵庫の野菜室からタマネギや人参を取り出していると、すっかり紫乃のビールオーダーを忘れていたらしいテルが今更グラスにビールを注いだ。紫乃は、カウンターに両手で頬杖をついて、包丁を握る一矢を好奇心丸出しで眺めている。
「面白いな〜」
「何が」
「神田くんが包丁握ってるよ」
「何? 一矢に作ってもらったことないんだ」
グラスを差し出したテルに、紫乃が大きな目を更に丸くした。
「ないですよ、そりゃ」
「家で作らないの? 一矢」
無言で、テルの足を蹴る。
「家では作る。こいつに作る理由がない」
「何だ、家に行ったことないの?」
何気ないテルの問いに、一瞬一矢も紫乃も、押し黙った。
泊まったのはつい先日の出来事だが、それだけ告げれば間違いなく誤解が生じる。勢いどちらも答えずにいると、テルが2人を見比べて片眉を上げた。何かを言いかけて口を開こうとするのを遮るように、店のドアが開いた。
「お。一矢ぁ。働いてやがんな?」
明弘だ。
またうるさいのが来た、と一矢は黙ってタマネギを刻んだ。
「すいてんな、今日」
両手をポケットに突っ込んで近付いてきた明弘は、紫乃のすぐそばで足を止めた。それから小首を傾げてカウンターに寄りかかる。恐らくは、「見たことがある気がするけど、誰だか良くわからない」のだろう。明弘は、一矢と一緒にD.N.A.のライブを一度だけ見に行っている。
「3月ももう半ばにしては、今日はちょっと寒いからね」
「こういう日があると、着る服に困るんだよね」
カウンターの男が口を挟んだ。「そうそう」と明弘が苦笑する。
「ね。いっつもここで働いてるの?」
紫乃が不意に、一矢に尋ねた。
「いっつもじゃないけど。たまに。でも最近はバイト始めたから、減ってる」
フライパンに刻んだ野菜を投げ入れながら答えると、体を起こしてカウンターの内側に回りこんできながら明弘が一矢と紫乃を見比べた。
「何だ。知り合いかよ」
「知り合いって言うか……まあ、知り合い」
「こんばんは。ヒロセです。広瀬紫乃」
「ども」
「これ、明弘。明弘も俺と同じで、時々ここで店員やってる」
「へえ」
簡潔に明弘を紹介すると、明弘は会釈だけしてグラスを取り出した。勝手に自分のビールを注ぎながら、にやっと笑う。
「へえ? 一矢が女の子連れて来るなんて珍し〜ぃ」
「……」
だからよせと言うのに。
知らず、鼻の頭に皺がよる。炒めている野菜に下味をつけながら、一矢は明弘に首を傾けた。
「あんた、前に一緒にライブ見に行ってるっしょ?」
「は?」
「D.N.A.のヴォーカルだよ。事務所が一緒なの」
その言葉に、紫乃が驚いた顔をした。
「えッ。来てくれたの? いつ?」
「あんたが楽屋で『大歓迎』してくれた時」
「『大歓迎』……え、あん時? だって神田くん、ひとりだったじゃん」
「ライブだけ見て、明弘は帰ったんだよ」
「ああ、あん時のね。ふうん〜?」
グラスを持って、明弘がまたカウンターを出て行く。紫乃の隣に腰を下ろして、にっと人懐こく笑ってみせた。
「へえ? よろしくね。紫乃ちゃん」
「紫乃、気をつけろよ。そいつ、そー見えて『R18指定』だから」
炒めた野菜を一度皿に移し、続いて鶏肉をフライパンに放り込みながら言う一矢に、明弘がライターを投げつけた。
「勝手に人間にレイティング・システムを導入してんじゃねえ」
「うお、あんた、俺に鶏肉とライター一緒に炒めさせてどうすんの」
「危ねえからやめろ」




