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In The Mirror  作者: 市尾弘那
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第15話(3)

(紫乃も、寝たかな……)

 煙草に火をつけながら、ぼんやりとそんなことを思った。

 帰りたくない――ひとりになるのが嫌だとはどういうことなのか、結局聞けないままでいる。一矢の想いが、紫乃に吐露することを躊躇わせているのだろうと言う気がした。

 それから、京子のことを思い出す。紫乃と武藤がOpheriaのライブに行って来たと言うことは、京子もあのハコにいたことは間違いない。そう考えれば、複雑だ。

 静寂の中、ただぼんやりと煙草を吸っていると、遠くで小さな物音が聞こえた。晴美に貸している部屋のドアが開いたのだと気づいた時には、紫乃が静かにリビングに姿を現すところだった。

「寝たんじゃなかったの」

 紫乃は、一矢が貸したトレーナーとスウェットを身につけている。その姿を目にしてみれば、一層複雑だ。揺れる胸中から目を逸らして煙草を灰皿に押しつけると、紫乃は小首を傾げながらこちらに向かって歩いてきた。

「ん……晴美ちゃんは寝ちゃったよ」

「良くしゃべってたみたいで」

「うん。晴美ちゃんの恋愛相談」

 やはり晴美には片思いしている相手がいるらしい。苦笑する一矢に、紫乃はテーブルのそばの床に座り込んで白い歯を覗かせた。

「なんか、懐かしい気がした」

「ふうん? あんたも恋愛で悩んでるんでしょ」

「……それは、そうだけど。教室とかって単語は出て来ないし」

「そりゃそーですが。……何か飲む?」

「ううん。ありがとう」

 それから捨て猫のような目つきで、煙草のパッケージをつついた。

「こっちのが欲しいかも」

「あそ。どうぞお好きに」

 一矢の返答に、紫乃は小さく「やたッ」と呟いて無邪気な笑みを浮かべた。

 その様子を見て、また胸の内が複雑な思いに沈みこむ。

 こんな時間に、一矢のトレーナーを身につけて一矢の部屋にいる紫乃、と言うのが、余りに現実味がなかった。

 けれどその無防備な姿が、妙に優しい気持ちにもさせる。不思議と、欲望めいたものは過ぎらなかった。晴美がいるいないに関わらず、自分は多分紫乃に何もしないだろうと言う気がする。

 彼女の気持ちを大事にしたいと思うのが、本心だからだ。

 男は、恐らく女性が思う以上に、臆病だと思う。

 好きだと思う相手には、嫌われるのが当然怖い。だから、次の一手に悩むし躊躇う。その結果、何ひとつ出来ないようなことは少なくない。漫画やドラマのように強引な手段に出られる男など、そういるものではない。臆病に悩んで、悩んで、悩んだ挙句何も出来ずに、次を待つのだ。

 その辺りを良くわかっていない女性の方が過剰な警戒を露わにすることで、却って男性の本能を煽ることになりがちである。「過剰な警戒は挑発と同じ」と言う、あれだ。

 そう言う意味では、紫乃の態度は真逆と言えた。

 紫乃は多分、一矢が紫乃の嫌がる真似など到底出来ないだろうことは、本能的に知っている。精神的な力関係は、圧倒的に紫乃が強者なのだから。

 晴美がいると言うのは大きいだろうし、それだけひとりの家に帰りたくなかったと言うのもあるのだろうが、これほど無防備にいられるのは、無意識に一矢に対して警戒する必要がないと知っているからだろう。

 それは、紫乃にとって一矢が男としての範疇に入るにはまだ足りていないと言う証拠でもあるのだろうけれど。

「神田くん、寝ないの?」

「ま、じきに寝ます」

「明日は? クロス」

「明日はゲネプロやるって聞いてますが」

「へえ? どこ? 『サン・クラ』?」

「どこですかそれ」

「芝浦にある『サウンド・クラウン・スタジオ』ってさ。結構ブレインの人、使ってるって聞くよ」

「ああそうなん? 俺らゲネプロってやったことないからわからんのですが」

「もしそうだったら、ウチと一緒。ウチも明日、午前中から『サン・クラ』行くから」

 片手で煙草を挟んだまま、抱えた膝に顎を近づけて笑う紫乃の笑顔が、素直に可愛いと思う。自然な姿を見せてくれていると思えることが、単純に嬉しい。

「にしても、ホントこの部屋って、夜景が綺麗だね」

「それだけが取り柄ですな」

「そぉ〜? 結構、シンプルにしてるんだね」

「いろいろ工夫するほど、この部屋に愛着がない」

「こうして見ると、渋谷も綺麗な街だなって気がする」

「そうかぁ? 俺にはそうは見えんけど」

「どう見える?」

「……」

 問われて、渋谷の街に目を向けながら、少しだけ答えを探した。

「……虚像の街」

「厭世観あるなあ」

「そう? みんな無理してるような気がしない?」

「……」

「楽しいフリして、どうでも良いフリして、分かり合ってるフリして……だけど、焦ってるような気がする」

 自分の居場所を見つけようとして、同じように彷徨う仲間を見つけて、自分を曝け出せないのにひとりになれないから一緒にいて――それの繰り返しをしながら、何をどうしたいのかをわからないままに焦って生きているような気がする。

 恐らくは気のせいだろうが、けれど一矢の周囲にいた人間は、少なくともそう見えた。

 ……自分と、同じように。

「焦ってるのかもしれないけど、焦ってるのは、悪い傾向じゃないよね?」

 ふっと煙を吐き出して、短くなった煙草を灰皿に押し付けながら答える紫乃の視線も、夜景の彼方に向けられていた。

「焦ってるってことは、真面目に考えてるってことだから。何かを探して。投げてる人は、焦りもしない」

「……うん」

「1回きりの人生だから、誰より自分の為に、ちゃんと生きたいって必死になってるってことだよね」

「……」

「だけどそうやって悩んでたら、きっと自分なりの答えが見つかるもん。……見つかったでしょ?」

 自分なりの答え――生きる意味。

 迷いのない真っ直ぐな眼差しを向けられて、一矢は小さく笑った。

「さあ。まだわかりませんな。俺にとって音楽ってのが生きる意味とイコールなのかどうか確信はない。……でも、間違ってたとしても、そうしてやろうとは思うけど」

「神田くん、何でドラム始めたの?」

 考えてみれば、互いに音楽をやっている癖して、その手の話をしたことはなかった。

「今の話の通り。生きる意味を求めて」

 出来ることと、やりたいこと。

 往々にしてそれは、重ならないことも少なくない。

 けれど一矢の場合は、それが一致している。他に出来ることがない代わりに、そこだけは同じところに重なっている。

「意外と、真面目に叩いてるよね」

 紫乃の評に、思わずずるりとソファへ崩れた。

「意外とって、アナタねえ」

「だって。すっごい軽い気持ちでやっててもおかしくなさそうだもん、神田くんのノリって」

「失礼な」

「うん。失礼だね。今はそう思ってない」

「……」

 少しずつ。

 ほんの少しずつではあるけれど。

 紫乃の中で、一矢への認識は形を変えているのだろうか。

 良い方向へ、変化をしていると思っても良いのだろうか。

 そんなふうに思っていると、再び窓の外へ視線を戻した紫乃が、前触れなくぽつりと口を開いた。

「今日、如月さんが来てた」

「……え?」

 元気がなかった理由、だろうか。

 気にはなっていたけれど問い質すつもりも別段なかったので、紫乃から話すとは思わなかった。それきり返答のない一矢に、紫乃が「はは……」と笑いながら顔を向ける。

「すべきじゃない話?」

「……言ったろ。聞けることは聞いてやるって。かなり本音だからご遠慮なく。……Opheriaのライブに?」

「うん」

 抱えた膝に顎を乗せる紫乃は、やけに小さく見えた。作り笑顔をしまいこんで、伏せた視線に寂しさが漂っている。

「最初は、関係者席で見つけて。……何か、場が場だから気まずくなるのも嫌だし、声はかけなかった。向こうが気づいたのか気づかなかったのかは、良くわかんない」

「気づくんじゃないの? 関係者席ってそんなでかくないっしょ」

「うん、そうだけど。あたしたち、Opheriaが始まってから入ったし、気がつかれたくなかったから、終わるちょっと前に席を離れちゃったし」

「ふうん……」

「でも挨拶は行かないとなって思って楽屋行って……駐車場に戻って来たら、如月さんの車があって……」

「……」

「寝ちゃってるみたいにしてたから、結局気づかなかったと思うけど……飛鳥ちゃんのこと待ってるんだなーって……」

「……」

 言いながら紫乃は、感情が込み上げたように一瞬歪んだ表情を見せた。それを隠す為か、そのまま自分の膝に額を押し付ける。くぐもった声が続いた。

「飛鳥ちゃんのことが好きで、飛鳥ちゃんの彼氏で、今飛鳥ちゃんが来るのを待ってるんだなあって思ったら……」

「……」

「ちょっと、泣けた」

「……」

「そしたら、神田くんと和希さんがいた」

 そこで紫乃は、顔を上げた。泣いてはいなかった。

「……帰れないって思ったんだ」

「うん?」

「あたし、これでまたひとりになったら、また元に戻ってしまう気がする」

「……」

「せっかく、少しずつ元気になったと思うのに。せっかくごはん、元気に食べられるようになって来たのにさ」

 そこで紫乃は、僅かながら笑った。無理に笑っているような印象は受けなかった。

「食ってる?」

「ん……。おかーさんのこととか、ごたごたあって……へこんだりとか、今もするのね」

「あそう……」

「うん。あたしってエゴイストだなーって思ったり、おかーさんの具合がまた悪化したらどうしようとか、如月さんと飛鳥ちゃんは今頃どうしてんのかなーとか。ホント考えちゃって……考えちゃうけど……」

「……」

「でも、神田くんに、ちゃんと食べろって怒られたし」

「……。言いつけを守っているようで褒めて差し上げましょう」

「……言いつけって」

 わざと上から物を言う一矢に苦笑をしてみせてから、紫乃はまた視線を窓の外へ向けた。目を細める。その瞳に映っているのは恐らく渋谷の夜景ではなく、先ほど見た如月の姿だろう。もしかすると、寄り添う飛鳥の姿の幻影も。

「でも、食べて寝るぞッ!!って決めて、そうしようと思ってるし、そうしてる。ちゃんと眠れるようにもなってきたし、ちゃんと食べれるようにもなってきてたよ」

「過去形にしなさんな」

「そうだね。うん……。でも、そう……だから、無理言って、ごめんね」

「無理って?」

「帰りたくないって。……晴美ちゃんが待ってるから、本当はきっともっと早く帰ろうと思ってたんでしょ? だけど、あたしが泣き言を言うから、妥協案で声を掛けてくれたんだと思ってる」

「……」

「甘え過ぎてるなあ、あたし」

「……わからんよ?」

 ここへ連れて来たことは、紫乃にとって迷惑ではなかったらしい。少なくとも晴美の存在が紫乃の気晴らしに少しは役に立てたのだろうと思えて、一矢は殊更軽い調子で舌を出した。

「何? わからんて」

「『らっきー。俺ん家連れ込んじゃおー』だったのかもしれません。下心満載で」

 からかっているのがわかったのだろう、紫乃は目を細めて睨むようにすると、言い返した。

「それで負けるあたしじゃないもん」

「……ああ、わかってるような気がします、それ」

「それに神田くん、無茶なことはしないと思う」

「何それ」

「『好きだ』って嘘はルール違反だと思ってるって言ってた。そういうこと考えられる人が、こっちの気持ちをまるで無視したことするとは思えないもんね」

「……俺は今、『あんたなんか男として警戒するに及ばず』と言われている気がしますが」

「そこまで言ってないっしょ!? 信用でしょ!? 信頼っしょ!?」

 潜めた声で勢い良く言う紫乃の言葉は、さりげなくはあったけれど、心の深いところに響いた。――『信用』『信頼』。

 それは、一矢の人間性を認めていなければ使える言葉ではない。

 男として考えれば、ひどく複雑な評価ではある。大概の女性には「危ない奴」と思われていると言うのに、寄りによって好きな相手に限って、自分に男の匂いを感じ取ってくれない。「安全牌」と言うのは決して喜べる立ち位置ではない。

 けれど、紫乃の言葉は、図らずも一矢を人として評価をしている言葉でもある。

(ああ、そうか……)

 ばしばしと自分の膝を叩いて力説する紫乃を見て笑いながら、先ほど自分の頭に過ぎった仮定の理由がわかった。

 晴美がいなかったとしたって、今日この場で紫乃に何かしようとは思わなかっただろう。――欲しいのは、彼女の体ではなく心なのだから。

 心の伴っていない体だけを手に入れたって、何も満たされないことは十二分に知っている。……知っている、はずだ。

「褒め言葉として、受け取っておきますよ」

 いつまで、こうしていられるだろう。

 いつまで、彼女がそこで笑ってくれるだけで幸せだと思うことが出来るだろう。

 ……まだ、大丈夫だ。

 けれど知っている。……人の欲と言うのは、形を変え、質を変え、きりのないものなのだと言うことを。


          ◆ ◇ ◆


「昨日、どうだった? ライブ」

 紫乃が一矢の部屋に泊まった翌日、Grand Crossは9時にブレインに来るように言われていた。紫乃のD.N.A.の方が更に遅いので、鍵などは晴美に任せて先に家を出た一矢は、他のメンバーと共に9時半には芝浦のゲネスタに放り込まれていた。

 5月に、Grand Crossは、大手業界団体が主催するライブイベント『MUSIC CITY』に出演させてもらうことが決まっている。

 今日のスタジオ入りは、そのライブへ向けてのゲネプロだった。

 Grand Crossのローディとして田波と言う男性や、『MUSIC CITY』からサポートをしてくれるマニピュレーターの境など、新しい人材も導入され始め、「おぉ? ようやくプロなのか?」と言う匂いがし始めている。ロードランナーの藤野も後で顔を出すと聞いているし、少なくともアマチュアの時にはこれほどの人が手を貸してはくれなかった。

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