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In The Mirror  作者: 市尾弘那
55/83

第15話(1)

 遠くで微かに聞こえる音で、深い眠りに沈んでいた意識が僅かに浮上する。

 けれどそれは完全に眠りから覚めさせるほどのものではなく、どこか遠くの音を認識しながら、一矢は夢の淵を彷徨っていた。

 ……のだが。

「かぁっずやくーーーんッ。起きて起きてーッ」

「……………………………………………………」

 盛大にまどろみをぶち壊され、強引に夢の淵から叩き出されながらも、尚眠い目を枕に押し付けて、ある意味暴力的な侵入者に抗議の声を上げる。

「……て」

「えッ!? 何ッ!?」

「……もう少し寝かせて……」

「駄目ッ」

 一矢の切実な要望を短く一蹴すると、侵入者――押し掛け従妹の晴美は一矢の布団を剥ぎにかかった。

「朝ご飯冷めちゃうよぉーッ。早く早く」

「……作ったの……?」

「うんッ。早くねッ。待ってるからねッ」

 そう言い残して晴美が出て行くと、まだ完全に寝ぼけた頭のままで小さく唸る。薄く目を開けて枕元の時計を見ると、時計は8時を指したところだった。

(早ぇだろ……)

 ビデオ店のバイトを終たのが、朝5時。帰り支度を整えて家に到着したのが、概ね5時半過ぎ。シャワーを浴びて眠りについたのが6時前くらいだとすると、睡眠時間は2時間と言う計算になる。一矢的には、まだ深夜である。

「一矢くーんッ。コーヒー飲むーッ!?」

 全身に残る重さにベッドに沈み込んだままでいると、開け放したドアの向こうから晴美が鼻歌交じりに何かしている音が聞こえた。コーヒーなんぞいらんから放っておいてくれと言いたいが、好意でやってくれているのだろうと思えば言うに言えない。仕方なしに、ずるっと体を無理矢理起こす。

 晴美が押し掛けて来たのは、昨夜のことだった。ビデオ屋のバイトに出る前に一度家に戻った一矢を、部屋の前で待ち受けていたのである。相変わらず「事前に連絡しなさいよあんた」と言いたいところだ。無論、帰って帰れない場所に家があるわけではないので、一矢が捕まらなければ今回は家に戻るつもりがあったようだが、まんまと捕まってしまったと言うわけだ。

 今回は、家出ではないらしい。「1日、2日ならまた来てもいいから」と言った一矢の言葉を盾にとって、堂々の外泊である。言わなければ良かった。

「一矢くーん?」

「あー、はいはい、今行きます。いただきます」

「コーヒー?」

「もらいます」

 返事のない一矢に、しびれをきらしたらしい晴美がまた部屋を覗く。ベッドの上に片膝を立ててついた片手を前髪に突っ込みながら、うなだれてようやく返事をすると、晴美は満足げに「早く来てね」と言い残すとまたキッチンへと戻っていった。まるで新妻だ。

 昨日は、金曜日だった。

 今日明日は土日で、晴美も学校が休みだ。どうやら日曜までいる気満々のようである。非常に迷惑である。

「おはよ……」

 仕方なしに置き出してリビングへ足を踏み入れると、ガラスのローテーブルの上に眩しいほどの朝食が並べられていた。トースト、プレーンオムレツ、ボイルドソーセージ、サラダ、カップスープ……。朝食を摂る習慣のない一矢には、いささか重い。と言って、拒絶出来ない。

「凄いね……どしたの。材料なんかあった?」

「おうちから持参して来たんだもん。明日の朝ご飯も作れるよ」

「……そりゃどうも」

「ねぇねぇ、一矢くんさあ、ダイニングセット買いなよ」

「……」

 どこにそんな金がある、である。

「あんたは俺のヨメさんかい」

「だってー。こう、お洒落なダイニングテーブルとダイニングチェアーがあって、ランチョンマットなんか敷いて大きなミルクボトルなんか置いたらお洒落なのに」

 どこのインテリア雑誌だ。

「そんなもん、普段誰が使うの」

「あたしがまた遊びに来てあげる」

「……」

 同棲している彼女でも妻でもなく、恋愛対象に入らない中学生の従妹の為にダイニングセットを揃える馬鹿は聞いたことがない。

 反論する気をなくしてまだどこかぼーっとしたままで床に座り込むと、晴美がいそいそとコーヒーカップを運んで来た。芳しい香りが鼻腔をくすぐり、ようやく少しだけ頭が目覚めてくる。

「ありがと」

「あたし、いいお嫁さんになれる?」

「なれるなれる」

 強いて言えば、もう少しこちらの睡眠状態を慮ってくれると一層ありがたい。

 そんなことを思いながらカップを口へ運び、テーブルの下からテレビのリモコンを漁る。スイッチを入れながらしみじみとテーブルの上に並んだ皿を眺め、つい感心した。

「腕、上げたんじゃないの。家で手伝いとかしてんだ」

「してるよー。ほら、冷めちゃうよ、食べようよ」

「あぁうん……いただきます……」

 胃袋が動かない。

 半ば自分に強制してフォークに手を伸ばす。最も軽そうなサラダのレタスを突き刺しながら、食欲旺盛な従妹を眺めた。

「お料理の腕は上げておかないとね」

「ふうん。好きな男でもいるんだ」

「いいいいいないようるさいなあ」

 思いがけずあからさまな動揺を目にして、思わず一矢は吹き出した。なるほど、どうやら自分は練習台のようだ。恋に夢見るお年頃としては、理想の部屋でひとり暮らしをする手近な従兄相手にシミュレーションである。

「ごめんね、ここにいるのが俺で」

「変なこと言わないでよおッ」

「いつか素敵なお嫁さんになれるように頑張ってね」

 言いながら、いつかも同じようなセリフを吐いたような気がした。あれは、そう……紫乃がウェディングドレスに見惚れている時だったか。

(……)

 恋愛の悩みなど、いくつになっても変わらないのだろうか。いや、もしかすると低レベルになっているのかもしれない。

 中学生の従妹が恋の成就を夢見て料理の腕を上げていると言うのに、ハタチを越えた自分は何の進歩もないのだから。

「同じクラスの男?」

 のろのろと食事を口に詰め込みながら尋ねると、繊細な思春期の晴美は思い切り顔を顰めてテレビに顔を向けた。

「いないってばー」

「さっきいるって言ってましたけど」

「誰がッ!? 言ってないじゃんッ」

「あなたの顔が」

「男の一矢くんには教えてあげないッ」

「男女差別ですか?」

「差別じゃないもん。区別だもん。もう嫌い。口利かない」

 純粋な乙女心をからかうような一矢に完全にむくれた晴美は、ぷいっとそっぽを向いてテレビを見ながら黙々と食べていたかと思うと、突然けろっとした顔で口を開いた。

「あ、そうだ。一矢くん、今日は仕事?」

「……今、口を利かないとかおっしゃってました?」

「もうおしまい。ねえ、仕事?」

「そうですよー」

 カップスープを口に運びながら、今日の予定を頭で確認する。

 14時半にブレインに行き、和希と佐山と落ち合って動画サイトのコメント録りがある。ついでに言えば、同社が発行しているフリーペーパーにも掲載してくれるとのことで、写真撮影が入るだろうと聞いていた。いずれにしても、それほど遅くなるようなものではない。

「ふうーん? 遅くなるの? お夕飯、どうする?」

 本当に新妻のようである。

「遅くはなんないけど、夕飯はわかんないから適当に食ってていーよ。晴美こそ、今日どうすんの」

「晴美はごはん食べたら友達と遊びに行く」

「あ、そう。気をつけてね」

 無理矢理朝食を胃袋にしまいこんで、やがて晴美が宣言通り家を出て行くと、それを見送った一矢はやれやれと伸びをしながら部屋に戻った。もう一度寝直そうとあくびを噛み殺しながらリビングに戻り、思わずそこで足を止めた。

 今出て行った晴美がまた夜になれば今日はここへ帰って来るのかと思うと、面倒臭ぇと思う反面、心のどこかが和んでしまう。

 リビングのソファの上に放り出された晴美の少女漫画を取り上げてテーブルの上へきちんと置き直しながら、複雑なため息を落とす。

 思えば、心境の変化の第一歩は、晴美の家出にあったのかもしれない。

 あの時――短い擬似家庭生活で、そばにいてくれる誰かのありがたさを……思い出してしまったのは、確かなのだから。


          ◆ ◇ ◆


「この前楽器屋覗いたらさぁ、面白いものがあって買ったんだけど……」

「ふうん。何」

「ノイズ・リダクション。俺みたいな音作りより、それこそ如月さんみたいな音を出す人の方がお役立ちかもしれないけどさぁ……家で使ってみてかなり良い感じで……」

「お待たせー。じゃあ最後の撮影しよっかー」

 コメント録りを行うのは、動画サイトを運営している会社の会議室である。

 15時過ぎに佐山の運転で到着した一矢と和希は、打ち合わせから撮影、フリーペーパーに記載する記事についてと写真の撮影と短い休憩を挟みながらこなしていた。

 既に日は落ち始めていて、18時を回ろうとしている。

「どこ? 外?」

「外でちょっとこう歩いたりとかして、プライベートな感じ? そういうイメージで行こうよ」

 音楽やミュージシャンを扱う企業にも、いろいろなところがある。

 大手もあれば中小企業もあるが、音楽市場自体がそもそも余り大きな業界ではないので、大手と言ってもたかだか知れている。そこから更に中小企業となれば手弁当で仕事をこなしているようなところも多く、Grand Crossのような無名アーティストを扱ってくれるところで大手はほとんどないと言って良い。

 逆に言えば砕けた気さくな人も少なくなく、仕事も概ねフレンドリーな空気感で進められていく。

 全ての仕事を終えて解放されたのは、19時を回ってからになった。

「和希くんたち、どうする? このまま送って行こうか?」

「メシでも行く?」

「ああ、そうだね。腹も減ってきたし。……俺、21時頃には帰らないとまずいけど、平気?」

「平気。俺もあんまり遅くなれない」

「んじゃあ……いーや。ここって駅まで遠くないでしょ。歩きながら店探そうよ」

 恵比寿にある会社を出て佐山の車を見送ると、夕食をどこかで摂っていくことにして和希と歩き出す。左側を走る太い道路は明治通りだ。相変わらず、車通りが多い。

「21時頃には……って、何で? 何かあるん?」

 とりあえず駅の方角へと歩道を歩きながら尋ねると、和希はやや照れ臭そうな表情を浮かべて口をへの字に曲げた。

「まあ……由梨亜のバイトが終わるのがそのくらいって話で」

「ああ。21時で間に合うの?」

「うん、平気。ここから近いから」

「どこ?」

「渋谷。美冴ちゃんがバイトしてるファーストフードの店で……道玄坂の方の……」

「ああ。俺、場所知ってる。んじゃあちょうどいいじゃん」

「うん。21時頃になったら由梨亜のバイト先の方に行って、一緒に帰れるかな……」

 恵比寿にはわりと洒落ていて美味しい店が少なくない。とは言え和希と2人で洒落た店に腰を落ち着けるのも妙と言えば妙だし、和希の時間にも限りがあることだし、「食う」を目的に混んでいない適当な店を物色する。

「渋谷戻って由梨亜ちゃんのバイト先でもいいけど……」

「いや、ちょっとそれは何か……急かしてるみたいで嫌だし」

 要は照れ臭いらしい。付き合って数ヶ月経つはずだが、らぶらぶのようで結構である。腹が立つ。

 無言で足を進めながらそ知らぬ顔で和希を肘で小突く一矢に、和希が小さく「いてッ」と呻くのが聞こえた。

「何するんだよ……」

「そのアマアマな雰囲気がむかついたもので」

「あのなあ……」

「んで、どうする? この先どんどん店が減っていきますが」

「あー……けどさ、この時間の駅前の店って、どこもかしこも混んで見えるんだよね」

「実際どこもかしこも混んでますわ。……どーしよっか。ラーメンみたいなもんでも別に……」

「そうだね……。一矢は? 今日この後何かあるの?」

 視線は並ぶ店に向けながら尋ねる和希に、一矢は小さく舌を出した。

「何もないんれすけろね。中学生の従妹が押しかけてきちゃってるもんで」

「へえ? 仲良いんだ?」

「別に良かないけど……要は俺の部屋が気に入ってるみたいで」

 顰め面の一矢に、和希が笑った。

「ああ。若い女の子ってああいうスタイリッシュな部屋、好きそうだもんね」

「『若い女の子』って……あんたはおっさんか……」

 答えながらふと向けた視線の先で、歩道に何人か人がたまっているのが見えた。その前にはわりと駆け出しのプロなどが良くやるようなキャパのライブハウスがあるので、恐らくはそこから出て来た客なのだろう。ちなみに、Grand Crossにはワンマンではまだ手が出せないようなハコである。

 誰がやっているんだろうなどと何気なく思いながら通り過ぎかけて、思わず足が止まった。一矢の左手には、関係者用の駐車場への入り口らしきところが門越しに垣間見える。

「あれ? 紫乃ちゃん」

 一矢の視線を追って気づいたらしい和希が、声を上げた。その声が届いたのか、紫乃が顔を跳ね上げる。背の高い庭木と塀に挟まれた格子状の狭い門の向こうからこちらを見つけ、驚いたように声を上げた。

「和希さん。神田くん」

「お疲れさま。どうしたの?」

 出演者と言う風情ではない。恐らくは招待されたのだろう。そんなことは別に、どうでも良いのだが……。

「どした? お前」

「は?」

「……いや。何でもないや」

 顔色が悪い。いや、顔色が悪いと言うのとは少し違う。憔悴していると言うか……疲れている、そんなふうに見える。

 和希のいる場で問い質すのも気が引けて問いを引っ込めた一矢に、近付いてきた紫乃が首を傾げた。近くで見れば、一層元気がなさそうだった。

「どうしてそんなところでぼんやりしてたの?」

 鈍い和希が尋ねると、紫乃は「へへ」と小さく微笑んで和希に答えた。

「メンバーのじじと一緒に来てて。駐車場からこっちに車を回してくるのを待ってるんです」

「ああ、そうなんだ」

 和希がのほほんと答えたところで、紫乃の後方に車が現れるのが見えた。見覚えのあるインスパイア……武藤の車だ。

 武藤の車は駐車場から出て来て出口方向へ車を回すと、紫乃の背後で停止した。運転席の窓が小さな音を立てて、下りていく。

「おぉ、一矢」

「おつ。何? もう帰んの?」

「うん。えぇと、初めましてやな?」

 後半のセリフは、和希に向けられたものである。門を間に挟んだままで、和希が微笑んで答えた。

「直接会うのは。D.N.A.の武藤さんですよね。ベースの」

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