第14話(1)
いつも通り、集合時間の指定より10分ほど遅れ気味に嶋村家に到着して単車を押し入れていると、ちょうど家から出てきたところらしい嶋村家のお嬢さんと目があった。
「おりょ。お久しぶり」
「相変わらず遅刻なの? あんた」
「あなたに言われたくない」
Grand Crossの元キーボーディストは、スタジオと同じ敷地に住んでいるくせに、到着するのはいつも1番最後だった。
「今からお出かけ?」
片手でちゃらちゃらと鳴らしているのは、美保の愛車ポルシェの鍵だろう。
「ふふん。特注のブーケを選びに行くの」
「あ、そう。いーわね、セレブでね。おべべの方はもう決まったの」
からかっているんだか小馬鹿にしているんだか、と言うような一矢の口振りに、美保が顔をしかめる。
「ドレスは今作ってるわよ」
「式、いつだっけ」
「4月。だけど、呼ばないわよ。クロスの連中」
はあっとため息混じりに美保が言う。
「呼べるような式じゃないのよ。どっかの企業の偉いおっさんばっかでさ。見せもんよ、見せもん。全く、誰の為の式なんだかわかりゃしない」
「……そりゃあご愁傷様」
「だからその後に仲間内でパーティやるから、そっちには、来てよね」
「啓ちゃんも呼ぶんだ」
地雷と知りながら踏む一矢に、美保がもの凄い目で睨みつけた。
「……殺すわよ」
「……いやん。目隠しされて革紐で縛られて鞭で打たれるのかしら」
「今、予行演習してあげようか」
鋭いヒールの踵をこれ見よがしに掲げる美保に、ひきつって数歩後じさる。
「いや、ヒールで踏まれる趣味はちょっと……」
「結婚前にいろんなプレーを楽しんでおくことをお勧めするわ。目覚めるかもよ」
「野外でヒールって……それ、ただの暴行とか言いませんか」
幸せな結婚を控えた女が、自分の家の庭で男に暴行を加えるのはいかがなものか。
両手を軽く挙げて後じさる一矢をひとしきり睨んでいた美保は、やがて、ふっと目を伏せてため息をついた。
「まさか、ひとりだけ呼ばないわけにいかないでしょ。見せつけときゃあ、かえって諦めもつくんじゃないの、あたしも」
「へえ?」
意地悪く問い返す一矢に、美保が手にしたハンドバッグを投げつけた。
「うわ。……ならいーんだけど。足止めして欲しきゃしてやろか」
「どうやってすんのよ」
「うーん。これから考えます」
啓一郎を想ったまま、他の男との結婚祝いをされても複雑だろうと思ったのだが、逆に良い区切りにもなるだろうか。
無頓着に無自覚に心から祝福しそうな啓一郎を思い浮かべて、残酷だと言う気がしつつも、本人は何も知らないのだから仕方がないとも言える。
「いーわよ。今更でしょ」
拗ねるように言う美保の言葉に、さいでっかと短く答えていると、美保がため息混じりに呟くように口を開いた。
「幸せって、何なのかなあ」
「……まだ寝起きの頭にそんな難解な問いを投げんで下さい」
「結婚することになってさ。……いろいろ考えちゃうわけよ」
「この人でいーのかしらとか?」
「うー……ん」
美保の結婚相手は、父親の企業を継ぐ人間で決められた相手ではあるが、確か美保自身も決して嫌ってはいなかったはずだ。一矢は会ったことなど無論ないが、優しい人だと聞いていたような気がする。結婚相手として不満はないと。何より、美保のことを相手の方が気に入っているらしい。
「あんた、何で結婚決めたの?」
「何でって……決められたものだもの」
「拒否権、あったんでしょ」
聞く限り、美保の父親は娘たちに甘い。美保が強硬に拒絶すれば折れるだろうと思うくらいに。
結婚の話も、Grand Cross脱退の話も、結局のところ、美保が望んだ結果だろうと思う。
図星だったらしく美保が、押し黙った。
「好きになってくれる人のそばにいた方が、幸せなんだろうなって気が、したから」
しばらくして、美保が答える。
「ふうん。あなたは啓ちゃんに何のアクションもなかった気がしますが、何で?」
「出来るわけがないじゃない。こっち向くと思えなかった。あたしをそういうふうに考えたことなんかないことくらい、見てりゃわかるよ。揉めるの、嫌だもん」
その気持ちはわかるのだが。
何ごとでも、自分自身が何らかの思い入れを持っていれば、感じることや考えることが増える分、しんどさも疲れも増すのだろう。
そう言う意味では、自分が想う相手のそばにいるより、自分を想ってくれる相手のそばにいて、相手の想いに委ねてしまった方が確かに楽だろうと言うのはわかる。
一矢など、『自分も相手も思い入れない相手』との関係ばかりを望んで来たのだから、尚更だ。
「自分が好きでそばにいたら、疲れる。傷つくのも嫌だし、疲れるのも嫌。……好きになってくれる人のそばにいる方が、良いと思った」
「……」
「見てるだけで良い。友達なら、ずっとそばにいられる。一番じゃなくても、誰より遠くなることも、ないはずだもん」
恋愛が絡まると、最もそばにいられたはずの人間が、最も遠くなる場合がある。以前一矢が恐れていたのと同じ理由だろう。最も深い傷は時に、最も近い人間につけられるのだ。
けれど、今の美保の言葉は、聞いていてどこか痛々しい。本当にそれで良いのかと思う。啓一郎が一矢を「じれったい」と評した理由が、わかる気がした。どこか歯がゆい。
「幸せになりたいんだもん。……あたし、間違ってないよね」
無言の一矢に、美保が不安げに尋ねる。
麻美が前に一矢に、「全く傷つかない恋愛はない」と言った。それは、相手を自分が好きになって始める恋愛でも、好きと思ってくれたから始めた恋愛でも、いずれの場合をも含むのだろう。
だとすれば――どうせ傷つくものならば、自分が好きになった人の為に傷つきたいと考え始めている。そう思ったからこそ、紫乃に気持ちを伝えた。
けれど、結論を出してしまった今の美保にそんな自分の考えを話すのは、彼女に後悔を植え付けるだけのような気がする。
一矢は、頷いた。
「間違ってないんじゃない」
「そうだよね」
「うん。……余計かもしんないけど」
口にするのを、少し躊躇う。
余計な一言かもしれない。
けれど、諦めなければならない立場に自分を追い込んだ美保には、必要なことかもしれない。
何より、いずれは耳にすることだろう。本人からあっけらかんと告げられるよりは、一矢の口から耳に入れておいた方が、ましのように思える。
「啓一郎、彼女、出来たよ」
美保が無言で目を見開いた。凍り付いたままで一矢を見つめ、やがて、笑みに似た表情をぎこちなく作った。
「そう……あゆなちゃん?」
「うん。知ってた?」
「知らなかった。……でも、わかるよ。あゆなちゃんが啓一郎を好きなのは、見ててあたしだってわかってたもん」
そう小さくため息をついて、目を伏せる。
「知らない方が良かった?」
言ったことを少し後悔して尋ねると、美保は泣き笑いのような顔で、首を横に振った。
「ううん。知らないより、良かった」
そう言って、小さなブイサインを作り、目を細める。
「余裕。誰だと思ってんの? 結婚を控えた幸せな花嫁だよ?」
「ま、ね」
「うまくいってくれりゃあ、あたしは、それでいーわ」
最初から諦めていても、やはり痛いのだろう。歪みそうな顔を、殊更何でもないように保とうとする姿が、後の自分のように思える。
紫乃が神崎と寄りを戻せば良いと言ったって、嫉妬心が湧くのは止めることなど出来ないだろう。
「……『幸せ』ってのはさ」
一矢は、美保のように決められた結婚を強いられる筋合いでもなければ、歩くルートが定まっているわけでもない。美保の本心を、本当の意味で推測するのは難しいが、それでも少しは美保の気持ちがわかるような気がする。少なくとも、少し前までの一矢は、美保の先ほどの言葉とほぼ同じように……いや、より一層臆病に考えていた。
「『もらう』もんじゃなくて、『作る』もんなんじゃないですか」
「……」
やや目尻の上がった目を僅かに潤ませる美保に、一矢はにこっと笑って見せた。
「『見つけよう』とか、『誰かからもらおう』とか思うから、『幸せになりたい』って言う他力本願的な発想になるわけで」
「……」
「『ないなら自分で作っちゃお』って思っとけば、『幸せになってやる』って言う、ちと能動的な感じになるのかもしんない」
「……あんた、いつからそんな前向きくんになったの?」
美保の言葉に、一矢は思わず本気で吹き出した。前向き――なんて自分と真逆に位置する単語だろう。
「残念ながら、俺は前向きって奴とは無縁の生き方をしてると思われますが。思いつき。今、ふとそう思った。……あんたを見てて」
「あたし?」
「『幸せな花嫁』なんでしょ」
「……」
「啓一郎のそばにはいらんなかったかもしんないけど、あんたには信吾ちゃんがいて、2人で未来を築こうねって約束してるわけだ。そんで旦那さんは、あんたのこと、好きなんだから」
「……うん」
「だから、2人で一緒に『幸せを作って』いけばいーんじゃないですか。……長い人生なんだから、焦る必要、ないでしょ」
刹那を求めようとするから、明日が見えなくなる。
今欲しいものを、今すぐ手に入れようと思うから、絶望を感じる。
人生は長いのだ。1人で歩いていくのではなく、2人で歩いていくことを決めた美保には、もう焦る必要はないような気がした。
死ぬその時までに『幸せ』を作り上げれば、良いのだろう。きっと。
どれもこれも手に入れようと思わなければ、それはそんなに困難なことだろうか?
「嫌なこともあるだろうし、飽きたりとかそういうのもあんのかもしんない」
「……」
「だけどさ、棺桶入る時に『ああ、幸せだったなあ』って思ったもん勝ちで、そこを『幸せ』って奴のゴールにすれば、意外にそんなに困難でもないかもよ?」
「うん……そうだね」
「餞。一応」
そう笑った一矢に、美保も笑みを返した。どこか泣きそうなのは変わらないが、それでも先ほどよりは幾分か上向いたような顔つきをしていた。
「餞に『棺桶』って単語、出て来ないよ、普通」
「ああごめん、俺、普通でないので」
誰も彼もが幸せを求める。
誰も彼もが、そばにいてくれる人を望む。
それはきっと、人が人らしく生きる為の本能なのだろう。
けれど一矢は、与えられないことを知っている。『幸せ』を他人からもらうことは出来ないと言うことは、多分随分前から知っている。
だからそれを放棄しようと思っていたけれど、今気がついた。もらえないのなら、作れば良いのだ。自分で。
他人に期待をするから、受ける傷が怖いのだ。それはわかってはいたけれど、だからこそ投げ出すことを望んでいたけれど……まるごと投げ出してしまう必要は、ないのではないだろうか。
周囲に変わることを強制することは出来ない。想ってくれない相手に、想ってくれるよう強制することは不可能だ。
けれどきっとそれは『不幸』とイコールではない。『幸せが手に入らない』と決めつける理由にはならない。
人は、感じ方の変化で、映る世界が変わる生き物だ。考え方ひとつで、幸せは手に入るように出来ているのだろう。
具体的な手段や考え方など一矢にはまだわからないけれど、それに気づいただけでも、何かが少し、違うかもしれない。
「じゃあ、端的に言い直し」
泣きもするだろう。
怒りもするだろう。
欲も僻みも妬みも消えはしないだろう。
けれど、人は変わるように努力出来る生き物だと言うことも、知っている。少なくとも一矢は、幼少期の地獄から抜け出す努力をして今がある。
だったら、未来も、変わるかもしれないだろう? ――自分で、『幸せ』とやらを作りだせるように。
美保の今の痛みは、間違いなく永遠には続かない。
……自分がいつか受けるだろう痛みも、永遠には、続かない。
「お幸せに」
端的に言い直した一矢の心からの言葉に、泣き笑いのように、美保が、頷いた。