第2話(1)
目が覚めたら、9時20分になろうとしていた。
(……)
いつ潜り込んだのか良くわからない自室のベッドの、枕元で無表情に時を刻む目覚まし時計を見つめる。そのまま少し、ぼんやりした。やがてゆっくり頭が働いてくる。
「………………………………………………」
今日は、何日だっただろう。
(1月8日……)
そこまでぼんやりと考えて、それからがばっとうつ伏せた体を起こした。
「やっべー」
一矢たちGrand Crossが所属することになった音楽事務所ブレインは、事務所としては少々珍しいことに、自社アーティスト専用のスタジオを内蔵している。そして今日から事務所のスタジオ入りだ。西新宿に10時。まだ間に合える。危うく寝過ごすところだった。
昨夜は『listen』に、また新年会の予約が入っていた。と言ってもテルのミュージシャン仲間ばかりが集まっている、気楽なものだ。自身もミュージシャンである一矢はその類のノリに慣れているし、ついつい一緒になって朝まで盛り上がってしまった。と言うか、良く家に帰って来られたなと感動さえしたくなる有様だったのだ。仕事に間に合う時間に目が覚めたのはまさに奇跡である。
「やべー……危ねー……」
ひとりごちながらベッドを飛び出した。いつも通りなら用意にさして手間はかからない。が、帰ったそのまま寝こけていたのだから、5分で良い、簡単にシャワーくらいは浴びておきたい。
慌ただしくシャワーを浴び、準備を整える。鍵とスネアケースをひっつかんで部屋を転がり出た時には、40分になろうとしていた。まだ許容範囲、だが道が混んでいると危ない。
(さすがに初日から遅刻はやべぇよなあー)
また啓一郎に噛みつかれそうだ。顔の割に気の短いヴォーカルの顔をつい思い浮かべながら、苦笑した。エレベーターのボタンを押して、直接地下の駐車場へと降りる。
Grand Crossはバンドで車を所有している。アマチュアバンドが本気でプロを目指そうと思えば、車の1台でもなければどうにもならない。器材と自分たちを一切合切詰め込んで、自分たちであちこち行ってライブ活動を重ねていく以外ないのである。どれだけボロ車であろうと、スクラップ寸前であろうと、動く以上は必須アイテムだ。その、Grand Cross愛用のボロバンが、一矢のマンションの駐車場には鎮座ましましていた。一矢自身の単車は、その隣にひっそりと肩身が狭そうに停められている。
単車を駐車場から引きずり出し、路上に出てから跨っていると、前方からこちらへ歩いてくる人影が視界の隅にちらりと映った。構わずエンジンをかけかけて、動きを止める。
(……あ?)
顔を上げて、被ったフルフェイスのヘルメットのシールドを押し上げる。
「晴美ちゃん!?」
「あ、一矢くんー」
上げた声に答えたのは、中学生くらいの女の子だ。久我朋久の妹であり、一矢の従妹である久我晴美である。事実中学生の彼女は、一矢の8歳年下で、現在中学1年生だ。朋久と晴美の間にもうひとり、19歳の秋菜と言う従妹もいる。末っ子らしくのほほんとした晴美と違ってどこかつんけんした女子大生で、一矢とはあまり折り合いが良くない。が、晴美は兄と仲の良い従兄をそこそこ慕ってくれているようである。身内に恵まれない一矢にとって、どこか妹を思わせる存在だ。
「何してんのこんなとこで」
「一矢くん家に泊めてもらおうと思って」
「はあ!?」
とことこと近付いてきた晴美は、一矢の問いかけにぷうっとまだ幼い頬を膨らませた。
「何それ」
「秋菜ちゃんと喧嘩したんだもん」
「で、何で俺ん家?トモさんとこ行きゃ……」
いーじゃん、と言いかけて、言葉に詰まった。
秋菜と晴美は実家である中板橋のマンションに住んでいるが、朋久は既に家を出ている。練馬の方だから別にそれほど遠くもない。
が。
(今彼女と住んでるんだっけ)
先日会った時にそんなことを言っていたような気がする。
その辺りは晴美も知っているらしく、飲み込んだ一矢のセリフの続きを引き取った。
「トモ兄は今女の子と住んでるから駄目」
「あー……」
そうだよなあとのんびり思いかけてはっとした。
しまった、自分は急いでいたのではなかったか。
「やべえ。俺、今時間ないんだった」
「あ、そう言えばどこか行くふうだね」
そう言えばも何も、単車に跨って自宅の駐車場から出てきて、家に帰るわけがない。出かけるに決まっている。
「そう。俺、今から仕事行くの」
「仕事してるの?」
「うッ……」
いくらバンドとしてメジャーデビューが決まったとは言え、まだあまり威張れた状態ではない。多くを語りたい気になれず、咄嗟に言葉に詰まった。
「……い、いろいろあるのッ」
「あ、そう?まあいーや。出かけるなら出かけてもいーから、おうちいてもいーい?」
「別に構いやしないけどさ……せめてトモさんに連絡くらいしとけよ」
仕方がない。うだうだ言っているとどんどん遅くなる。現時点で既に遅刻は確定となった。
諦めてキーケースから自宅の鍵を外すと、晴美に渡す。
「もし出かける時はポストん中に鍵入れといて。んで、あんまりあっちこっち部屋の中を弄繰り回さないよーに!!」
「へっへー。えっちな本とかあったらどうしよう」
「そんなもんは好きなだけ参考資料として勉強に使って下さい。んじゃ、俺、行くよ」
「はーい」
とんでもない返事を返して、一矢は改めて単車のエンジンをかけた。
「いってらっしゃーい」
新妻のような従妹の言葉に送り出されて、内心焦りながら明治通りを駆け抜ける。全く予想だにしない足止めをくらってしまった。おかげで西新宿の事務所に到着した時には、既に集合時間として指定された10時を10分ほど回ってからとなってしまった。
(やべーやべーやべー)
普段ならこれほど気にしないのだが、今日はプロデューサーである広田がスタジオに来ると聞いている。さすがにまずいだろう。やる気がないと思われてはたまらない。事務所の中に飛び込んで階段を駆け上がろうとし、逆に下りてきた人物とぶつかりそうになった。危うく踏みとどまる。
「ご、ごめんね」
相手が若い女の子だと認識した瞬間、馴れ馴れしい言葉遣いになるのはもはや習い性のようなものだ。咄嗟に謝ってから、驚いたように立ちすくんでいる女性の顔に見覚えがあることに気がついた。
(あれ?)
ほっそりした華奢な感じの体つき。綺麗目の大人しそうな顔とさらっとしたショートヘア。
(誰だっけ)
ナンパでもしただろうか。綺麗だからありうる……と考えて、既視感を感じる。以前にもこんな感じがあった。
(……あ?)
フラッシュバックする光景は、ライブハウスの階段。泥酔した女の子。確か、彼女が……。
「……キョウコちゃん?」
「え!?」
間違いない。以前ライブハウスで泥酔して動けなかった女の子だ。記憶を掘り起こして名前を口にした一矢に、キョウコは驚いたように目を見開いた。
泥酔していたせいか、あの時は随分わがままな態度をしていたようだが、こうして見るとそうでもない……むしろ、大人しい女の子のように見える。そのせいで印象が違い、ぱっと見てわからなかった。
「どうしてわたし……」
「あ、そーか。キョウコちゃん、べろべろだったから覚えてないんだ」
「べろべろ?」
オウム返しに問い返してから、キョウコは心当たりを思い出したらしい。ばーっと一気に赤くなった。両手で口を押さえて一矢を凝視する。
「え、まさか」
「と、やべ。俺、遅刻してんだ」
「あ、あのッ……」
また忘れるところだった。腕時計に目を落として呟くと、一矢はまた階段を駆け上がり始めた。踊り場まで上りついて、硬直したように一矢を見上げていたキョウコの上げた声に振り返った。
「え?」
「あああああの、あの時、その……」
真っ赤になったまま一矢を見上げるキョウコは何か言いたそうだ。もしくは、何か聞きたいか。
……これは。
どうやら、『あの夜のこと』を良く覚えていないらしい。そう判断して、へろっと舌を出す。
「可愛い寝顔だったよん、キョウコちゃん」
「……!!!!」
「じゃあね〜」
このくらいの意地悪は許してもらいたい。ひらっと手を振って、キョウコをその場に残したまま一矢は更に階段を駆け上がった。
駆け上がりながらふと、目を瞬いた。
(あれ……?そう言えば……)
どうしてキョウコは『ここ』にいるのだろう……。
◆ ◇ ◆
「……あ、もしもし?トモさん?……うん。そう。聞いた?……え?うーん……俺は別に構わないんだけどさ……秋菜がうるさいんじゃないのー?……うん。迎えに行ってやってよ。……鍵?あー……ポスト、入れといて」
片手でスティックをスティックケースにしまいながら携帯電話で朋久と話す一矢の視界の中で、啓一郎がひらひらとこちらに手を振るのが見えた。スティックをしまう手を止めて、それに片手を振り返す。
「んじゃお疲れー」
「お疲れでーす」
丸1日を費やしてのリハが終了してスタジオを出て行く啓一郎の背中に、まだベースを肩からぶら下げたままの武人が答える。
「……うん。……うん。わかった。よろしくぅー。……んじゃねー」
通話を終えた時には既に啓一郎と和希の姿はなく、武人だけが未練がましそうにベースを指で弾いている。
「……武人くん。まだやりたりないの?」
「飽きないんですよねー。ベース弾いてるのって」
「素晴らしいねぇ……ミュージシャンやねぇ……」
一矢もドラムを叩くのはもちろん好きでやっているが、限度はある。1日これだけ叩かせられていたらさすがに疲れる。
半ば呆れたように返事を返して、スティックケースのボタンを留めた。
「おし。完了。……キミはまだやってくのかね?」
「帰りまーす……」
「んじゃメシでも寄ってく?」
一矢の部屋に立て篭もっていると思われる晴美は、朋久に迎えに行かせた。帰る頃には多分いないだろう。
「あ、行く行くー。俺ねえ、何気に事務所の近くの……あっちの角曲がったとこに定食屋あるじゃないですか。あれ、すっごい気になる」
ようやくベースアンプの電源を落としてケーブルを抜きながら、武人が嬉しそうに提案した。ブレインから新宿駅へ向かう途中に小さいながらもいつも混んでいる定食屋があり、確かに興味深いは興味深い。
「んじゃそこ行ってみよっか」
今後お世話になる事務所なのだから、その周辺で旨い店を探しておくのも悪くはない。武人の提案を素直に受け入れることにする。
「武人、親に事務所ついたよって言った?」
「言ってませーん。言える余地もありませぇーん」
「言いなさいよ、未成年……」
「ぐだぐだ言われるのがわかってるから、つい面倒なんですよね」
「どうせそのうちばれるじゃん……」
他愛ない言葉を交わしながらスタジオを出る。最初こそ少し緊張をしたが、ドラムを叩き始めれば結局いつもと同じだ。スタジオに入った時にははプロデューサーの広田もいたがやがて出て行ってしまったし、後に残されたのはいつものメンバーと、今後Grand Crossのマネージメントをしてくれる佐山隆だけである。佐山は前に紹介されて会っているが、大して年齢が離れているわけでもないし、のほほんとした感じの良い人物なので気安い。こんなもんか、と肩の力を抜くのは早かった。
そんなことより。
「……しっかしびっくりしたなー」
一矢たちが使用していたスタジオは事務所の3階にある。2階にもスタジオがあるが、そちらは別のバンドがずっと使用しているようだ。階段を下りながらぽつんと呟いた一矢に、隣を降りている武人が顔を上げた。
「何です?」
「いや、広瀬紫乃」
「ああ……」
一矢の返事に、武人は曖昧な返事を返した。何にそんなに驚いているのかが良くわからなかったのだろう。
Grand Crossのデビューシングルとしてタイトルにする楽曲は、女性コーラスがある。元々メンバーに女性がいたせいである。だが事務所がつくにあたって美保は脱退してしまうので、コーラスを担当する女性がいなくなってしまった。そのことについて和希が先ほど佐山に相談すると、コーラスとして連れてきたのが同じ事務所に所属するD.N.A.というバンドのヴォーカリストだった。彼女の名前が、広瀬紫乃だ。
D.N.A.は、去年の11月にデビューした3人編成のバンドである。ポップス路線の、柔らかい女性ヴォーカルの声がウリのバンドで、今はまだ1月だからまだまだ新人ではあるが馴染みやすい楽曲と「売るぜ!!」と言わんばかりにがんがん流していたラジオが当たって、いきなりヒットになった。メンバーのうち2人は一矢と同い年で、そのひとりが紫乃である。
が、驚いたのはそんなことにではない。
(あのコがね……)
階段を下りながら、事務所に駆け込んできた時にここでぶつかりそうになったショートカットの女の子を思い出す。キョウコがここにいたわけが、何となくわかってしまった。
広瀬紫乃――キョウコが泥酔していたあのライブの時に、キョウコの携帯を使って一矢が電話をかけた女の子だと気がつくのに、そう時間はかからなかった。
さらさらの腰まで届く長い黒髪、黒曜石のような大きな瞳……佐山に連れてこられた紫乃は、Grand Crossの面々を見回して目を白黒させていた。
ライブに時々来てくれていた、と思ったのは、間違いではなかったようだ。どうやらギタリストの和希のファンをずっとやってくれていたようである。あのライブの時も、それで来てくれていたのだろう。同じ事務所の……もしかするとアーティスト仲間のキョウコと一緒に。まさか自分たちのファンをやってくれていた女の子が自分たちより先に同じ事務所でデビューするとはさすがに思わなかったけれど。
「ウチのライブ、来てくれてたんですねー」
事務所のドアをキィ……と開けながら、武人が口を開く。途端、冷たい夜風が事務所の中に吹き込んできた。かなり、寒い。今しも雪が降りそうだ。白い息が舞い上がる。
「ああ、うん……」
「こんなことあるんだなあ」
それはこっちのセリフである。まさかキョウコも紫乃も、同じ事務所になるとは思わなかった。
だからどうと言うわけでもないけれど……。
(知らない、みたいだよな)
パタン、と背後で扉が閉まる。駐車場に単車を停めたまま後で取りに来ることにして、そのまま道路へと足を向けた。
見る限り、彼女は一矢がキョウコをホテルに連れて行ったことを知らないらしい。特に屈託を見せる様子はなかった。尤も、先ほどの様子ではキョウコ自身何だか良くわかっていないと言うのが実情のようで、友人に過ぎない紫乃なら一層気づきようもないだろう。気づいたところでどうと言う話でもないが、こちらの気分としては何となく、気まずい。……気がする。
空気の冷たさに押されて、自然と早足になる。辿り着いた定食屋は、時間の隙間かいつも見かけるより混んでいなかった。
「らっき」
「俺の日頃の行いかしらん……」
「……一矢さんだったら俺の方が随分とましじゃないの」
「そんなこと言うと奢ってやらんぞ」
「え、奢ってくれるつもりだったんですか?」
奥のテーブルに案内されてメニューを広げる。バイトの女の子がオーダーを聞きにやって来た。
「ご注文はお決まりですかー」
「かわいーねー。いくつー?」
「は?」
「……一矢さん。やめて下さい」
ここまで来ると脊髄反射のようだ。
「まったく。一矢さんも彼女作ればいいのに」
「気楽に言わんで戴きたい」
「んなこと言ったって、ごろごろ遊んでる相手がいるんだから、そん中から誰かに決めればいーんじゃないんですか?」
「こっちだってあっちだって『不特定』だと思うから遊んだりしてるだけで、『特定』だと思えば話は別でしょ」
「別なんですか?」
とりあえずオーダーを済ませるとはあっと呆れたようにため息をついた5歳も年下のメンバーに言い返す。一矢の言葉に武人が目を瞬いた。
「何で別?どっか好きだから会うんでしょ、どっちも」
「付き合うってなったら別でしょが」
「ふうん?良くわかんないや」
「自分は彼女がいると思って余裕かますなよ?」
「そんなんじゃないですよ」
テーブルに頬杖をついてじとーっと言う一矢に、武人が微かに照れた顔をして、そんな自分の顔を撫でる。
「ああいいなあ、幸せな人は」
ポケットを漁って煙草をテーブルに放り出しながら言うと、武人は短い沈黙の後に浮かない表情を見せた。
「……そうでも、ないですけどね」
「へえ?そう?何で?いいトコまで進んだ?」
「下ネタ振らないで下さい。俺、そういうキャラじゃないんで」
「何よそれ……」
「進むも何も、喧嘩ばっかりですよ、ここんとこ」
「へ!?」
両手で自分のグラスを引き寄せて包み込みながら、さらっと言った武人の言葉に体を起こす。
「喧嘩ぁ?」
てっきり、何だかんだ言いながらうまくいっているものだと思っていた。付き合い始め――それも武人にとってみれば初めての彼女なのだから、最初は少々ちぐはぐでも仕方がない。その程度のことだろうと思っていたのだ。けれど、今の武人の顔つきを見ているとどうやらそうでもないらしい。
「何、喧嘩すんの?」
「あんまり、会えないから」
「……メシ食うのやめて、彼女んトコ会いに行ってやれば?」
つい腕時計に目を走らせる。まだ8時過ぎだ。どこかに連れ出すには遅いだろうけれど、家の前で少し話すくらいだったら許されても良い時間じゃないだろうか。
一矢の提案に、武人は黙って顔を横に振った。
「いいです」
「んなこと言って……」
「いいんですよ。……こないだ、スタジオなかった日があるじゃないですか」
「ああ……うん」