第13話(2)
そう言って体を前傾に仕掛けた一矢は、紫乃の返事を受けてからふと思いついたように再び体を少しだけ起こした。再び、僅かに顔を振り返る。
「俺が謎な人なんならさあ」
「うん?」
「ちょっとその謎を解いてみませんか?」
「は?」
「どっか時間ある時にさあ」
そこで一度言葉を途切らせた一矢は、その時だけ少し、迷うように、視線を彷徨わせた。
「2人で、メシにでも付き合ってよ。……あんたの愚痴でも何でも、聞くからさ」
◆ ◇ ◆
3月に入ったその週、Grand Crossは東京での楽曲製作に励むことになっている。
いつも通り嶋村家のスタジオに、集合時間からおよそ10分ほどの遅刻をして一矢が到着をすると、中では武人がひとりで暇そうにCDを聴いていた。一矢も良く知っているオールディーズの楽曲に耳を傾けながら、中に入ってジャケットを放り出す。
「どしたん?いきなり」
「姉貴の部屋を漁ってたら出てきたから、かっぱらって来ました。俺、こういう柔らかい音ってのも結構好き」
「最近の音楽って音数ががんがん増えてる気がするから、こういうの聴くとすかすかなのも悪くないなあとか思うよね」
「その分深みとか響きとかないと、ただのすかすかになっちゃいますけどね……」
「うーん。音数で埋めましょう」
「それって騙そうとしてるみたい……。ま、曲によりけりじゃないですか。『さーちゃん的に打ち込み増やして少年漫画のアニソン路線でGO(仮題)』なんて、すかすかにしたらださくなる一方のような気もするもん」
「……何よ。『(仮題)』って」
「俺が今勝手につけたから」
タイトル長過ぎ、と笑いながらその辺に置いたままになっているスティックケースを取り上げる。
今日は昼間、啓一郎と和希にはそれぞれ仕事が入っている。啓一郎は毎月コンスタントにやっている小さなライブイベントの司会の仕事が転がり込んでいて、それの打ち合わせだ。和希はと言えば、ギター雑誌の誌面に僅かながら掲載させてもらえると言うことで、その取材が入っていた。
メジャーシングルのファーストのサンプルが上がったと言うことは、本腰を入れてプロモーション活動をすることになる。更に言えば、本日、インディーズレーベルであるロードランナーから去年の秋頃に録ったミニアルバムが発売されることになっていた。
各メディアで発売前から取り扱ってもらって、出来れば販売店からのファーストシングルのイニシャルオーダー(初回注文)の数字を伸ばしたい。その為には、映画とのタイアップを全面に押し出して、ラジオと言わず、雑誌と言わず、ネットと言わず、片っ端から顔と名前を売っていく必要がある。
そしてそれによって、バンドの顔である啓一郎と、バンマスである和希の仕事が増えるのである。
その間、残った2人はどうするのかと言えば、「俺たち仕事してんだから、アレンジ、少しでも進めとけよッ」と言う啓一郎のありがたい指令につき、スタジオに早めに入ることになっていた。と言って、結局のところ、こうしてまったりとオールディーズなんて聴いてしまっていたりする。
耳に馴染む優しい楽曲にあわせて、全く無意味に15分ほど軽くドラムを鳴らしていると、通るはずのない人影が擦りガラスの向こうに見えた。通過してドアを開ける音に、ドラムを止める。
「おはよー。……めちゃくちゃ遊んでるし」
「おはよーさん。どしたん?」
中を覗いた途端の呆れた声に、そこに佇む和希を見る。その後ろから、佐山がついて来るのが見えた。
「おはよー。働いてる?」
「働いてない」
「だからもう……働かざるもの食うべからずと言ってだなあ……」
ぼそぼそ言いながら中に入ってきた和希は、すとんと床に良く使用している大き目のメッセンジャーバッグを下ろして、中を開けた。ノートパソコンを取り出す。
「あのね、こないだの曲さ、さーちゃんが打ち込み増やそうよとか言ってたじゃん」
「ああ、うん」
「だから一矢たちがアレンジ始める前に聞かせようと思って。間に合って良かった」
「今さっき『遊んでる』って叱られたような気がしますが」
「それはそれ」
適当な回答をしながら和希がノートパソコンを繋いでいく。それを眺めながら、武人がかかりっ放しだったオールディーズのCDを止めた。
「にしても随分渋いの聴いてるね。誰の趣味?」
「武人の姉貴」
「姉貴って……」
「いや、漁ってたら見つけたもんだから、久々にこう心癒されるような音楽を聴きたくなりまして。大音量で」
「……心癒される音楽ならゆったりと聴くべきじゃないの?爆音で聞くのも何か違くない?」
突っ込みながら、和希がセッティングを終える。スピーカのアンプの電源を入れると、MTRのフェーダーをスライドさせて、パソコンのスペースキーを叩きながら振り返った。
「遊び心満載で、ちょっといろいろ突っ込んでみました。感想、聞かせて」
言葉が途切れるのに合わせて大音量で流れ出した楽曲は、これまで進めて来た路線をいきなりぶち壊すような、けれど圧倒的にスピード感のあるスタイリッシュな雰囲気に変わっていた。和希が弄って来た部分は打ち込みの部分だけだから、ギターの音もリズム隊の音も抜けた状態の重みのないものではあるが、一矢は思わずぞくりとした。
これを元に、メンバーで作って行ったら……かっこいいものが作れるような気がする。
(すげぇ……)
少しずつ変わっていく、音楽の方向性。けれどそれは、嫌な変化ではない――期待が膨らむ、変化だ。和希の才能に感心する。
「……まだ、相当雑な作りにはなってるけどね」
一通り流し終えて、再びパソコンのスペースキーをぱしんと片手で叩きながら笑った和希に、佐山が小さく感嘆したような声を上げた。
「すっごい、かっこ良くなったんじゃない?」
「じゃない?って言われても、まだ肝心の音が抜けまくってるから、何とも言えないんだけど」
「それはそうだけど」
「……んで、肝心のそっち2人の意見が聞きたかったりするんだけどな」
「俺的に、『キタ』って感じ」
冗談ぽく尋ねる和希に、武人がぼそっと答えた。あどけなさの残る目を瞬いて、和希を見上げる。
「す〜ごい、良い感じに仕上がりそうで、いいね」
「そう?」
「うん。未来が開けた」
「……そんな大袈裟な」
続いて答えた一矢の言葉に、和希が吹き出した。確かに現段階ではとても人前に曝せる状態とは言えないが、あくまでも土台だ。ここから進めるアレンジ作業で、バンドの楽曲としてのカラーに生まれ変わっていく。
「じゃあ、仕事、やる気が出た?」
「出た」
「そうしたら、このコを置いて行くんで、ぜひ仕事に励んで下さい」
ぽんぽんと軽く片手でノートパソコンを叩くと、和希が武人に顔を向ける。
「わかるよね?」
「概ね、わかると思います」
「じゃあ、武人に託す。……俺、戻り、どのくらい?」
「さあ?3時間後には戻れるんじゃない?」
「んじゃあ、また3時間後に」
佐山の答えに一矢と武人にそう言い残すと、和希はひらひらと手を振ってスタジオを出て行った。佐山も「また後でね」と言い残して、スタジオを出て行く。
ドアが完全に閉まってから思わず武人と顔を見合わせると、床にあぐらをかいていた武人は小さく笑って立ち上がった。
「ハッパ、かけられちゃったし。とりあえず、2人でやれるトコまでやりますかあ」
「しゃあないねえ。遊んでるわけにもいかんもんねえ」
仕方なさそうに言いながら、微かに胸の内にわくわくするような遊び心が湧いて来る。――出来ることはドラムしかない。けれど、それだけが、こうしてやっている理由ではない。
結局のところ、音楽が好きで、ドラムが好きなのだ。
唯一の出来ることが、自分の唯一やりたいこと……恐らくそれは、幸せなことなのだろう。
そして自分ひとりでは実現出来ないそれも、一緒にやっていけるメンバーを見つけ出すことが出来た。時にもめることはあっても、それでも一緒にやっていきたいと思える。他の奴らじゃこうはいかないと思える。こいつらじゃないと嫌だと思える。
――これも、信頼関係。
築いてきたもの……どうしたって人は、ひとりきりでは、生きてはいけない。
武人と2人で、和希の持って来た打ち込みを元に、自由気ままに好き放題アレンジの方向性を検討していると、やがて啓一郎が、続いて和希と佐山がスタジオへ戻って来た。そこから本腰を入れてスタジオに籠もっている間に、気がつけば21時も回っている。
啓一郎も和希もこの後にバイト、一矢自身も久々に『listen』の手伝いを頼み込まれているので、21時半を境としてGrand Crossは『本日のお仕事』を終了することとした。
メンバーと別れてスタジオを出ると、携帯でメールをひとつ送信して、渋谷へ向かう。とりあえず自宅に一度戻って単車を駐車すると、部屋には戻らずにその足でそのまま宮下公園へと向かった。いつ見ても車通りの多い明治通りの横断歩道を渡り、公園に足を踏み入れた途端、名前を呼ぶ声が聞こえた。
「一矢ッ」
「お待たせ致しました」
薄暗い公園の中から駆け寄ってきたのは、京子だった。
連絡を取ろうかどうしようか……曖昧に迷ったままで結局連絡をしないでいた一矢に、京子の方から電話が来たのは昨日のことだ。
用件は、先日とほぼ同じ――会いたい、と言うその言葉に、拒絶をすることが出来なかった。
とは言え、一矢は今日この後、深夜のパーティが入っていると言う『listen』に手伝いに行かなければならないし、京子の方も明日は早朝ロケがあると言うので、何をするわけでもない。とりあえずのところは、『何だか妙に何かが中途半端感があるので、メシだの飲みだのはさておいて、ちょっと会ってみませう』である。
「ごめんね。何時から渋谷にいたの?」
電話で、今日会う約束はしたものの、一矢の今日の仕事は「スタジオでアレンジ」である。終わりの時間など全く読めたものではない。メンバーのノリと勢いと都合によっては、18時頃に終わってしまうこともあれば、2時3時までやっている可能性すらある仕事である。
概ね、啓一郎と和希のバイトの都合で馬鹿みたいな時間までやることは今のところ余りないが、そうは言っても彼らのバイトの予定など知らないし、『listen』へ行くぎりぎりの時間になってしまう可能性もあったので、京子との約束は「終わったらメールします」と言う非常に曖昧なものになった。京子の家は渋谷からさほど遠くはないらしく、適当に渋谷で買い物したりしているから、と言う彼女の言葉に甘えてそうさせてもらった。
けれど、終わり時間の幅が余りに広く、いつ連絡が来るか全く読めない人間からの連絡を待つと言うのはしんどいだろう。そう思えば、申し訳ない。
一矢の問いに、京子が目を細める。
「ん?……まあ、適当に」
「結構時間潰すの、大変だったんじゃないですか」
「ううん。いっぱい買い物とかしちゃったし。映画なんて見に行っちゃったし。だから、全然平気」
そう笑う京子に、いじらしさを感じないと言えば、やはりそれは嘘になる。
「そか……。どうする?何か茶ぁでも飲みますか?」
ただ、実は一矢自身が京子にどう対応するべきなのかが、今ひとつ見えていない。
「ん……たまには、歩かない?」
「お散歩?」
「うん」
「……いーよ」
以前の一矢の京子への態度は、京子から見れば「体目的だったからなのね」と言う納得の仕方をすることが出来るだろう。事実、別段体目的ではなかったものの、特別な感情があるわけではなくただの習い性での染み付いた条件反射に過ぎないのだから、『ナンパ的な優しさ』と言う意味ではあながち外れてはいない。
一矢の部屋の一件で、京子が『体だけの関係』を受け入れるつもりでいるのだから、その路線でいけば同じような『ナンパな優しさ』に徹するのが一貫性があるのだろうとは思う。
それは、わかってはいるのだが。
「渋谷じゃうるさくて話にならんので、青山方面にお散歩してみますか」
「うん」
京子と並んで、宮下公園を出る。今し方渡ってきたばかりの明治通りを、また戻る為に信号待ちで足を止めると、京子が一矢の手に手を絡ませてきた。
「嫌?」
「……ううん」
けれど、実際問題、一矢は京子と、麻美のような関係を築くつもりはない。可愛いとは思う。好意を嬉しく思う。得意ではなくても、嫌いなわけではない。そう思えばこそ、通りすがりの女の子のような扱いは出来ないし、何より紫乃の友達とそんな関係になるわけにもいかない。
となると、中途半端に優しくするのはやはり良くないような気もし、京子への態度を結局決めかねる。
冷たくしきれない。一矢の『不誠実な交際』を受け入れた京子に今更冷たくするのは、傷つける為に呼んだあの夜の、京子の目から見た一矢の行動との一貫性が取れなくなる気がする。京子の目から見れば、一矢の優しさは『やりたいだけ』だと映っていることだろうし、だったらこの話の流れは『らっきー』で済むはずなのだから。
けれど優しくも出来ない。京子に今更優しくするのもまた、あの夜の一矢自身の本当の意図に背いているような気がする。
京子が、あの日の一矢の行動の意図を意外と正確に見抜いていることなど気がつかない一矢は、自分の中で曖昧に決めかねたまま、京子と繋いだ手を払うことなど出来るはずもなく、青に変わった横断歩道を青山方面へ向かって歩き出した。京子が隣で、一矢を見上げた。
「一矢」
「はい?」
「……困ってる?」
「え?」
なぜわかる。
目を丸くして返答に詰まった一矢に、京子が困ったような笑みを見せた。
「一矢、わたしのことを決め付けてる気がするわ」
「え?どゆこと?」
「下手な真似したら、やばそうって思ってそう」
「……」
今はまたそれとは違うが、少なくとも以前そう思っていたのは間違いないので、一層答えに詰まった。そんな一矢を見て、京子がまた、笑う。
「この前も電話で言ったでしょ。わたし、一矢が思うほど真面目じゃないから、大丈夫だよ」
その言葉は、どうしても信じることが出来ない。
いろいろな女の子を見ているから、一見純情そうに見えてもかなりすれている女の子がいることはわかっている。それを踏まえた上で、わかる。京子は、多分、違う。
「別に彼女面し始めたりするわけじゃないわ。遊びたいだけ。だから、何も考えなくて、良いのに」
横断歩道を渡りきって、青山方面へ続く暗い坂道をゆっくりと歩く。左折すればすぐに一矢のマンションが見える路地を通り過ぎて、そのまま真っ直ぐ歩いていく。
「何か、そういう誤解で尻込みされちゃったらつまんないなあって思って、だから今日、会おうって言ったの」
「うん……」
「同じだよ、一矢が遊んでる他の女の子と。同じでいーんだよ。……恋愛なんて、ただの、ゲームだもの」
懸命に強気な口調を保とうとする京子の姿が、却って切なくなった。以前の麻美との会話が、ふと記憶に蘇る。
――京子は俺に合わせようと思う人に見える
――自分がおなかすいてても、一矢が食べないって言ったら『わたしも大丈夫』ってにっこり出来ちゃうわけだ
ここまで徹底しているとは、思わなかった。一矢が『不誠実な交際』『不特定多数との遊び』を望むのならば、京子自身が何を望んでいるのであれ、それに合わせることに決めたのだろう。一矢から見ていたってわかる。京子は本来、そういういい加減な状態を受け入れられる不真面目な人間じゃない。『そういう人間相手』に『そういう自分を装う』ことが、どれほど危険なことか、彼女自身わかっていないわけではないだろう。ずたずたになるのが、わかっているだろうに。
(なのに……?)
どうして、そこまで。
そう思えば、彼女の姿が健気にも見える。一歩間違えれば重たくさえあるだろうが、一矢にはそう感じられなかった。……それほどまでの愛情を、受けたことがあるだろうか。
(まさか)
自分がどれだけ傷ついても良いから一矢のそばにいたい、と京子が思ってくれているとはどうしても信じられず、と言って、彼女の言葉を額面通りに受け取ることの異質さも感じているからわからなくなり、そしてまた考えが戻る。――深く傷つくことを覚悟するほど、想ってくれているのだろうか。
「京子はさあ……」
適当に体面を取り繕い、耳障りの良い言葉を口にすることなど慣れきっているはずなのに、うまい言葉が見つけられない。