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In The Mirror  作者: 市尾弘那
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第13話(1)

 紫乃の母親は、妹のちほりを生んで数年後に膠原病を発病した。

 母の症状は、以前はそれほど重度ではなかったものの、余り日に当たることが体に良くないと言うことで、一緒にどこかへ出かけた記憶は余りない。

 けれど、紫乃のこともちほりのことも母がとても愛してくれていることはわかっているし、父親を早くに亡くしているせいもあって2人の娘の母親に対する思い入れは、一層深かった。

 膠原病は、時に臓器障害を併発する。血管障害を併発した母が頻繁に入退院を繰り返すようになったのは、紫乃が中学生の頃だった。

 元々クラシックのピアニストに憧れていた紫乃は、その夢を諦めた。

 クラシックの音楽をするには、多大な金がかかる。父がおらず、体の弱い母しかいない家庭には、余分な財産などどこを探してもない。

 その時にキーボードを、そしてバンドを教えてくれたのが、D.N.A.のキーボーディストである神崎だった。新しい夢に夢中になった紫乃は、どうしても音楽で身を立てたいと願った。真っ当な就職をすることが一番であることなど、わかっている。けれどクラシックと言う夢をひとつ諦めた紫乃は、バンドで音楽をやっていきたいと言う夢を諦めきることがどうしても出来なかった。

 だから、3年――上京して3年経っても兆しが見えなかったら、その時こそ音楽を諦める。けれど兆しが見えたらその時は、必ず売れて、母に楽をさせてあげる。

 そう決めて、必死で頑張った。幸いにして、何とか夢は現実のものとして形になろうとしている。けれどまだ、危うい。まだD.N.A.は、確かな地位など確立していない。

 運良く潜り込んだメジャー事務所で出したファースト・シングルは、新人としては異例の売行きだった。好調なスタート、けれどならば、今この波を掴んでおかなければならない。

 そうして、ようやっとゴールデンタイムの大手音楽番組『MUSIC SCENE』への出演が決まった矢先だった。……入院していた母の病状が悪化したと言う連絡を、ちほりから受けたのは。

 紫乃はその日、ひとりでラジオ収録の仕事があった。神崎と武藤は先に『MUSIC SCENE』の収録があるテレビ局へ入っていて、紫乃はマネージャーの大神と共に遅れて行く予定になっていた。重ねて入ったフリー雑誌の短いコメント録りをブレインで済ませ、会議室を出ようとしたところで携帯の着信に気がついた。

 それが、母の容態の急変を告げる電話だった。

 「最悪の事態になるかもしれない」――ちほりの言葉に、頭が真っ白になった。母親は、紫乃とちほりを残して逝ってしまうかもしれない。両親共にいなくなってしまうかもしれないと言うその事実は、眩暈すら引き起こした。そして反面、考えた。

 今、自分が長野へ帰ってしまったら、D.N.A.は、どうなる?

 やっと掴んだ、ビッグチャンスだ。全国ネット、常に視聴率15%前後を維持する王道音楽番組への出演……こんなチャンスは、滅多にない。

 D.N.A.は、まだ足場の出来ていない不安定なアーティストだ。そして情報には鮮度がある。新人のくせにここでドタキャンなどしてしまえば、もう2度と出してはもらえなくなるかもしれない。逆に、シングルの売行きが好調なこのタイミングで出演させてもらえれば、一挙にD.N.A.の知名度は比較にならないほど上がるはずだ。

 そこにはきっと、天と地ほどの差が開く。

 穴を開ければ、ブレインにも、レコード会社のソリティアにも、『MUSIC SCENE』のスタッフにも、そして誰より神崎や武藤にも、多大な迷惑が掛かる。ヴォーカルである紫乃が出演しないなど、もってのほかだ。

 震える手で携帯を握り締め、ちほりにばれないように涙を零しながら、紫乃は『MUSIC SCENE』の収録へ行くことを、選んだ。

 母親のことは、大切だ。すぐにでも飛んで行って、手を握り締めてやりたい。自分の体が良くないながらも、精一杯紫乃を愛して可愛がってくれていた。わがままな紫乃の上京にも、反対などひとつもしなかった。自分の代わりに母のそばにいる妹は、どれほど不安なことだろう。そして自分は、そんな母親より、妹より、仕事を選んだのだ。

 唇を噛み締めて涙を何とか飲み込む紫乃に、不意に会議室の扉が開いた。姿を見せたのは、如月だった。

「広瀬?……どうした?」

 その瞬間、涙を止めようとしていた努力は、無駄になった。早く1階に降りて行かなければ。大神が、紫乃の電話が終わるのを下で待っている。母親より収録を選んだのだから、早くテレビ局に行かなければならない。けれど……母親を心配してぐちゃぐちゃの心境で、誰より大好きなその人が現れたことで、完全に気が緩んだ。

「おか……さ、が……」

「え?何?」

「どうしよう……あたし……ッ」

 自分は何と醜いのだろう。肉親より仕事を選ぶ――どれほどエゴイストなのだろう。それほどまでに、仕事が大事なのか。

 死なないで。いなくならないで。優しい笑顔をもう一度見せて。

 そう祈る気持ちは本心なのに、自分はこれからまだ仕事をする気でいるのだ。

 がくがくと震える膝で立つのがやっとの紫乃に、ぎょっとしたような如月が会議室の中に入ってきた。ただ泣いている紫乃に、わけもわからないまま、宥めるように軽く肩を叩いてくれた。それだけで、ほんの少しだけ、落ち着いた。

 如月には結局何を告げたわけでもないけれど、ただ黙ってそこにいてくれるだけで次第に落ち着きを取り戻した紫乃は、ともかくもテレビ局へ向かって収録を終え、事情を話してブレインに休みを取り付けると、神崎の車で地元長野へと飛んで帰った。それでも自分の罪は、許されないような気がした。

 怖い奴だ……自分は。

「間もなく、東京駅に到着します……」

 長野から東京へ戻る新幹線の中、ぼんやりとここ3日の出来事を思い返していた紫乃は、車内アナウンスの声に我に返った。窓の外を流れる景色は、東京駅も間近なものであることに気がついて頬杖を解く。

 母親の容態は、何とか、持ち直すことが出来たらしい。

 紫乃が帰る頃には、薄く目を開けて、微かながらも微笑みを見せてくれた。儚いながらも「頑張りなさい」と言ってくれた。こんな娘なのに、母はそれでも愛し応援してくれるのだと、また涙が出た。

 隣の座席に置いたリュックを掴んで、席を立つ。時計を見ると8時半だった。――迎えに来ると言っていた一矢は、もう、来ているのだろうか。

 そう考えて、微かに心が騒いだ。

 つい先日まで、全く異性として意識なんてしていなかった。完全に友達だと思っていて、向こうもそう思っているのだと思っていた。

 紫乃の目には如月しか映っていなかったし、一矢もそれは知っている。まさかあんなことを言い出すなんて、考えたこともなかった。

 けれど、「好きだ」と言われて全く動揺しないほど乾いてはいない。

 新幹線を降りて、一矢が待つと言っていた八重洲中央口の改札へ足を向ける。微かに心揺れながら歩いていくと、改札前の柱に寄りかかってぼーっとしている一矢の姿が目に入った。それを見てまた、どきんとした。

(何動揺してるかな……)

 しかし、全く動揺するなと言うのも無理な話だろう。

 努めて平静を装ったまま改札へ向かう紫乃に、向こう側で一矢が気がついた。顔を上げる。それに笑みを向けながら改札を抜けて一矢のそばに向かうと、辿り着くなり一矢が紫乃の頭を軽くぽんぽんと撫でた。

「……何?」

「お疲れさん。……そんじゃあお仕事に行きましょうか」

「うん……」

 その、余りに何気なさ過ぎる様子に、あの日のあれは嘘だったのか?と聞きたくなる。ひとりで動揺している自分が、馬鹿みたいではないか。

(やっぱあれ、嘘?)

 いやでもしかし、昨日も電話で言わなかっただろうか。紫乃のことが好きだと。それともやはり、言い慣れているのだろうか。

 つい疑心暗鬼になりながら、すたすたと外へ向かって歩いていく一矢の背中についていく。と、ふと足を止めた一矢が、紫乃が追いつくのを待って、ひょいっと紫乃のリュックを引っ掴んだ。

「うぎゃ。……泥棒」

「持ってやるっつーの。こんな貧相なもんをもらってくほど、困ってません」

「貧相って言わないで。あたしの今の全財産」

「……あんたの全財産ってこれだけなの?」

 憎まれ口を叩きながらも、紫乃の肩からリュックを奪うと、肩に引っ掛けてそのまま何食わぬ顔で歩き出す。つられて再び足を動かしながら、紫乃は一矢を見上げた。

「ねえ」

「あ?」

「何であたしが松本行ってるって知ってたの?」

「ん〜?ああ〜……」

 紫乃の問いにきょとんと目を丸くした一矢は、両手をジーンズのポケットに引っ掛けながら、前に視線を戻した。

「先日、武藤くんと遊びましたんで」

「じじと?」

「そう。ウチ御用達のスタジオで、ちょっとセッションを軽く」

 東京駅は、この時間は既に大混雑だ。ビジネスマン風の人に溢れる混雑の間を縫って外へ抜けると、横断歩道の方を目指して歩く一矢について行きながら、紫乃は「え〜」と声を上げた。

「ずる〜い。そんな面白いの、あたしも見たかった」

「別に大したこと、しとらんが」

「ふうん。んで、じじに聞いたんだ」

「そう。まずかった?」

「別に。まずくないけど」

 駅前の大きなロータリーを抜けて、道路へ出る。横断歩道で信号が変わるのを待ちながら、一矢がちらりと紫乃を見下ろした。

「んで、お母様の具合は」

「……じじに聞いた?」

「いや。聞いてないけど。家の事情がうんたらとかって誤魔化してましたんで、そうかなと勝手に想像しました」

 信号が青に変わる。幅広い道路を反対側へ渡りながら、武藤が気を使ってくれたのだろうと思った。他人の家の事情なのだから、べらべら話すわけにいかないと思ってくれたのだろう。

「単車、そっちに停めてる」

「ん。……当たってる、神田くんの想像」

「あ、そう」

 そっけない口調をしてはいるが、心配してくれたのだろうと言う気がした。そうでなければ、自分も仕事前にわざわざ迎えになど来てくれないだろう。そう考えれば、昨日一矢が紫乃に繰り返した「あんたが好きだ」と言う言葉も、嘘ではないのかもしれないと思ったりもする。

「何とか、大丈夫」

「それは良かった。……疲れたろ。あんたまで体、壊さんようにね」

 前を向いて歩きながら、また一矢の手が乱暴に紫乃の頭の上で跳ねる。その雑な仕草に照れが垣間見えて、紫乃は思わず笑った。

「うん。ありがと」

 横断歩道を渡りきって、大きな道から路地へ逸れる。東京駅の前はバスやタクシーが凄く、とても路駐など出来る状態ではないから、少し駅から離れて停めたのだろう。一矢の隣について歩きながら、紫乃は高い位置にある一矢の横顔を見上げた。

「何?」

「何でもないけど。神田くん、仕事、何時から?」

「今日は14時半にブレインですな」

「……14時半?」

 思わず足を止める。今は8時半だ。昨日一矢は「どうせ自分も行かなきゃならない」とは確かに言ったけれど、いくら何でも早すぎるではないか。

「あと、6時間もあるんだけど」

「そうねえ」

「そうねえって……ねえ、悪いよやっぱり」

「あのさ」

 ぴたっと一矢が足を止める。つられて紫乃も、足を止めた。

「冷静になって頂けません?ここで『悪いからいいよ』と言われると、俺、全く意味不明にこんな時間に東京駅まで来て帰る羽目になって一層可哀想ですけど」

「ぷ。確かに」

「『ぷ』じゃねえ。だから余計なことを気にすんな」

 今度はぱしっと軽く紫乃の頭を叩いて歩き出す一矢に、紫乃は少し、複雑な気持ちになった。

 嬉しいのだろうか。……嬉しいのだろう。気遣ってくれる気持ちが。気にしてくれる態度が。雑な態度の裏に見え隠れする、紫乃を思い遣ってくれる姿――想ってくれる姿。

「あたしさあ」

「はい?」

 小走りに一矢に追いついて隣に並ぶ。口を開く紫乃に、一矢が短く問い返した。

「お母さんより、仕事を取っちゃった」

「……」

 意味を問うように、一矢の視線が紫乃を見る。見返した笑顔は、元気のないものになった。

「お母さんがヤバイよって妹から電話が来て……それからあたし、その後に、テレビの収録に行ったの」

「……」

「あたしって、こんな奴なんだなってわかった」

 一矢に言って、どうなるものでもないことはわかっている。けれど、胸の内におりのように積もった自己嫌悪と後悔を、誰かに吐き出したかった。懺悔したかった。自分の罪――けれどきっと自分は、同じ状況になればまた同じ選択をするだろう。自分がそう言う人間だとわかった。

 紫乃の言葉にしばし無言でいた一矢は、路地の隅に停めてある単車に近付いていきながら、紫乃をちらっと見下ろした。それから視線を前に戻して口を開く。

「んで、その後に長野に行ったんだ」

「そう。終わってから。……ひどい話」

「俺なら行きもしませんがね」

「……え?」

 淡々と言った一矢の、余りに冷めた口調にぎょっとして顔を上げる。見上げた横顔は、口調以上に冷めていた。

「行かないつったの。クロスにでかい仕事が入って、その直前に神田家のおっさんだのおばはんだのの危篤情報が入っても」

「おっさんとおばはんって」

「一般的に言う、父と母って奴だな。訃報だとしたって俺、行かねーよ」

 停めた単車に手を掛けて紫乃のリュックを返しながら振り返った一矢の、嘘ではなさそうな言葉に、紫乃も返す言葉がなかった。リュックを受け取りながら、目を瞬く。

「訃報でもって」

「あんたよりエゴイスト。安心なさい。世の中にはもっと下の人間がおりますんで」

「そんな安心もらっても」

 唇を尖らせてリュックを肩に背負いながら視線を向けると、一矢が小さく笑った。

「それもそうか。んでも、あんたのお母様への愛情の重さって話じゃないでしょ?それ。あんたの持ってる仕事への責任の重さって話でしょ?別に、お母様もわかってらっしゃるんじゃないですか。……ほい」

 半ヘルを手渡されて受け取りながら、紫乃は無言で俯いた。

 どうしたのだろう。どうしてなのだろう。親の訃報でも駆けつけない――紫乃には考えられない。

 高級マンションに住ませてもらって、悠々自適な放蕩生活を送っているのではないのだろうか。優しい態度と冷め切った態度が表裏一体で、また、一矢と言う人間が見えなくなる。それが、微かに紫乃の一矢への興味を湧き上がらせた。

「……神田くんって、謎だよね」

「別にストーン・ヘンジじゃないんですが」

「何で唐突に古代遺跡に飛ぶかな。んなことわかってるよ。だけど何か、謎な人」

「そうか?別にそんなこともないと思うけど。……さっさ乗らんと、遅刻しますが。俺のせいにしないでね」

「う」

 さっさと自分は単車に跨ってエンジンをかけている一矢にハッパをかけられて、慌てて後部シートに跨りながら、一矢に触れる時に少しだけどきりとした。

「……だから、前も言ったっしょ?しっかり掴まってないと、落とすよ」

「う、うん」

 そうは言うけれど、あの時と今とではまた、状況が少し違う。異性として意識していなかったあの時と、一矢の気持ちを告げられて微かに意識してしまっている今とでは。

 そんな紫乃の動揺を読み取ったように、顔だけ振り返った一矢がにや〜っと意地悪く笑った。

「へっへっへ。ちったぁ意識するようになったか」

「ばば馬鹿言わないでよ。冗談ッ」

「つって抵抗するのは勝手だけど、遠慮なく振り落とすよ?」

「あんた、根性曲がってる……」

 ぐいっとあの時と同じように、一矢の手が紫乃の腕を引っ張った。背中に張り付くように一矢の腰にしがみ付くことを余儀なくされながら、それが一層鼓動を速くする。

(く、悔しい……)

 一矢の言う通り、一矢の気持ちを知ってから意識し始めているのだ。それは、紫乃自身が一矢のことを好きだと言うのとはもちろん違うが、けれど男として意識し始めている。見抜かれていることが癪だけれど、自分でもどうか出来るものではない。

「ほんじゃあ行きますよ〜。お前、途中で緩めたりすんなよ」

「わかってるよッ」

「……あ、そうだ」

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