第1話(3)
「……あんま価値ないか」
「何てことお」
「だーって良く考えたらわたしみたいな立場の女の子はごろごろいるんだもんね」
「……」
「誰かがやったらみんなが発信源になっちゃう。供給源が多過ぎたら自動的に商品価値は落ちてくのよッ」
「あんたねぇ……」
呆れて返しながら、もぞもぞとベッドから体を起こした。床に座る麻美の隣になるようベッドの上に座って先ほど置いたコーヒーカップに手を伸ばす。
「麻美さんってドライだよね」
「そぅぉ〜?何で?」
テレビはやはりつまらないらしい。テーブルの下のラックに乗っている雑誌に手を伸ばしながら麻美が聞き返した。
「女の子って『特定』とか好きじゃん」
「みんながそうとは限らないんじゃないの」
「そりゃそうかもしんないけど」
「わたしは一矢の『特定』なんて願い下げ〜」
「……俺のこと、実は凄ぇ嫌いなの?」
ベッドの淵に腰掛けたままかくんと頭を落として見せると、麻美がけたけたと笑った。
「好きよ〜。カラダは好きよ〜」
「……麻美さんてば俺のカラダだけが目的なのね」
「ほっほっほー。アタリマエじゃな〜い」
わざとらしく高笑いをしてから、麻美は引き寄せて膝の上に乗せただけの雑誌の上に両手を置いた。ちらりと一矢に視線を流す。
「そっちだって困んでしょうが。『わたしだけじゃなきゃ嫌ッ』とか言い出したら」
「んー?俺?困んないよー」
嘘である。
あっさり見抜いた麻美が、一矢のふくらはぎに思い切り肘を叩き込んだ。
「ってえッ」
「ぬけぬけと嘘ついてんじゃないわよ。全く無害に見せて有害よね」
どこかの誰かのようだ。
「害虫みたい……」
「にしても唐突に何?『特定』でも欲しくなったわけ?」
見上げる麻美に、一矢は僅かに言葉に詰まると、やがて顔を横に振った。
恋愛がしたいわけじゃない。
欲望を満たしたいわけでもない。
ただ、『夜』を埋められればそれで良い。誰でも良い。
差し伸べられる腕があれば、ひとりでないことを感じられれば、別にそれだけで構わないのだから。
「いらないよ、そんなの」
『失望』は『希望が裏切られること』なのだと、21年間の人生でわかった。
もう失望はしたくない。だから、出来るだけ、持つ希望は少ない方が良い。
恋愛など、『希望』と『失望』の最たるものではないか。
家族にさえ愛されることが出来なかった自分に、他人からの愛情を求めることなど出来るはずがない。女性を信じることの出来ない自分に、恋愛など疲れるだけだ。
望まなければ裏切られることもないのだから、傷を負うこともないだろう。
そう思いながらも、満たされない。満たされないから、温もりを求める。埋められない心を、せめて、肌で。
「麻美さん」
隣に並ぶのをやめて、麻美を足の間に置くように座り直す。そのまま、背中から麻美を抱き締めた。
「まだ、帰るまでに時間、あるんだけどな」
「……しょうがないなぁ」
耳元での囁きに呆れたようなため息をつきながら小さく笑って振り返ると、麻美の両腕が一矢の首筋に絡みつくように回された。
◆ ◇ ◆
友人と出かけるからと麻美の部屋を夕刻間近に追い出されると、一矢は停めてあった単車に跨って空を仰いだ。
この後、夜は従兄の久我と会うことになっている。中途半端と言えば中途半端な時間に追い出されてしまった。家に帰っても良いのだが、どうにも部屋にひとりでいるのは好きではない。適当に単車を走らせていても構わないが……。
(スタジオ行こっかな)
思いついて、それに決めてみることにする。
Grand Crossは、これまでアマチュアバンドとしてやってきたにしては特異なことに、自由に使用できるスタジオを持っていた。
と言うのも、事務所が決まるまでメンバーとして一緒に活動していた女性キーボーディスト嶋村美保の家が、個人的にリハーサルスタジオを所有しているからである。
もちろん、タダモノではない。社長令嬢――それも、全国展開している大手飲食企業を経営する父を持つ美保は、子供の頃からピアノを演奏する趣味があり、度を越えた親馬鹿からか美保用に豪邸の庭に小さなリハスタを設えたのだ。全く理解を超える。
ともかくも、その『度を越えた親馬鹿』のおかげでGrand Crossは練習場所に困ることはなく、タダでやりたい放題なのだからメンバーも暇を見つけてはスタジオにたまることが少なくない。
行けば誰かいるかもしれないし、いなくてもドラムセットがあるのだから時間は潰れる。一矢にとってドラムを叩いている時間は、平穏にひとりで費やせる唯一の時間と言えた。
池袋の嶋村家まで単車を走らせ、駐車する。正面玄関には向かわない。リハスタには裏門からの方が近いからである。そちらに足を向けると、顔見知りになった守衛さんが頭を下げて中に入れてくれた。こちらもそれに会釈をして返す。
リハスタの小屋にはロックがかかっている。C7のグランドピアノが置いてあるのだから当然だ。ではあるが、ロックは暗証番号式になっているのでそれを知っているバンドメンバー及びその周囲の人間は問題なく中に入ることが出来る。
中に入ると、狭く短い廊下から見えるスタジオには明かりがついているようだった。先客がいるらしい。どうせメンバーの誰かなのだから構わずにドアを開けると、啓一郎がギターを抱えてひとりで座り込んでいた。
「おろ?啓ちゃんたら勤勉ねー」
軽い調子で言いながら中に入る。その声に顔を上げた啓一郎の方も軽く目を瞬いた。
「お前こそどしたの。暇なの?」
「残念ながら返事が見当たりませんねぇ……」
ふうっとこれ見よがしにため息をついてみせる。
リアレンジを要求されているせいで、Grand Crossのメンバーは正月がなかった。別に休みたければ休んで構わなかったのだろうが、気になってしまったせいでついつい燃えてしまった。
久々にぽつんと『休み』と呼べそうな1日である今日にこうしてまたスタジオに来てしまっているのでは、そう言われても仕方がない。そうは思うが、言っている啓一郎も人のことを言えたものではないとも思う。
「予定と予定の狭間。何かするには中途半端だったもんだからタイコ叩いてこーかと思って」
「あ、そう。……『KICK BACK!』がさぁ、もっとかっこ良くなんねーかなーと思って」
言いながら啓一郎がギターの弦に指を走らせる。
今でこそヴォーカルをとっている啓一郎だが、元を質せばギタリストだ。楽曲は大抵和希が作曲し、啓一郎が作詞をしているが、たまに啓一郎自身が曲を作ったりもする。『KICK BACK!』はファーストシングルのカップリングに入れることが決まっている曲で、啓一郎自身が作詞作曲共に担当したものだ。
「せっかく来たんだから、手伝ってよ」
「構いませんけろー。俺、7時に渋谷だからその前に出ちゃうよ」
「いーよ別に。夜になったら和希も来るって言ってたし、そしたらそれはそれでまた勝手にやってるから」
「あ、そ」
みなさん勤勉でらっしゃるようだ。
「武人は?」
「俺は知らない」
「俺も知らない」
では誰も知らない。
「せっかく時間が開いたんだから、彼女とデートでもしてんじゃないの」
「あー……そっか」
年末にちらりと聞いた限りでは、手放しで『うまくいってます!!らぶらぶです!!』という雰囲気ではなさそうだったが、それでも照れたりしている辺り心配ないだろう。その初々しさが羨ましくないと言えば嘘になる。
初々しいと言えば。
「もうひとりの彼女持ちは、彼女放ってスタジオなんか来るわけ?」
ジャケットを近くのパイプ椅子に適当に放り出して、ドラムセットに座る。自分しか座らないのだから、椅子の調整などは必要ない。置きっ放しのスティックに手を伸ばしながら言うと、啓一郎は顔を伏せてギターを抱えたまま複雑な声を出した。
「……知らない」
ふうん、と短く答えて軽くスネアを叩く。チューニングが狂っているようだ。バスドラの上にはめ込まれているチューニングキーに手を伸ばしながら、片手のスティックで軽く肩を叩く。
「何かさあ……」
ドラムのセッティングは時間がかかる。楽器の数が多いのだから当然だ。一矢に合わせるようにギターのチューニングを始めた啓一郎に声をかける。
「んー?」
「嘘みたい」
「何が」
「事務所がつくなんて」
低く回るフロアタムの音を聞きながら言った言葉に、啓一郎が顔を上げた。
「……うん」
ぽつっと頷いてから、ギターのチューニングも終わってしまったらしい啓一郎が少し先の床をぼんやりとしたように見つめながらぽつりと続ける。
「って言うかさ」
「うん」
「……怖いよ」
「怖い?」
「うん。どーなってくんだろーとかさ」
啓一郎は多分、メンバーの中で最もプロになりたい思いが強いような気がする。和希は子供の頃から目指していた仕事との間で揺れてもいたし、武人はまだ高校生だ。自分はプロになりたいとそう望んではいたけれど、それを引き寄せる……強さのようなものはない。
『運も実力のうち』などと言う言葉がある。その真の意味まで知らないが、文字面をなぞる意味はその通りのような気がする。
運は、勝手についてくるものじゃない。人が、自分で引き寄せて見つけて捕まえるものだ。日頃の行動、姿勢、そして培ってきた人間関係。
結局は自分のありようが、大抵の『運』とやらを決めているような気がする。ぼーっと生きているだけでは引き寄せられない。そりゃあ宝くじに当たるとかそういう種類の話になると、日頃どんな生き方をしてようと関係ないような気もするが。
自分自身で引き寄せられる種類の運と言うものが存在するような気がする。
メジャーデビューへの切符は、その種類のものだ。
そしてそれを引き寄せたのは啓一郎だと言う気がする。
「……ま、考えても出来ることするしかねーけどさー」
真剣な眼差しをしていた啓一郎は、不意に気分を変えるようにあっさり言った。人一倍プロになりたい思いが強いから、手元に転がり込んで来た『夢』に戸惑っているのだろう。わからなくはない。
「やって駄目なら駄目なんだからしょーがないよなあ。頑張ってみるしか」
一瞬先の不安げな色が消え、一転して強気な色を浮かべるヴォーカリストに一矢は小さく笑った。いろんな表情を見せる奴だ。
「くそぅッ。事務所のスタジオ入る前に絶対整えて唸らせてやる、広田ぁッ」
「……拾ってくれた恩人に何てこと言うの啓ちゃん」
今後Grand Crossのプロデューサーとしてついてくれる人物である。一矢の指摘に啓一郎が舌を出して生意気な表情を浮かべた。
「このくらい言わせてくれ」
チューニングが終わり、スティックで無意味に肩を交互に叩きながらGrand Crossを拾ってくれた張本人――広田勇也を思い浮かべる。
年齢不詳、眼鏡の似合うおっとりした容姿、中肉中背でどこと言って特徴があるわけではない……だが、何となく不透明な人物。
所属アーティストを見る限り信用出来そうな気がするが、この手の業界、何をもって『信用』して良いものなのかが今ひとつわからない。
ただ、和希と美保が書面や契約書類に目を通して大丈夫そうだと判断したので、ふたりの判断を信じてはいる。
「……ま、食えない人かもねー」
「どんな人でもいーけどさ。チャンスくれたんだから踏み台にしてのし上がってやる」
拳を握りしめてガッツポーズのようにぐっと力を込める啓一郎に、一矢はスティックを自分の顎に押し当てた。
高校から啓一郎を見てきている。一矢自身は家庭の崩壊に伴って学校を中退してしまっていて一時期は連絡も絶えたが、それ以降もまたこうしてメンバーとしてつき合いが復活した。
……啓一郎を見ていると、いつもその強さを羨ましいと思う。へこんだりすることは当然あるのだろうが、自分自身で暗闇の中、体を捻って光の方向を見つけ出すような。
開き直りにも似た潔い前向きな姿勢を、強さと思う。
癪だから口にこそ出さないが、ずっとそんなふうに自分も出来れば良いのにと思ってきた。
真っ直ぐ前を見つめる姿と、あっけらかんと人の輪にとけ込んでいける笑顔に、多分口を利いたことのなかった中学時代から憧れてきた。
自分にはいつもどこか陰がつきまとう。忘れきれない思春期のいじめと家庭崩壊。拭い去れない記憶。
光が出来る場所には、影が射す。
啓一郎の影が自分のような気がする。
そして影は、光に憧れながらもずっと……。
「やろーか。頭から叩いてってよ」
「あーい」
……ずっと、光になることは、出来ない。