第11話(1)
「……あのう」
「……」
「京子ちゃん……」
テーブルに突っ伏した京子の頭の上から、おずおずとした飛鳥の声が聞こえる。
「ねえ……泣いてるの?」
その言葉に京子はようやく、テーブルから顔を起こした。
一矢の部屋から帰るタクシーの中では泣きっ放しだった。家についてからも泣いて眠れず、朝になった。Opheriaとしての残り少ない仕事であるキャンペーンポスターの撮影があったから何とか来たものの、眠れずに泣き通しだった京子のひどい顔に、スタッフが慌てた。のみならず、メンバーも慌てた。
さすがプロのメイクが仕上げた顔に不自然さはなく、撮影を滞りなく終えてから、京子は飛鳥とふたりで近場の和食ダイニングに足を運んでいる。余りと言えば余りの京子の様子を見かねて、飛鳥が誘ってくれたのだ。
「もう泣き過ぎて、涙が涸れちゃった」
「とりあえず食べよう?食べてよー。体壊しちゃうよー」
飛鳥が悲しい顔で、サラダを取り分けてくれる。笑顔を作って礼を言うと、深々とため息をついた。
「……あのう」
「ん?」
「やめた方が、良くない?」
おずおずとした様子のままで、飛鳥が言う。先ほど、何があったのかを尋ねられて、簡潔に答えた京子の話への意見だとは聞かずともわかった。
「……」
「紫乃ちゃんにも、言われたんでしょう?」
「うん」
「あの、あたしも、近付かない方が良いんじゃないかなあって、思う、な……」
京子の気持ちを思い遣ってのことだろう。遠慮がちに言う飛鳥の言葉に、京子は一度手に取りかけた箸を取り皿の上に乗せて、ふうっとため息をついた。
「そりゃあね、京子ちゃんが、その……一矢サン?のことが好きなんならさ、あたしだって本当は応援してあげたいと思うけど。でも、話を聞いてると、もしうまく行くことがあったとしても、あたし、喜べない気がする」
「……」
「だって、他の女の子と遊んだりしてるんでしょ?そゆこと、平気でするんでしょ?」
京子が一向に食事に手をつけないものだから、飛鳥も遠慮をしてか、箸を置いて上目遣いに京子を見た。
飛鳥とは、同じOpheriaのメンバーの中では一番仲が良いと思う。京子よりひとつ年上なのにどこか頼りなく妹のようで、いつも素直な飛鳥が京子は好きだった。
「……うん。そう、言ってた」
一矢は、京子でなくても良いと言い切った。誰でも良いのだと。京子と付き合う気などないと……そう、はっきり、言った。
思い返せば、また視界が滲む。どれだけ泣いてもまだ泣き足りないのかと自分で呆れ、干乾びてしまうのではないかと馬鹿な心配が過ぎった。
「だったら、もし付き合ったって……京子ちゃん、傷つくだけな気がして、やっぱりあたし、喜べそうにない。ごめんね」
「……ううん。わたしも、そう、思うもの」
本人がそう言うのだから、間違いないのだろう。
一矢はきっと、誰でも良いのだ。相手が誰であっても、そういう――愛情表現のはずの行動や行為を抵抗なく出来るのだろう。だから、京子に何の感情もないくせにキスをした。つまるところは、そういうことだ。
だったら、仮に万が一何かの間違いで付き合うことがあったとしたって、何をしているか知れたものではない。京子には、それを許容出来るとは自分で思えない。きっと焦れてしまう。泣いてしまう。……傷ついてしまう。
けれど。
また、自分の中の好意が、一矢の弁護をしようと頭をもたげる。
傷つくのが嫌だから、悩む恋などしたくないから、一矢のことを否定して軽蔑しようと考える自分に立ち向かうもうひとりの自分が、自分の中に存在する。
――だったら、どうして何もする前に、あんなこと、言ったの?
京子が傷つこうがどうしようがどうでも良くて、肉体関係だけが目的ならば、どうして何もする前にあんなことを言った?
あんなふうに言われたら、普通は拒絶することを考えてもおかしくないだろう。
それが仮に、京子のように真面目な気持ちで恋心を抱いているのではなくたって、遊び相手のつもりの女の子だとしたって、あんなふうに直前に言われれば興醒めするに決まっている。そこに気がつかない一矢なのだろうか?まさか。あれほど手馴れた様子なのに、その程度のことに気がつかないはずがない。
それはどういうことか――京子に拒絶されることを前提とした発言としか、考えられないではないか。つまり、本当に京子に手出しするつもりがあったわけじゃない。あったんだとしたら、仮にあの言葉が本音で事実なのだとしたって、することをしてから言うべきだろう。あんなことを先に言えば、殴られて帰られるのがオチではないか。
そう思えば、京子は一矢が本当に京子の体目当てで部屋に誘ったのだとは考えにくく、それが一層、混乱させた。
だったら、どうしたかったのだろう。
一矢は、京子をああいうふうに傷つけることで、何がしたかったのだろうか。
「京子ちゃん……?」
黙ったまま考え込む京子に、心配したように飛鳥が声をかけた。その声にまた、顔を上げる。
「あ、うん?ごめんね、ぼーっとして」
「ううん。それは、いいの。だけど、京子ちゃんが心配で」
本当に心配そうに眉根をきゅっと寄せて、困ったような顔で京子を見る飛鳥に、京子は笑顔を作って答えた。そうして心配してくれる気持ちだけで、少しだけ元気になれるような気がする。
「ありがとう。……平気」
「うん……」
「……わたしね」
「うん」
自分の中で考えていても、答えが見えない。飛鳥が聞いてくれようとしているのだから、口にしてみることで自分の中を整理しようと、京子は口を開いた。
「やっぱりね、どうしても一矢さ……一矢が、本当の本当にひどい人とは、思えなくて」
「京子ちゃん〜。優し過ぎるよ〜」
「……だって」
どう言えば、上手く伝えられるだろう。漠然とした、勘のようなものを伝えるのは難しい。
言葉を探して、京子は飛鳥が取り分けてくれたままのサラダをじっと見つめた。
「本当にね、本当に……時々、凄く寂しい顔、するんだもの……」
「それがテなのかもしれない」
「テって」
唇を尖らせる飛鳥に、笑う。
そう、確かに女性慣れしているのだから、京子のようなタイプの母性本能をくすぐる手段を知っているのかもしれない。それは確かに否定出来ない。でも、だとしたらその場合の目的は、どこにあるのか。普通は、ベッドを共にすると言うそういうことになるのではないのだろうか。
「だけど、一矢……わたしに結局、何もしてないんだよ」
「キスはしたんでしょお」
「それは、そうだけど。でも目的がキスって、随分中途半端だとは思わない?」
「……う。それは、そうかもしれないけど」
「普通は、そういう……キスも含めて体目的って話だったら、そこで終わらないよね?」
「……ううううん」
「だったら、どうしてその……そういうことをね、する前に、そんなこと言ったのかなって思うの」
「……」
「だって、飛鳥ちゃんだったら、どうする?」
「え?」
「男の人のね、部屋に行って、その……そ、そういう感じになって、で……」
「……」
「……俺、他の人ともこういうことするよって言われたら」
言った途端、飛鳥が泣き出しそうな顔をした。恐らくは、付き合い始めたばかりの自分の彼氏に置き換えたのだろう。
「いや〜〜〜〜〜〜」
「嫌なのはわかるけど……。そうやって言われて、それで、『いいですよ』とはやっぱり、言えないじゃない?」
「言えない〜〜〜〜」
京子の場合は、そう言った一矢の顔がどこか自嘲的に見えて、寂しげに見えて、それでも構わないからぎゅっとしてあげたいと言う気になった。
けれど、「嫌だ」と思うのが普通だろうし、それは京子も思ったし、だとしたら「冗談じゃないわよ」と跳ね除けられて一矢が文句を言える立場ではないだろう。
「それに、気がつかないと思う?」
「え?どゆこと?」
「だから……嫌でしょ?飛鳥ちゃんだって嫌でしょ?それが、普通でしょ?」
「……うん」
「だったら『ふざけないでよ馬鹿』って引っ叩かれたって、普通は文句言えないでしょ?それがわからないと思う?一矢が」
「……」
「なのに、じゃあ、どうして何もする前に、そういうふうに言ったの?」
「……」
京子の言いたいことがわかってきたらしい。飛鳥が目を瞬いて、考えるようにテーブルを見つめた。
「本当にそういう人なんだとしたって、体目的なんだとしたら、普通は言わないか、後に言うとは思わない?」
「……じゃあ、一矢さんは、最初から京子ちゃんに何かするつもりがあったわけじゃないんじゃないかってこと?」
「じゃ、ないかなと思うの……」
「……」
飛鳥がテーブルに両肘をついて、組んだ手のひらに顎を乗せて京子を見た。あどけない顔をして、首を小さく傾げる。
「でも、だとしたら、もうホントに意味がわかんないよー」
「うん……わかんないのよ」
「何考えてるのー?」
それがわかれば苦労はしない。
一矢の行動の意味が、京子には全くわからなかった。一矢本人にでさえ自らの行動に収拾がいささかついていないと来れば尚のこと、わかるはずもないのだが。
「あのね、だけどね……」
「うんー」
「……べ、弁護、する、わけじゃない、けど……」
嘘だ。明らかに自分は一矢の弁護をしようとしている。飛鳥に対してではなく……言葉に出すことによって、誰より自分自身に対して。
「あの人、本当はね……物凄く、物凄く……不器用なんじゃ、ないかなあ」
「だって、女の子慣れ、してるんでしょ?」
「そうだけど。そういう意味じゃなくて。女の子の扱いとかそういうことには、確かに凄く器用なのかもしれない。にこにこしながら、平気で嘘とかつくのかもしれない……」
「……」
「だけどね、何て言うのかな……」
どう表現すれば良いかに困って、京子は一度言葉を切った。言葉を切って、一矢の姿を思い浮かべる。笑顔に覗かせる陰、優しくするのに傷つけようとする一貫性の読み取れない行動……どこか感じる、自分自身への、苛立ちのような、もの……。
「……生きることに」
「え?」
「生きることに、不器用みたいって言うか……」
言ってみると、何だかくさい言葉のような気がして、京子は微かに赤面した。けれど他に表現が見当たらず、更に言葉を探して視線を彷徨わせる。
「何て言うのかな。ええと……真面目に」
言いかけて、目を見開く。答えを見つけたような気がした。
そう、多分、そうなのだ。
「真面目に、自分とか他人と向き合うことを、怖がってるみたいな……そんな、気が、する……」
「え?」
「他の人と、本当の意味で深い関わりを持つことを、避けてる……んじゃ、ないかな……」
自分のことを嫌っているのかと尋ねた時、一矢は完全に虚を突かれたような顔を見せた。あの瞬間の顔は、多分、素顔だ。
どうしてあんな表情を見せたのか――図星だったからではないのか。その手の同情をされるのが一番嫌いだと言った、それは、的を射ているからではないのだろうか。
自分のことを嫌って、自分を痛めつけるような行動……本人には自分を痛めつけているような自覚はないのだろうが、深い関わりを他人と持つことを避けているのだとすれば、そうであるよう自分に強要しているのであれば、それは自分を痛めつける行動に他ならないし、そして多分ずっと満たされずに寂しいだろう。そして他人との深い関わりを避けると言うことは、深くなりそうな相手を遠ざけることでもあると思う。京子の想いを、恐らく一矢は、京子に確認する以前に気がついていた。
(だからなの……?)
幻想なのかもしれない。
一矢の言う通り、本当にろくでもない男と言うのはきっと、存在するのだろう。一矢がそうではないと言い切れないし、京子が好意的に解釈し過ぎなのかもしれない。
けれど、そういう人間が自分のことをそんなふうに言うものだろうか?本当にろくでもないのであれば、徹底的に演じきるのではないか?そんなふうに自分をろくな奴じゃないと他人に印象付けるような行動に出るものなのか?
一矢は、自分自身のことを自分自身が認められず、他人との深い関係を怖がって、一矢に恋愛感情を抱く京子を遠ざける為にあんなふうな行動に出たのではないのだろうか。
だとすれば……そんなふうに、生きていくのは。
(つらい、よね……?)
自分に好意を抱く人間を遠ざけて生きていくのであれば、一矢の周囲には本当に好意を抱く人間はいなくなる。本人から排斥されるのだから、そうなってしまうではないか。
「京子ちゃん?」
またも自分の考えに沈み込んでしまった京子に、飛鳥が心配そうな声を上げた。我に返りながら、顔を上げて口を開く。
「飛鳥ちゃん」
「うん?」
「……わたし、やっぱりまだ、諦められないかもしれない」
「え?」
飛鳥が驚いた声を上げた。
心配してくれているのは、わかる。その気持ちは嬉しいと思う。
けれど、本当に一矢がそんなふうに生きているのだとすれば、放っておけない。何かしてあげられないだろうか。そんな寂しい生き方……して欲しくない。
胸が、痛む。
一矢の、本心が知りたい。
本当は、どんな人なのだろう。
目に見える行動では、図れないような気がする。
人前に見せている言動とは、違う姿を持っているような気がする。
もっと違う彼の姿があるのではないだろうか。そこに、京子が信じようとしている彼自身がいるのではないだろうか。
「京子ちゃん、本気?」
飛鳥が、不安そうに眉根を寄せて、京子を見つめた。その言葉に、元気のない笑みを返しながら、京子は迷いと共に頷いた。
「だって、これ以上、傷つかないで欲しいよ」
「傷つくかもしれない。泣くかもしれない。……だけど、それでも、いいよ」
「京子ちゃん……」
「今、そう、決めた。……わたし……」
「……」
「わたし、もう少し、頑張ってみることにする」
やっぱりもっと、彼の本当の姿を、知りたい。
◆ ◇ ◆
「あ、俺、そろそろ帰っても良い?」
セカンドシングルのアイディアを含めたアレンジ作業がだらけてきたところで、不意に啓一郎が壁にかかった時計を見上げた。つられて一矢も目を向けると、いつの間にか9時近くなろうとしている。
「そうだね……何だか、このままだらだらやってても、ただただ視野が狭くなっていくだけのような気がする」
和希の言葉で正式に『本日解散』が決まり、啓一郎が立ち上がった。伸びをしながら、あくびをする。
「何?何か用事でもあんの?」
「ん?……うんー。まあ、ね」
言った割にはもう一度打ち込みを頭から流しながら尋ねる和希に、啓一郎は微妙に歯切れの悪い回答を返した。床に直接放り出してあったジャケットを引き上げると、袖を通しながら何やら曖昧な答えをする。
「明日って何だっけ。どうするんだっけ。さーちゃん、何か言ってた?」
「ああ。ええと、ラジオが17時半入りで、俺たちは6時半にブレイン」
「……すみません、俺の耳があなたの言っていることを受け止めたがらないんですけど」
「受け止めたがらなくてもそれが現実」
非常識と言えば言える集合時間に、啓一郎がムンクの『叫び』のようなポーズと表情を浮かべながら、よろよろと体を捻る。そんなヴォーカルにあっさりと答えた和希がそ知らぬ顔でスピーカの向きを直しに歩いていくのを見遣りながら、一矢もドラムセットから立ち上がった。
「まあ頑張って」
「何他人ごとみたいに言ってんだよ。お前も来るんだよ、おーまーえーもッ」