第10話(2)
「ドーラーム。あんねえ、俺、タイコ叩かない日がないの。ドラムって相当激しいんだよ、運動量。それに俺、中学から高校中退まで格闘技やってたし。少しだけ。……あんま関係ないか、もう」
半ばひとりごとのように言ったセリフに、麻美が目を丸くした。
「え?格闘技?」
「てほどでもないれすけろ。空手と剣道」
「うっそお。何で?あんたって意外性のある奴」
「それこそ何でよ」
「だって、スポーツ精神なんかこれっぽっちもなさそうじゃないのよ」
「ないよ」
「何なのそれ……」
「自衛手段」
ぼそっと言うと、麻美が一瞬無言で一矢を見た。
「昔、いじめられっ子やってましたんで。身を守る為に何となく」
その回答に、麻美は虚を突かれたような顔のままで一矢を見つめて、やがてふっとため息をついた。
「あんたが根暗なワケの一端が見えた気がするわ」
「そうでしょ。……うまいね。何これ、配達してもらったの?」
何食わぬ顔でもくもくと肉じゃがを指先でつまんでは口に放り込む一矢を、今度は麻美がぺしりと叩く。
「作ったのよ」
「えぇ?麻美さんが?手が荒れちゃうとか言いそうなのに」
「男ってこういうの弱いでしょ」
「うん。美味い」
「だから一時期、鍛えたの。エリート街道の良いのがいてねー。狙って頑張ったんだけど」
「だけど?」
「にわか家庭料理じゃ簡単にネタがつきて、本物の家庭的女に持って行かれたわ」
ふてたような麻美の言葉に吹き出す。一矢の態度に、拗ねたような顔つきで麻美が睨んだ。
「何よ。切実だったのよ。まったく冗談じゃないのよね……。散々わたし連れて人に見せびらかして、ベッドで楽しんだくせに、最終的には『君は俺にはもったいない』だとぉ?『綺麗なんだからもっと良い人がいるよ』とか言って、自分は家庭的以外何の取り得もない女と結婚よ。ふざけるなっての」
「そんで彼氏作るのやめたわけだ」
「そ」
人参を摘んで口に放り込むと、その指先を舐める。意外なほど下味がしっかりしていて、染み込んだ味が美味しい。
男性がこの手の料理に弱いと言う一般論は、やはり家庭を連想させる一品であるからだろうし、家庭環境に飢えている一矢にはありがたいことに違いない。大体、自分自身で作れるとは言っても、自分で作るのと人に作ってもらうのとはやはり違う。作れるからこそ尚更ありがたく感じる。
「それに、男って付き合うとうるさいんだもの」
「そう?」
「うるさいわよ。どこ行くんだだの、誰と会うんだだの、いつ帰るんだだの……あんたはわたしの何なのよって言いたくなるわよ」
「……だから、彼氏なんでしょ」
もこもこと口を動かしながら答えると、唇を尖らせて見上げる麻美を見下ろしながら続けた。
「不安なんじゃないの?それ」
「何が」
「綺麗だから、他の男が放っておかないでしょ。だからどっか行っちゃうんじゃないかって不安になって、そうやって縛ろうとするわけじゃない?」
「迷惑よ」
「だって麻美さん、平気でクラブ行ったままどっか泊まってそうだもん」
「泊まるかもしれないけど」
「ほら。だからだろ」
はあっとため息をついて、長いさらさらの髪をかき上げた麻美は、綺麗な切れ長の瞳で一矢を上目遣いに睨んだ。
「あんたもそうなわけ?」
「は?」
「付き合った彼女とかに。束縛しようとか思うタイプ?」
「……」
問われて一瞬記憶を遡らせる為に言葉を途切らせた一矢に、麻美は「そう言えば」と顔を上げた。
「あんたって特定の誰かと付き合ってたこと、あんの?」
「シツレーな。ありますよ」
「何だ。別に徹底して『彼女作らない主義』ってわけじゃないんだ」
「違うよ。単に今……って言うか、もう、欲しくないだけで」
「ふうん?その時はどうして付き合ったの?」
また小鉢に指を伸ばしてじゃがいもを摘む。
「どうしてって……最初は興味、次からはノリと惰性。そんなとこ」
「ろくな恋愛してないわねー。一番最後はいつなの?」
「んー。一応、1年前?くらいかな?もうちょい前になるか」
「え?意外に最近じゃないの」
「『レンタル彼氏』で」
「は?」
着々と小鉢の中が軽くなっていくことに気づかず、麻美が目を丸くした。
「いや、知ってるバンドの女の子が元彼につきまとわれててうざいとか言っててー。んじゃ、期間限定で彼氏しましょってノリで、一応は付き合ってた」
「……何なのそれ」
「んでもそこそこちゃんと付き合ってる形にはなってたよ。普通にデートとかして、お互いの家とか行って」
「でも『本物』には変わらなかったわけ?レンタルのままで」
「そう」
あっきれた、と目を細めて嘆息した麻美は、ふと手にしたままの小鉢を覗き込んで一層ため息を深くした。
「あんたねぇ。立ち食いのままで食べきらないでよ」
「腹減ってたみたい。……俺、麻美さんを好きになれば良かったのにな」
「もうちょっと持ってきてあげる。……何を言い出してるのよ?」
リビングに突っ立ったままで空になった小鉢を片手にキッチンへ戻っていく麻美の背中にぽつっと言うと、麻美がふと足を止めて振り返った。クッションの置いてある場所まで移動をしてすとんと座り込みながら、麻美を見上げて笑う。
「何となく」
「言ったでしょ。あんたの特定なんて願い下げ〜」
「知ってますよ」
「だったら、何よ?」
再び鍋から小鉢に肉じゃがを盛って戻ってきた麻美が、すとんと隣に腰を下ろす。麻美が持って来た箸をそっちのけで、先ほどの惰性のままに指を伸ばしながら、一矢は笑った。
「麻美さんって、裏表ないから」
「……良く言われるけど」
「でしょ。本当のところはそりゃあ知らないけど。俺から見て、そんな気がするから。裏表がない人は、裏を読む必要がないから疲れない気がする」
人を信じたくないと思うのは、裏で何をしているかわからないと思ってしまうからだ。要は必要以上に猜疑心が強いと言うことなのかもしれないが、裏表のない人間――耳障りの良い言葉だけを吐き、相手に居心地が良いようにだけ見せている人間ではなく、相手がどう思おうが自分の意見をばすばす言ってしまう人間は、裏を読む必要がないと感じる。真実裏表の全くない人間などいないのかもしれないが、少なくとも勘繰らなければ傷が跳ね返ってくると言うほどでもないように思える。
一矢にとって自分を受け入れてくれていると思える存在である明弘や啓一郎は、双方そのタイプなのだと言うことに、麻美を見ていてふと気がついた。我が強いと言ってしまえばそれまでだが、一矢の前で笑顔を見せて、見えないところで裏切っていると思えない。裏でやっている行動は、そのまま一矢の前でもやっているように思える。
「あんたって人に飢えてんのねー」
一矢が箸を使わないので自分が取り上げながら、麻美が肩を竦めた。
「でもさあ、そうやって付き合ったりとかしてるんだったら、何で京子ちゃんは駄目なわけ?別にそんなノリなら付き合ったっていーんじゃないの」
「もう嫌んなったんだよ。面倒臭ぇの」
「ふうん?何かあったわけ?」
「なーんも?……京子は俺に合わせようと思う人に見えるから、疲れるんだ」
だからきっと好きになることはないだろう。そうは思うけれど、それは泣かせても笑っていられると言う理由にはならない。本当の意味で深い傷をつけたのかもしれないと思えば、罪悪感が自分を責める。
しらたきを口に入れた麻美が、口の端を指で拭いながら眉を上げた。
「合わせるって?」
「メシ行く?って話になる。と、まず俺が食いたいのか食いたくないのか、次に食うんなら何が良いって気分なのか、とかね」
「ああ。可愛いじゃないの。自分がおなかすいてても、一矢が食べないって言ったら『わたしも大丈夫』ってにっこり出来ちゃうわけだ」
「多分ね。……俺、駄目なんだよ、そういうの」
「わたしだったら、あんた黙って座ってていーからつきあいなさいよってひきずってっちゃうわね」
麻美の言葉に吹き出した。テーブルの上に置いたままの煙草に手を伸ばす。
「でしょうねえ。……その方が、俺はいーんだ」
「何?女王様に仕えたいわけ」
「あほかよ。……自分の意志を口にしない人は、裏があるように見える。俺は臆病だから、そういう人は本当は何を考えてるかわからなくて怖いし、余計なことが気になる。今は好きなわけでも付き合ってるわけでもないからどうでも良いけど、そういう人に気持ち許したら俺は落ち着かなくてしょーがない。京子が本当に『意志を口にしないで合わせる人』で、麻美さんが『自分の意志を伝える人』なのか事実は知らない。だけど俺の目にそう映るってだけで、京子とはずっと一緒にはいられないし、麻美さんは好きになれば良かったのになって思ったりする」
……そしてそれこそが、一矢が紫乃に惹かれた理由のような気がする。
もちろん、それだけではないのだろう。それなら麻美の方が遙かにわかりやすいのだし、恋愛感情に理由をつけるなど無意味でしかないこともわかっている。
けれど彼女は、一矢が気を許せる種類の人なのだろうと思える。彼女に対してはなぜか、一矢が飾らない姿で最初から接していたのが良い証拠だ。多分、恋愛感情などと言う面倒臭いものが芽生えるその前から。
一矢の見ている紫乃の姿が、彼女の本当の姿だと思うことが出来る。
少なくとも紫乃は、一矢に対して良いところを見せようなどと言う考えはこれっぽっちも持っていないだろう。
「本当に裏表のない人間なんかいないし、少しも傷つかない恋愛もないわよ」
再び小鉢を空にして、ほとんどを一矢に食べられてしまった麻美が虚しく箸を置いて膝を抱えた。からかうような言葉に、笑った。
「そりゃあわかってますよ。麻美さんは裏切りまくるんだろうなあ」
和希は『間違える』と表現したっけ。
そんなことを思い出しながらくすくすと笑うと、麻美は小さく舌を出した。
「裏切るわよ」
「でもそれさえも、言いそう、麻美さんて」
「何て?」
「わたし今日は別のオトコんトコに泊まるわよッって」
「それじゃあわたし、馬鹿じゃないのよ」
「している行動が、嘘にならなければいいんだよ、俺はきっと」
「……」
「『笑顔』って言う嘘が、多分一番怖いんだ。『優しさ』って言う偽りが、一番傷になる」
「ふうん?じゃあ嘘にならなきゃ何をしても許せるっての?」
笑子のことについて語った明弘の横顔を、不意に思い出した。どこまで許してやれるかやってみるしかないと言った冷めた横顔。どうしても笑子のそばにいたい明弘は、自分に徹底した我慢を強いている。あの様子を見る限りでは、それこそ笑子は嘘をついて隠したりしている様子ではなく、明弘の覚悟を知っていて調子に乗っているとしか思えないが、明弘のように自分が出来るとは思えない。
「まあ、無理でしょうな」
「んじゃ嘘じゃなけりゃいいわけじゃないじゃない」
「そうだけど、嘘がなければこっちも自分の気持ちを言える。隠されてたら疑うしかない。どうせ裏表が本当にない人間なんていないって言うんだったら、少しでも嘘がなくて見えている姿が多い方がましのような気がする。……そんなことない?」
麻美が肩を竦めた。
「どうかしらねー。わかんないわ。黙ってる方が親切なことだってあるんだし、それもひとつの優しさなわけだし。だけどわたしにはそういう配慮が出来ないってだけで、あんたにとって楽な相手かもしれないけど、結局好きになったわけじゃないんだったら何かが違うんだろうし。自分の望むような相手を好きになれりゃいーのかもしんないけど、なかなかそうはいかないし。相手の気持ちなんて一層だし」
「俺の特定は願い下げだもんね」
「願い下げ〜」
また繰り返す麻美に、一矢は笑いながら軽く頭を小突いた。麻美も笑いながら「痛いな」とぼやいて、少し意地の悪い顔つきで一矢を見た。
「それに実際、あんたはわたしと付き合いたいわけじゃないもんね。……でも、何よ?いやに真面目に恋愛について語るじゃない。何の心境の変化?」
パッケージから抜き出した煙草に火をつけながら、天井を仰ぐ。確かに少しずつ、自分の心境が、変化しているのかもしれない。
紫乃に対する気持ちや京子の想い、啓一郎の言葉や和希の話、そして武人や明弘の恋愛模様……一矢の胸に小さな波紋を投げかける。ずっとこのままのイミテーションの中で良いのだろうか。自信のない自分の姿を虚像の中に押し込めて、上辺をなぞる関係だけを築いていくことに意味があるのだろうか。
本当に望むものは、自分を受け入れてくれて信じ合える誰か。
与えられるわけがないと思うから目を逸らしてきたそれは、目を逸らし続けていたら永遠に手に入らないままなのではないか。
――この人の為だったら傷ついてもそれでも良いって決めて、その覚悟が前提にあってこそちゃんとした信頼関係って築いていけるもんだと思うんだよ
傷つく覚悟が出来ないままでは、何も変わらない。欲しいものは手に入らない。
(それでも良いって思ってたけど……)
果たして、本当にそれで自分は良いのだろうか。
◆ ◇ ◆
8時過ぎになって、一矢は麻美の部屋を出た。泊まれば、と言ってくれたのだが、久々にちゃんと自分の部屋で夜を過ごしてみる気になった。
目を逸らし続けている何か――いつからだろう。そんなふうに、歪んだのは。
渋谷駅付近まで戻って来ると、そのまま何となく単車を円山町の方向へ向ける。一矢の実家があった場所である。
道玄坂より中に入った路地沿いの一矢の実家は古い一戸建てで、マンション建設やラブホテルなどの不動産業者には今ひとつ魅力的な場所ではなく、と言って一般の人が買うには土地柄的に高く狭いようでなかなか買い手がつかないようだ。今は住む人が誰もいないその家は、まさしく廃墟の状態で放置されている。
崩壊した家庭像の象徴のようで、ここに足を運ぶことは普段はない。大体、足を運ぶ用事がない。
猫の額ではあるが、荒れた僅かな庭を朽ちそうな低いブロック塀が覆っている。黒い鉄柵の門は塗装が剥げ、脇から垂れ下がった手入れされない木の枝が、お化け屋敷を彷彿とさせて、思わずひとりで苦笑した。……住んでいたのに。ここに。
少し迷って、門に手を掛ける。けれど、父親が委託した不動産業者が一応管理でもしているのか施錠されていて、仕方なく門を乗り越えて中に入った。やはりこれも不法侵入になるのだろうか。いや、不動産業者に預けているだけで、権利者の息子なのだから咎められる謂れはないはずだが。
荒れ放題の庭だから、夏だったら蜘蛛の巣でも張り巡らされていそうなものだが幸いにして2月の今、難なく庭を通過することが出来た。建物の玄関口にまで辿り着いて、扉に手を掛けてみる。もちろん、開く気配はなかった。一矢も期待してはいない。
それから、ドアに手を当てたまま、その扉を見上げた。
この内側には、かつて、『家庭』があった。
今は、この内側には、何もない。
一矢は子供の頃、友達がいなかった。一人っ子でおっとりと育った一矢は、どちらかと言えば内気で人見知りをする子供だったらしい。幼稚園の頃まで同居していた今は亡き祖母が、ひどく可愛がってくれていた。欲しいと言うものは買い与え、今でこそ長身の痩せぎすと言える体型の一矢だが、子供の頃は肥満だった。
子供と言うのは残酷だ。自分を偽らないから、いとも簡単に排斥をしようとする。
人見知りで、大人しくて、身長が低く肥満体で、運動も勉強も出来なかった一矢は、排斥された。世間で言ういじめと言うやつだ。友達になってくれる人などいなかった。
今振り返れば、自分にも大きく責任はあったのだろうとは思う。体型や能力が排斥の理由の全てではない。積極的に他人と交わろうとしなかった。どうやって交わって良いかわからなかったと言うのはもちろんあるが、子供心の下らないプライドのようなものもあったのだろう。「そちらがそういう態度なら」と言うひねくれた考えがなかったとは言えないのではないだろうか。きっとそれが、排斥を長引かせる理由になった。
けれど、それでもあの頃はまだ、今よりもっと素直だったような気がする。
怪我をしたり、靴を取り上げられたり、いろいろと心塞ぐ事象はあったけれど、家に帰れば父がいて母がいた。特に問題がある家庭ではなかったはずだったのだ。父は仕事人間と言うタイプではなかったし、母も昼間にパートに出ているだけで夜には家にいてくれた。夕飯の食卓は、出来る限り家族みんなで囲むような、そんな家だったはずだ。
母に諭され、中学に入った頃から、あらゆる努力をした。周囲に変わることを強制するわけにいかないのだから、状況を変える為には自分を変えなければいけないのだと気がついた。
まずは原因のひとつだろうと思える体型を変える為に、食事の管理と運動を日課にした。同級生から受ける暴行に肉体的にも精神的にも抵抗出来るよう、空手と剣道を始めた。成績が少しでも上がるよう、授業はもちろんのこと予習や復習も確実に行うことに決めた。誰か遊ぶ人がいるわけではないのだから、時間だけは豊富にあったのだ。とは言え、遊びたい盛りに、自分でも良くやったと思う。逆に言えば、それだけ、この先の人生をその環境の中で生き続けることがどうしても嫌だった。何としてもそんな生活は、中学時代で終止符を打ちたかった。
3年間の苦痛を乗り越えようとした頃、他校の女の子が一矢に接近してきた。
綺麗な女の子で、異性どころか同性とさえ無縁だった一矢が困惑しながらも嬉しくなるのは無理もないだろう。
完全に彼女にはまり込んだ一矢は、彼女に振り回され、手ひどく傷つけられ、死にたいと言う気さえした。女性は怖いと思った。
ようやく高校に進学して手に入れた生活の中では、これまでのような仕打ちを受けるようなことはなく、彼女から受けた痛手から脱け出せそうになった時、今度は家庭が崩壊した。
常にひとりだった自分の背中を温かく押してくれていたはずだった母親が、あっさりと蒸発した。そんなものかと思った。
歪み始めたのは、この頃だったのだろうか。欲しいと思ったものからは傷を受ける、手の中にあると思っていたものはあっさりとそばを離れる。
だったら望まない方が良い。
3年間を費やして手に入れたはずの生活はいとも簡単に崩壊し、人間関係なんて所詮儚いものなのかと思わざるを得なくなっていった。あれほど努力しても、自分は駄目なのかと考えずにいられなかった。今そこにあるように見えるものも、必ずなくなるのだと感じた。
考えるのをやめてしまえ。望まなければ楽になれる。人と同じような生活を、人間関係を、駄目な自分が求めること自体が勘違いなのだ。
けれど。
……ならば、自分が今生きている意味は、どこにある?
「うわ」
不意にポケットで携帯が振動した。思わずびくりとして、小さく声を漏らす。完全に意識が現実から飛んでいて、携帯の振動は心臓に悪い。
取り出してみると、メールの受信だった。短い振動を終えて静かになった携帯が、ぼんやりと暗闇に明るい。受信したメールが紫乃からのものであると気づいて、一矢は切なく目を細めた。
生きる意味が欲しいと思った。
自分には明弘が教えてくれたドラムしか出来ることがないから、それを生きる意味にしたいと望んだ。
その夢は、少しずつ形になろうとしているように思える。危うくても、脆くても、それでもきっかけだけは掴むことが出来たのだ。
なのに満たされない。人はやはり、人を望むのだろうか。諦めてもやっぱり、諦めきれないものなのだろうか。もう傷つくのが嫌だと思いながら、そばにいてくれる人が欲しいと思い、そしてそれはやはり、誰でも良いわけではないらしい。
欲しいのならば。
ならばもう一度、傷を受ける覚悟が必要だろうか。この人の為なら傷ついても良いと思う覚悟が、必要なのだろうか。……そこまでして、自分は望んでいるのだろうか。
メールの文面に目線を落とし、それから携帯を操作する。呼び出した電話が繋がるのに、そう時間はかからなかった。