第9話(4)
「前に大倉千晶に会ったけど、到底そういう対象に見えないじゃん?『あ、芸能人』って感じで。別もんって言うか」
「んでもさぁ、周囲の人がたまたま有名になっちゃったって言うか、有名だったってだけで、別にその辺の感覚、そんなに変わらないんじゃないの?」
「そうなのかなぁ」
「だって紫乃だってあー見えて結構有名人だと思うよ。話してみれば別に普通の人だったりするわけでしょー?」
啓一郎だって紫乃とはちょくちょく話しているはずだ。そう思って名前を出してみると、啓一郎はきょとんとしてから納得したように「あー」と呟いた。
「そう言えばお前、Opheriaの京子ちゃんにちょっかいかけてたっけ。付き合ってんの?」
これまた痛いツッコミである。ようやくページを変えながら言った啓一郎に、一矢は小さく嘆息した。
「……さーてね。特定で付き合ってるつもりはないけど、遊んだりはしてるけど」
一矢が他の女の子と遊んだりしていても構わないと言った、京子の悲壮な顔を思い出す。残酷なことを言わせてしまったのだろう。一矢のことを好きだと思っているのなら、良いわけがないのだ。まして、京子が誰とでも寝るような女性ならばともかくも……あの状況下で「それでも良い」と言ったその言葉の裏には、今振り返ってみれば京子なりにかなりの覚悟をしていたような気がする。あのまま遊ばれて終わりかねない状況だと言うことは、京子だってわかっているだろうに。
あの日の京子を振り返ってみれば、自分は何かを間違っているのだろうかと思わなくもない。
彼女は本当に一矢のことを好きなのかもしれない。……そんなはずがない。思い込みに過ぎない。
考えるほどに、自分がどうしたいのかがわからなくなる。
そんなことを考えて煙草の先で灰皿をなぞりながら、ハタチを越えた男にしてはやけに無邪気な顔で一矢を見上げる啓一郎のあどけない顔を見下ろした。
啓一郎は、失恋の傷は、癒えたのだろうか。
「……啓一郎ってさ、和希が由梨亜ちゃんのこと振ってたら、どうした?」
啓一郎が好きだった女の子は、現在和希の彼女だ。
けれどもしも、和希が由梨亜を振っていたら……想う人が見込みのない人を今でも想っているとしたら、啓一郎だったら例えばどうするのだろう。
陽のあたる道を歩く啓一郎は、自分とは違う選択をしようとするに違いない。
「はい!?」
ふとした問いかけだったのだが、啓一郎は一矢の口からそのことに触れられるとは予想していなかったらしく、床に頬杖をついた姿勢から思い切り顔を滑り落として、畳に擦ったらしい肘を抱えてのたうった。……激しいリアクションをありがとう、である。
「何を唐突に……」
「や、好きだったでしょ?彼女のこと」
あっさり尋ねる一矢に、ようやくのたうつのをやめた啓一郎はしばらく沈黙した。改めて床に転がり直して、深いため息と共に顔を伏せる。
「……まぁ」
「例えば和希には既に他に好きな人がいて、由梨亜ちゃんは和希のことを好きにも関わらず振り向いてもらえないでいたとしたらさ……」
「……」
「そしたら、どうした?」
「……ありえない悲しーい想像をさせないでいただけます?」
「そう?悪い」
ぐるぐる唸りながら睨み上げる啓一郎に、つい笑いながら弄んでいた煙草を灰皿に押し付ける。啓一郎は少し悩むように目線を伏せていたが、やがて、低く答えた。
「そしたらこっち向いてくれるよう努力したんでないの」
それから、ようやく床から体を起こす。ちらりと視線を向けると、啓一郎の方は切なさの滲むような顔を伏せたまま、低く続けた。
「向こうがうまくいくんだったら……相手に幸せになって欲しかったら応援してあげるしかないから応援するけど。うまくいかないんだったら、自分が幸せにしてあげられるよう努力するしかないじゃん」
紫乃と、少し似ていることを言っているような気がした。
相手の幸せを願うなら。
(幸せを願うなら……?)
――家族が、いるでしょ。自分にも、相手にも、家族が。
また、ウェディングドレスに見惚れる紫乃の横顔が脳裏に過ぎる。
あの時考えたことが、記憶に蘇る。
いつかの遠い将来、一矢が誰かと結婚することになったとしても、相手の女性には紫乃が描くような家庭像は与えてあげられない。
――俺にはこの先もきっと彼女の望むものを与えてあげることは出来ないのに、それがわかっているのに、それでも続けようとするのはもう俺自身のエゴでしかないでしょう
武人の声が、聞こえる。
「全然関係ない他の誰かにとられるくらいだったら、俺が幸せにしてあげたいよ」
――望むものを与えてあげられない俺には、彼女を幸せにしてあげることは出来ないです……
「どう、努力するかはその人との関係によるから何とも言えないけど。何もしないで諦めたりはしないな多分」
そもそも、紫乃に惹かれていたとしたって、振り向いてもらえるよう努力することさえ間違いなのだと言う気がしはしまいか。
紫乃が夢見る未来を、一矢は知っている。紫乃がこちらを向こうが、どちらを向こうが、それはどんなに努力をしても、一矢は与えてやることが出来ないものだ。
全てが、紫乃への想いを断ち切ってしまえと言っているように思える。
無言の一矢に、啓一郎は煙草を咥えて火をつけると、ちらっと目線を向けた。
「誰の話?」
「……誰ってこと、ないけど」
「京子ちゃん?」
悩む恋愛ならしたくない。
いつか裏切るものならば、そばに欲しくない。人は裏切る。そして本当に愛されるほどの何も自分は持っていない。
だから最低になってしまえば良いと思った。
けれど、わからなくなる。
紫乃に、笑って欲しい。こちらを向いてくれるはずなどない。自分は彼女に何も与えてやれない。少しは元気付けてやれているだろうか。まさか。彼女は京子を応援している。いや、最低である自分に京子が近付かないことを望んでいるのだったか。今も一向に如月を忘れることは出来ないのだろうか。何かしてやれないだろうか。いや、関わりを持てば次を期待したくなるだけだ。期待したくなればそれは、想いを深める。深めた想いは、致命傷を生む。
京子は、早く自分に近付くのをやめた方が良い。紫乃の言う通りだ。なぜなら彼女のそれは思い込みに過ぎないし、本気になるほどの価値を自分は持っていない。今ならば傷も浅くて済むだろう。擦り剥くくらいの怪我なら骨折するよりはましではないか。だからさっさと傷つけてしまおうと思った。傷を負えば彼女も気がつくだろう。けれど間違いだったのだろうか。擦り剥かせるくらいのつもりだったものが、予想以上に大怪我を負わせてしまったのだろうか。
京子が本気で好きになるような何らかの価値があるのだろうか。
自分も、誰かに愛情とやらを求めても良いのだろうか。
――そうして、結局深い傷を負うんじゃないのか?
いつからこんなに臆病になったのだろう。
(はは……わかった……)
乾いた笑いが小さく漏れる。自分のことが嫌いなのかと尋ねた京子の声が聞こえた。
今、わかった。人を信用していないわけじゃない。一矢が信じていないのは、誰より自分だ。
人に裏切られないほどの何かがあると自分に思えないから、だからいつか自分の側から誰も彼もがいなくなるような気がする。
ずっとそばにいたいと思えるほどの価値を自分に見出せないから、去っていくのが当然のことなのだろうと思っている。
だから、僅かな笑顔が嬉しい。その瞬間だけ価値を感じられる。人の優しさに触れているような気になれる。
けれどそれと同時に、人から受ける傷の痛さも知っている。そんな思いをするくらいだったら、誰とも深く関わらずに生きた方が利巧だろう。満たされるのが一瞬だけでも良いのだ。メリットもささやかながら、デメリットも些少となるのだから。
なのに。
あれほど京子を傷つけることをして、紫乃も京子も遠ざけようとして、にも関わらず、自分はやっぱり望んでいるのだろうか。
そばに、いてくれる誰かを。
「ま、別にいーけど」
答えのない一矢に、啓一郎が肩を竦めて立ち上がった。備え付けの冷蔵庫を覗き込んで、「うぉぉぉぉ」と呻いている。
「え?」
「何もない」
呻くだけ呻いて冷蔵庫を閉めると、啓一郎は煙草を口に咥えたまま、持ち込んできたペットボトルを荷物から引っ張り出した。
「じゃあさ……」
ぽつんと口を開く一矢を、立ったままの啓一郎が見下ろした。伝える言葉に迷う。いつも前向きな姿勢でいる啓一郎の答えに、ぐちゃぐちゃの自分の胸中の指針を見つけて欲しかった。
「じゃあ、もし自分がさ……」
言葉を選びながら、それでももしかすると自分は恵まれているのかもしれないと、ふと思う。
「……だめだ、うまく言えないなぁ」
「何だよ?」
こと恋愛において、誰とも信頼関係を築きたくないとそう思ってはいるけれど、恋愛を離れた場所には自分を吐露出来る人間が僅かながらも存在しているのだ。
明弘にしても啓一郎にしても、一矢にとっては数少ない心許せる存在なのだと気がついて、先ほどとは少し違う笑みが漏れた。完全に孤立無援で生きているわけではないことにふと気がついたことに、小さな幸せを覚える。そんなことを考えているとは当然気がつかずに、啓一郎はきょとんと一矢を見つめたままで言葉の続きを待っていた。
曖昧に濁す例えを探すのをやめて、一矢はふっと息をついた。うまく話そうとしなくて良い。啓一郎なら多分わかってくれるだろう。
「啓一郎だからいーか」
「は?」
「言っても。……最近、気にかかる人がいて。彼女がさ、『幸せな結婚』って奴に憧れてるわけ」
「はあッ!?」
うまく話そうとするのを放棄した一矢の、余りと言えば余りに唐突な話題に、啓一郎がぎょっと声を上げる。その瞬間存在を忘れられた煙草から灰が零れ落ちそうになった。
「啓ちゃん、煙草、灰」
「あ……」
一矢の指摘に、啓一郎は慌てて煙草の灰を灰皿に落としながらも一矢を凝視した。
「……結婚?」
「別に今すぐって話じゃないよ。……や、出来ればすぐとか早くとかが良いのかもしれないけど、あくまで『いつかは』とかって話で。夢って言うか。別に俺に要求されてるわけじゃ当然ないし」
「……」
「幸せな自分の家族に凄い憧れてるんだってさ。あんまし、幸せな家庭ってのに恵まれてなかったみたいで」
「ふうん……」
ウェディングドレスに幸せを夢見る紫乃の、目を細めた顔が胸に蘇る。
「結婚すると普通は両親が増えるでしょ?相手にも親がいるんだから」
「ああ」
「『お父さんとお母さんが出来る』って嬉しそうに言うわけさ」
一矢の言いたいことが、わかったらしい。啓一郎は一矢の家庭の状態を知っている。
「彼女がいつか夢見る結婚って奴には、ちょうど啓一郎んトコみたいな両親の姿があるんだよ」
言いながら、かつて何度か行ったことのある啓一郎の家を思い出す。一矢にとっては羨ましいほどの、理想的な家族像と言う気がした。無口だけどどこかとぼけた父親と、元気で天然ボケの入った母親、しっかり者で美人の姉とおっとりした内弁慶の妹。
「俺、どう頑張っても無理じゃん?その夢だけは叶えてあげられないじゃん?」
啓一郎が、無言で見つめる。その視線を感じたまま、一矢は淡々と続けた。
「したらさ、いくら未来の話、つきあってもないものを結婚がどうとかって話なんかそれ以前の問題だろって言っても、どんなにうまくいったとしても未来永劫彼女の望みを叶えてあげるのが不可能だってわかってて」
「……」
「俺の方を向いて欲しいなんてさ、言えないよな……」
「……」
「振り向いてくれるよう頑張るのさえ、間違いだろーな、とか」
望むものを与えてあげられないことがわかりきっていてこちらを向いてくれるようする努力は、エゴにしかならない。
……出来れば、啓一郎に肯定して欲しい。彼女への気持ちを摘んでしまうことが正しいと、そう言ってもらえれば、諦めるのも少しは気が楽にならないだろうか。
紫乃に嫌われようと思うその行動は、後悔……しないで済むだろうか。
けれどその反面、啓一郎の答えは見えているような気もした。真っ直ぐな気質の啓一郎の回答が、屈折した一矢の回答と同じところに辿り着くことはまず考えられない。
「でも、そもそも結婚って相手の親とするもんじゃないし」
「それはそうだけど、でも夢が『それ込み』でこそ、でしょ?」
「……」
「彼女が望んでることがわかってて、それは俺には最初から無理で、だったら俺のこと好きになってくれるようそもそも頑張ったらいけないような気もしません?」
「うまくいきそうだったりすんの?」
「……どうかな」
未来は、見えない。
一矢の前で泣いている姿を思えば、殴られる前だったら、努力してみれば違う未来へ繋がる可能性もゼロではなかっただろうか。
いずれにしても、そんな芽は摘んでしまった。
「気を許してくれている、ような感じがしないことも、ないけど……」
京子のことを挟まないで交わす会話は、気を許しているようにも見える。会話を交わしている間に笑顔が戻ってくれる事実がある。最低と殴られた後でさえ。それは、あの出来事さえなければ彼女は気を許してくれている部分があるのではないだろうか。それともこれは、希望的観測と言う奴かもしれない。
もちろんそれは、恋愛的要素を含んだものとは最初から思っていないけれど。
「彼女のことを気に入ってる人ってのが、他にもいるわけ」
「へえ」
「俺なんかより、その方がずっといいんじゃないかって気もしたりする」
「……」
言葉を口にしながら同時に自分の中を探る一矢に、啓一郎は微かに唇を尖らせた。
真っ直ぐ前を見る、意志の強い瞳が一矢を見つめる。
「こっち、向かせてみなきゃ話になんねーんじゃねーの?」
「……」
「好きなら、好きになってもらえるよう頑張って、そっから2人で考えることなんじゃねーの?」
一矢と違って余計なことをあれこれ考えない啓一郎の、端的な答えに一矢は僅かに笑った。真っ直ぐな気質の啓一郎らしいと言えば言える回答だ。
その言葉には、「余計なこと、考え過ぎてんじゃねぇ?」と言う意味が含まれているような気がする。
「啓一郎なら、頑張ってみる?」
「俺、多分そんなに我慢きかねーもん。何も意思表示しないで諦めるのが出来ない気がする。……後悔、したくないし」
「……」
「相手が……由梨亜ちゃんみたいに確実に好きな人がいて、絶対俺の方なんか向いてくれそうになけりゃ黙ってるかもしんないけど、そのコ、好きな相手と既に見込みがないんだろ?」
如月が紫乃の方を向くことは、恐らく紫乃の様子を見る限りはないのだろう。
「まあ……」
「気は許してくれてる感じなんだろ?だったら……」
啓一郎の言葉を聞きながら、一矢は無言で自分の前髪をくしゃくしゃと掻き混ぜた。
どうしたいのだろう。どうすれば良いのだろう。
理性と感情が、裏腹な行動を己に強いる。
離れてしまえ。忘れてしまえ。嫌われてしまえ。――手を貸してやりたい。声が聞きたい。笑って欲しい。
行動に一貫性が取れていない。考えがまとまっていない。浮かぶ考えを、また否定しようとする自分がいる。
「俺だったら多分諦めつかないよ」
……結局は自分もそういうことなのだろうか。
自分に自信がないから、余計なことを考え過ぎて自分で足を引っ張っている。
けれど、結局それでおしまいにならずにぐるぐる同じことを考えるのは、要は『諦めがつかない』の一言に集約されてしまっているのかもしれない。