第9話(3)
「と、胃袋が満足して体が内側からあったまると、人って今度は眠くなんのよ」
「そんな時間に料理なんて近所に迷惑だよ」
「だから簡単にって言ってるっしょ。最悪、インスタントラーメンでもいいんだよ」
「しかも『眠れない』なんつってる時間から食べて寝たら太るじゃないー」
「劇的に太るほど毎日やるなよ。1日、2日くらい、モデルやってるわけでもあるまいし、平気だよ。食わず眠らずでいる方がよっぽど健康に悪い」
「……」
「知ってるか?ろくでもない考えってのは、夜と共に現れるんさ」
「……」
「んで、朝と共に、消えるの」
そこまで言って、一矢は黙った。紫乃も、黙る。けれど、先ほどはさっさと切りそうな勢いだった電話は、切るつもりは一応なくなったようだった。
遠く窓の外の真っ黒なビルで、赤い光が点滅しているのが見える。移動する光は、多分車。京子は、家についただろうか。
やがて、電話越しに紫乃のくぐもった声が聞こえた。
「……果てしないよ」
「何が」
「忘れられるまでが……」
「……」
「夜になると、涙が出るんだ。ひとりで家にいると、頭がおかしくなりそう。……本当だね。夜になると、ろくでもない考えが忍び寄ってくるって感じ」
先日『最低』と言い放った一矢に対して言うのが、複雑な気持ちにさせる。……言わずにいられないほど、未だ、追い詰められているのだろうと思えば、如月への紫乃の想いが痛い。
「だからそういう時間は意識不明で過ごすに限るでしょ」
「意識不明って……病気みたい」
「意識があるから、ろくでもない考えの付け入る隙を与える。意識不明でいりゃあ、朝にはそんな考え、部屋を出て行ってる。だから、食って寝るの」
一矢の言い方に、紫乃がくすくすと笑った。電話越しに密やかな笑いは、耳元でふわふわするように感じて少しくすぐったい。
ようやく笑ってくれたことが嬉しく、そして嬉しいと感じてしまう自分に頭を抱えたくなった。
(和んでどーすんだよ……)
嫌われたいと、そう願ったのではなかったか。最低と紫乃に嫌われてしまう為に、そして同時に京子に手を引かせる為に、今し方彼女をひどく傷つけたばかりではないか。……希望を、想いを、摘む為に。
なのに、笑ってくれると……嬉しくなる。
「今頃何してんのかなあとか、考えちゃう」
「考えてもわかりようがないんだから、考えるのをやめんさい」
「そんなあっさり言わないでよ〜」
「脳細胞の無駄遣いれす」
次が、欲しくなる。
また、笑って欲しいと願ってしまう。
「しっかし『食って寝る』ってのも凄いなあ」
「そう?」
「いやー……言われてみれば確かにお昼食べた後は眠くなるって言うけどさあ。普通夜眠れないって人に言わないよね。ラベンダー枕元に置くとか、足を高くするとかは聞いたことあるけど」
「しょっちゅうやんなよ。まじ太るから」
「そしたら神田くんのせいだから、責任取ってもらう」
「責任の取りようがねーし……」
ぼやく一矢の耳元で、紫乃がまた、笑った。
「んでもさ、料理とかやんの?」
「やんないように見える?」
「前提として見える見えない以前に考えたことがなかった」
「だって俺、バーでメシ作って金もらってるもん」
「えええ?」
時間を気にしてか、紫乃が小さく驚いた声を上げる。棘だらけでテンションの低かった声が、少しだけ元気になったような気がした。
「うっそ」
「まじで。今度食いに来たら。武藤くんが場所知ってる」
「え、奢り?」
「倍払い」
「死んでも行くもんか」
こうして話している間に、落ち込んだ気持ちも少しは上向いてくれただろうか。そう考えて、一矢は自分にため息をついた。
今思えば、京子のことさえ絡めなければ、紫乃はどこか一矢に気を許してくれているように見えるのだ。そういう気質なのだろうし、特別だなどとはもちろん思っていないが、いくら流れ上と言ったって気を許せない人間相手に自分の恋の傷など曝け出せないだろう。
……駄目だ。その、どこか気を許してくれているような様子に、結局のところ次を望んでしまう。
繰り返せばそれが、一矢の中の想いを……。
「あ。でも忘れないでよねー」
くすくすと楽しそうに笑っていた紫乃が、不意に咎めるように言った。けれどその声は既に、電話に出た時ほどの険は姿を消している。
「はい?何でしたっけ」
「んだから。あたしはまだ怒ってんの。ひどいこと言ったことッ」
「ああ……」
怒ってひっぱたいて「最低」と言ったことを忘れて和んでしまった自分に気づいたらしい。紫乃の言葉に、一矢は切なさを顔に滲ませて、笑った。
「わかってるよ。最低なんでしょ、俺」
タイムリーな話だ。
「そうだよ。だから……」
「……紫乃」
「え?」
「京子ちゃんを慰めてあげた方が良いかもね」
「……え?」
紫乃が息を飲んでぽつっと問い返す。今し方笑ってくれたばかりだけに、嫌われるとわかっていることを口にするのは、さすがに躊躇った。
「京子ちゃん、ついさっき、俺の部屋から泣いて帰ったよ」
「……」
紫乃が黙って目を見開くのが、見えたような気がした。
「どうして……」
「こんな時間に『俺の部屋から』『泣いて』帰ってんの。……近いとこまで、想像つくんじゃないの」
「……どうして」
紫乃が呆然としたように繰り返した。それから、沈黙する。幾度か言葉を口にしかけるような気配を、一矢は黙って聞いていた。紫乃がようやく、言った。
「あんたって本当に……わかんないよ」
「何が?」
「だって……」
言葉に迷うように、紫乃が黙る。その沈黙に、一矢は笑って、答えた。
「この前のあなたの言葉が、答えなんじゃないですか」
「え?」
「わかりやすいでしょ。……最低、なんですよ。俺は」
◆ ◇ ◆
「一矢くん、どしたの。寝不足?」
「……寝不足」
「啓一郎くんは……寝不足って次元を越えちゃった顔してんね」
「……ん〜?何〜……」
「何でもない。寝てて良いよ。和希くんもどうしたの?魂、ここにある?」
「ない……」
翌日、Grand Crossの面々は事務所で一本仕事を片づけてからそのまま、佐山の運転する車にて西日本へと攫われている。
その車の中で、何があったのか、一矢を筆頭に啓一郎、和希とそれぞれ睡眠不足の顔をしていた。武人だけがけろっとした顔で、運転をする佐山の隣でナビゲーターを務めている。
Grand Cross所有のバンは、やはり余りにボロ過ぎるだろうと言うことで、事務所がもう少しましなバンを貸し出してくれた。以前より車内も少々広くなったとは言え、それでも楽器を詰め込んでの移動と来れば、鬼のように狭い。後部シートには運転席側から啓一郎、和希そして一矢と詰め込まれているが、啓一郎はともかく和希と一矢は双方身長が180を越える。足の置き場に困る。
「和希ぃ」
「……ん」
和希を挟んで向こう側では、啓一郎が何やら本気で爆睡をこいている。隣の和希もうつらうつらしているのを、窓に頬杖をついて自身も眠い目で見遣った。
「何かあったん」
「何が……」
「寝てないの?」
「うーん……寝てない」
「ウチのアーティストたちは東京戻るなりはしゃいでオールでもしちゃったのかねぇ……」
運転席で佐山がぼやくのが聞こえる。思わず和希と顔を見合わせて苦笑いを浮かべた。
とりあえずのところ、本日はまず静岡に向かっている。夕方にラジオ収録を控えているのだが、その前に1本どこかで路上でもやろうと言うことになっていた。
「ラジオ局が、ここでしょ……」
眠そうな目を擦りながら、和希が佐山のノートパソコンを開く。インターネットに接続して地図を表示させると、カーソルではなく指先で画面上をなぞった。
「どこら辺が路上いけそうかな」
「んー……学校狙いとかしてみる?」
「学校狙い?」
「そうすっと、自動的に学校帰りの学生さんがぞろぞろといらっしゃるんではないでしょーか」
「あ、なるほどー……」
大して深い考えもなくぽろっと言った言葉に、和希が思いがけず食いついた。地図上を辿って、学校を見つけ出す。
「この辺とかどう?ほら……この辺……」
「これ何?ロータリー?」
「何だろうね。でも周囲に建物とかあんまりある感じじゃないし……スペースありそうじゃない?」
つくづくと、地味な活動である。実際問題、売れるまでの音楽活動など『地味』と『地道』の2文字でしか表現出来ないような気がする。マイナー誌や地方局のメディアで、短い時間で細々とプロモーションをし、ハコライブはもちろんやるが場所代がかかるので回数が制限される。場所代のかからない路上は、地域によってはお巡りさんとの戦いである。
それでも多分、昔に比べれば随分と便利になったのだろう。ウェブと言う新しいメディアが当たり前に普及したおかげで、プロではない人間でも全世界に発信することが出来る。それに便乗した企業がコミュニティサイトを企て、アマもプロも一緒くたに宣伝する場所がある。事実、そこからプロへと伸し上がった人間も既に存在している。
しかしそれは逆に言えば、そうやって伸し上がろうとするライバルの数が飛躍的に増えたと言うことでもある。
結局はやはり、『地味』で『地道』な活動が展開される場所が増えただけと言うことに他ならない。
静岡で路上ライブをし、そのままラジオの収録を終えたGrand Crossは、翌日に予定されているライブイベントに備えて静岡を越え、悲しくなるような宿泊施設に押し込まれた。いや、デビュー前のバンドのツアーなのだから、宿を取ってくれるだけでもありがたいのだろうか。自分たちで地方ライブをやる時などは宿泊にかける費用などどこにもない為、車の中で寝泊りをしてコインシャワーや銭湯を探すことを考えれば……やはりありがたいのだろう。
「しかし凄ぇホテルだなぁ……」
東京に仕事を残している佐山と、明日の登校を控えた武人が新幹線で姿を消すと、3人一緒に押し込まれた時代物ながら広さだけはある部屋で、床にスライディングした啓一郎が座布団を抱き締めてぼやいた。
「屋根があれば十分でしょ。屋外じゃないだけましと思えよ」
日に焼け過ぎた畳の上でころころしている啓一郎に、襖を閉めながら和希が諭す。啓一郎のそばの床にあぐらをかいて座り込んだ一矢は、今時貴重な緑色の砂壁を思わず撫ぜた。床に近い方の壁は剥がれ落ちかけていて、ざらざらしているはずの砂壁の感触は微妙につるつるに近くなっているような気がする。
「あー……疲れたぁ……」
本日はもうすることもない。後で明日のことについて簡単に打ち合わせくらいはするだろうが、基本的には今日は閉店である。手近な座布団を引き寄せて煙草を咥えると、和希がそのそばに荷物をとすんと置いた。手に持った雑誌を投げ出すと、啓一郎が床に転がったままでそれを引き寄せた。
「何これ。またマニアックなの読んでんの?」
「人をオタみたいに言うなよ。それは普通の」
「珍しく普通の読んでんね」
「さーちゃんが持ってたから借りただけ」
和希は活字中毒の嫌いでもあるのか、良く書籍などを読んでいる姿を見かける。但し、その手の中にあるのが雑誌である場合、比較的マニアックなオーディオ雑誌や専門的なサウンドエンジニア向けの雑誌であることが多い。それを指しての啓一郎の弁だろう。ぺらっとページをめくるその手元を、することのない一矢も覗き込んだ。ありがちなエンタメ雑誌だ。
「俺、風呂でも行こうかなぁ」
「人いないよね、このホテル。大丈夫なのかね」
「って言うか、町自体に人がいなかったけど……」
「あ、このコ、見たことある」
啓一郎が不意にページを捲る手を止める。覗き込んだ一矢は、少し複雑な気持ちになって煙草の煙を吐き出した。
「どれ?」
興味を惹かれたらしい和希が、脱いだ上着をハンガーにかけて、続けてシャツのボタンを外しながら立ったままで覗き込んだ。啓一郎が示したページに載っているのは、Opheriaのヴォーカルの飛鳥だ。何気なさを装って、口を開く。
「このコ、可愛いよねー。飛鳥ちゃんでしょー」
「誰だっけ」
「ほら、Opheriaの。前に紫乃がさ、キーボードのサポートやってたさ……」
紫乃の名前を口にした時、微かに胸が痛んだような気がした。京子の悲しい顔が過ぎった気がした。その全てから意識を背けようと目を伏せる一矢の頭上から、何も知らない和希が何気なく口を開く。
「ああ、Blowin'の如月さんと付き合ってるんだって?この人」
思わず、無言で和希を見上げた。きょとんとそれを見返す和希の足元で、啓一郎ががばっと体を起こして素っ頓狂な声を上げる。
「ええええええ?」
「うるさい」
「ぐえ……」
どしっとその背中を和希に踏みつけられて、べしゃりと床に潰れ直した啓一郎は、和希の足がどくのを待って寝そべったまま再び上半身を起こした。
「どこで聞いたの?そんなの」
「MEDIA DRIVEの日澄さんだっけ?ギターの。あの人が言ってた。MEDIA DRIVEって如月さんと仲良いみたいで」
「へえ。……一矢、知ってたの?」
一矢にとっては何とも微妙な話題で、つい無言のまま2人の会話を聞いていると、啓一郎がひょいっと顔を上げて尋ねた。曖昧に、頷く。
「……まあ。紫乃からちょっと聞いた」
「ふうん」
「や、『可愛いなー、紹介してー』って言ったら『決まった相手がもういますぅー』って言いやがった、あいつ」
「そんなに可愛い?」
「ま、顔が凄い美人とかってわけじゃないけどね。表情とか仕草とか。凄ぇ普通っぽくて、いそうでいない感じ。素直そーな人良さそーな」
「ふうーん」
何気なさを装ったまま言葉を続ける。今の一矢には、飛鳥の向こうに如月の姿が見え、そしてその向こうには泣いている紫乃の姿が見える。複雑にならずにいられるわけもない。
やがて、興味を削がれたらしい和希が風呂に入ってくると言って部屋から出て行くと、ごろごろと雑誌を覗き込んだままの啓一郎がしみじみと「ふう〜ん」と呟いた。指に挟んだ煙草の煙がゆるゆると昇るのをぼんやりと眺めていた一矢は、その言葉に意識を引き戻された。
「何しみじみ頷いてんのよ」
「いや……何か、そういう人同士で付き合ったりとかホントにするんだなあとかわけのわからんことを考えたりして」
「は?」
「Blowin'って今はもう有名じゃん。Opheriaだって、一応俺も1曲だけ曲知ってるし、まともに会ったことないのに何となく知ってるわけじゃん」
「ああ、うん」
「そういう人同士でさ……テレビみたい。そういう人が普通に恋愛対象になるんだなあ……。その辺の感覚が不思議な感じ」
そう言われてしまうと、冷静に考えれば初登場いきなり上位ランクインしたD.N.A.のヴォーカルに気を惹かれている自分はどうなってしまうのだろう。それに、Opheriaの飛鳥がそうなのであれば、先日自分の部屋に引きずり込んだ京子も同じことになってしまう。
苦笑した一矢に気づかず、啓一郎は足をぱたぱたとさせながら続けた。