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In The Mirror  作者: 市尾弘那
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第9話(2)

 封じた母親の記憶を一瞬呼び起こして微かに苦い表情をする一矢に、京子は小さく首を傾げて続けた。

「お店とか出来そうかも」

「俺ぇ?」

「うん」

 スピーカから、囁くような女性のイントロダクションが流れ出す。控えめなスネアと、柔らかく作られたバスドラムのリズム。

「あー……そういうのも、良かったかもね」

 自分の作ったものを喜んでくれる人の笑顔が見られる料理人と言う仕事も、意外と向いていたかもしれない。

 笑いながら、京子の手元に手を伸ばした。フォークを握ったままの京子の手ごと取り上げて、自分の口にペンネを一口運ぶ。

「あ、凄ぇ。俺、天才かもねー」

「……」

「上出来上出来。……京子ちゃん?」

「……いいいいいえ」

 凍りついたように真っ赤になった京子は、恐らく一矢のせいだろう。自分の意志ではないとは言え、自分の手で一矢の口に食べさせてあげたようなその動作にどぎまぎしているようだ。かちこちになった京子の肩を片手で軽く抱き寄せて、短く口付ける。

「……アラビアータ風味」

「た、食べてるんだもの……」

「それはお邪魔しました」

 くすくす笑いながら、一矢は立ち上がった。側を離れた一矢に、京子が食事を再開する。食事をする気はないとは言え、ワインにつまみくらいは欲しくなって、一矢は冷蔵庫を覗き込んだ。チーズを見つけ出して、それを片手に戻って来る。面倒なので盛り付けるなどの手間は省く。

 ……舞台が整い、京子の満足度が高ければ高いほど、この後の一矢は最低になる。冷めた気分で、ふとそんなことを思った。

 他愛ない会話を交わし、時折京子を笑わせながら、食事を終える。グラスのワインは次第に量を減らし、注ぎ直されたそれもまた、目減りしていく。

「おいしかった……ごめんね。一矢は食べる必要なかったのに、わたしだけ。作ってもらいに来たみたい」

「……んなことないよ」

 食事を終えて少しの間を置いて、ワインのボトルが1本開いた。京子が部屋に来てからは1時間半近くが経過している。大半を開けたのは一矢だ。女の子に酔って頂くのは結構だが、京子の場合は加減しないと手がつけられなくなる。こちらが狼になる前に京子にトラになられてしまっては困るのである。

 空いた皿を片付けて、ソファに座る京子の隣へ戻った。

「満足した?」

「ん。凄く」

「ふうん?……じゃあさ」

「うん」

「俺も、満足させて」

「え?」

 京子が問い返す間もあらばこそ、その体を引き寄せる。唇を重ねながら、京子の体をソファの上にそっと押し倒した。

「かかかか……」

「……随分渋い笑い方するね」

「わ、笑ってるんじゃないわ……」

 仰向けになったまま、睨むように言う京子にくすくす笑いながら、もう一度キスを重ねる。繰り返される誘うような濃厚な口付けとワインの酔いが、京子の口から色っぽい声を落とした。

「こんな時間にさ」

 唇を離してそのまま髪に口付けながら、片手でそっと京子の髪を撫ぜる。京子が小さく、吐息をついた。

「俺の部屋に来ててさ。……予想は、ついてたでしょ」

「ああの……」

「……俺に会いたいと思ったって言ってくれてた」

 そのまま唇を耳元に移動させる。耳の間近で囁く声に、京子が微かに息を飲むような声がした。「んん……」と密やかな、甘い声が続く。

「俺のこと、好きだと思ってくれてるんだ?」

 耳元で言うことに効果がある。一矢の経験で言えば、極端にくすぐったがりの女の子でない限り、耳元で低い囁きで『その気』のボルテージが結構上がるものだ。

「嬉しいよ」

「一矢さん……」

「なぁに?京子サン」

「……」

 少し体を起こし、今までの雰囲気とは裏腹の僅かにからかうような口調の一矢に、京子は真っ赤な顔で拗ねるように唇を尖らせた。

「もう……」

「……違うの?」

「え?」

「好きだと思ってくれてるわけじゃないの?」

「……」

 言いながら、耳たぶに唇を寄せ、そのまま唇で首筋をなぞる。一矢に応えるように身動ぎをした京子の口から、また、微かな吐息。

「……好き」

 吐息と共に、京子が想いをそっと吐き出した。

「一矢が、好き……会いたいと、思ったの」

「へえ……」

 指先で京子の首から肩をそっと辿りながら、京子を間近で覗き込む。額に口付けると、京子は少し上ずったような潤んだ目で一矢を見上げた。

「じゃあさぁ……いーよね」

「あの、だけど……」

 言いかけた口を口で塞ぐ。塞ぎながら、鎖骨を辿る指が少しずつ下へと降りていく。離した唇を、今度は頬へ……顎へ。口付ける位置が下がっていくことに、京子が体を微かに硬くした。官能的と言える小さな声を漏らすのが聞こえ、このままでは本当にこちらもその気になってしまいそうだと、皮肉な笑みを浮かべる。純情な彼女が自分の腕の中でどのように乱れるのか、本当に見てみたくなるではないか。

 けれど、以前麻美に言った通り、京子に深入りと言える手出しはしないと決めている。……傷つける為に呼んだだけなのだから。

「でもさぁ」

「……」

「俺、京子じゃなくてもこういうこと、平気でするよ」

 京子が凍りつく。服の上から京子の体を辿っていた手をシャツのボタンにかけながら、一矢は淡々と続けた。

「俺、好きじゃなくてもこういうこと、平気で出来ちゃうんだ」

「……一矢」

「京子じゃなくていーんだよ。誰でもいーの。俺、いろんな女の子と泊まり歩いてるよ」

「……」

「それでも俺のこと、好きって言えるの?」

 一矢にされるままでいた京子は、無言で一矢を見つめた。ボタンにかけたままの手を止めて、一矢も静かに京子を見返す。無言のまま見詰め合っていると、やがて京子が微かに悲しげに顔を歪めて、先に目を逸らした。何かを堪えるような表情を浮かべると、やがて両腕を伸ばして一矢の体を抱き締めた。勢い、やや無理のある態勢を強いられつつ、京子に気を取られていた一矢はそのまま目を見開いた。

「……いの」

「え?」

「いい……」

「……」

 一矢の背中に回された腕が、震えている。泣き出しそうに声が、掠れている。

「へえ……いいんだ」

「……」

「……俺、京子と付き合う気はないよって、宣言してるんだよ」

「わかってる……」

 かたかたと小刻みに震える京子の体に、胸を突かれる。思わず何も言えずにいる一矢に、京子が途切れ途切れに口を開いた。

「か、一矢……寂しそうに見えるわ」

「……」

「時々凄く、寂しい顔をする」

「……」

「さっきも……」

 さっき?

 自覚がなくて目を瞬いた一矢に、京子の儚い声が続けた。

「自分のこと、嫌いなの……?」

「……」

「自分の嫌いな自分を、傷つけようとしてるみたいな、投げやりな行動に、見えるわ」

 言葉をなくしたまま、一矢は目を見開いて京子を見つめた。泣き出す寸前のような顔をしながら、京子の潤んだ目が一矢を見返している。

「だ、だから、そういう、こと、するんでしょう?つ、つらそうな気が、するわ……」

「……幻想だよ」

 見抜かれている。

 京子の上から体を起こし、顔を逸らしながら一矢は嗄れた声で吐き捨てた。

「そんなの、幻想」

「一矢……」

「俺は楽しいよ?いろんな女の子と遊ぶのが好きなだけ。……面倒臭ぇの。カノジョとか」

「……」

「本当にろくでもない奴ってのは、いるんだよ、京子ちゃん。そんな幻想、抱かない方がいーんじゃない。遊ばれるだけだよ」

「……」

「それに……」

 そのままソファから体を起こして、一矢は京子から顔を背けたまま、床に座り込んだ。京子もソファから身を起こす音が聞こえた。

「俺、その手の同情されんのって、一番嫌いなんだ」

 京子が息を飲む。顔を見ないままで、一矢は続けた。

「タクシー呼んであげる。……ごめんね。今日は、帰って」

「一矢」

 慌てたように名前を呼ぶ京子には答えずに、一矢は携帯を取りに行く為に立ち上がった。


          ◆ ◇ ◆


 泣き出すのを堪えたまま京子が一矢の部屋から帰ると、ソファに背中を預けて床に座り込んだまま、一矢は携帯を投げ出してぼんやりとしていた。

 ひどく、後味が悪かった。

 自己嫌悪しか、この部屋には残らなかった。

 泣き出すのを堪えて一矢を見上げる京子の顔が、記憶に蘇る。胸に迫る、切実なほどの京子の想い。

(……今だけだろ)

 そんな『思い込み』、きっと今だけだ。

「……」

 けれど、本当に?

 本当に、人の想いなど、アテにならないものなのだろうか。

 思いがけず、京子が正確に一矢と言う人間を見抜いていそうなことが、一矢の罪悪感を煽った。

 そもそも、京子を傷つける為にこの部屋に呼んだ。

 京子を傷つける行動で、紫乃の中で一矢の最低度合いは急激に今以上に上がるだろう。京子も下手に一矢に近付くようなことがなくなるはずだ。京子も気づくだろう。自分の一矢への好意が一過性のものに過ぎないことに。今の段階ならまだ、思い込みが深くなってからほどに深い傷は負うまい。大怪我をする前に、手を引くはずだ。

 なのに。

 もしも彼女が本当に……一矢と言う人間を見抜いた上で、既に本当に好きでいてくれているのなら?

 一矢の行動は、一矢が思う以上に京子をずたずたにしたことになる。

(……いいじゃん)

 だとすれば一矢の言動は、一矢の予想以上に『最低』だ。最低になりたかったのだから、めでたい話である。

 なのに、苦い。

 ……今頃、タクシーの中で、泣いているだろうか。

「知らねぇよ……」

 京子が一矢に近付いてくれば、紫乃の姿がちらつく。紫乃の姿がちらつけば、胸に芽生えた想いを刺激する。そして紫乃に嫌われてしまおうと京子に何かをすれば、自己嫌悪と言う傷が跳ね返る。京子が真摯に見えればこそ尚更、応えられない自分の言動に京子の傷は深くなる。

「大体、そんなわけ、ねーし」

 小さくひとりごちた。

 そう、そもそも京子が本当に自分のことを好きになどなるはずもない。自分と言う人間を見抜いていれば尚のこと、惹かれる要素などどこにもないだろう。本当に人に好かれるようなことが、あるはずがないのだ。

――自分のこと、嫌いなの……?

 その通りだ。そして自分でさえ嫌いな自分を、他人に好きになってもらえるなどどうして思える?

 そう思えばやはり、京子の想いが確かなものだと思うことさえカンチガイだろう。所詮は一過性のものに過ぎない。負った傷は大したものにもなるまい。

――『本当に』『引き摺られずにいられないほど』好きじゃなかったら、痛い思いはしないのかって……そんなこと、ないですよ

 不意に、武人の背中が蘇った。この部屋で、妃名との破局について語った背中だ。

(……)

 やはり自分は京子に、予想以上の大きな傷を負わせてしまったのだろうか。

 ぐるぐると巡る考えに疲れ、一矢は携帯電話を取り上げた。開いて、着信表示をディスプレイに呼び出す。

 先ほど、京子にタクシーを呼んでやる為に携帯を開いた時に、気がついた。ちょうど京子がこの部屋についた頃に、あったらしい着信。

 ディスプレイに浮かぶ紫乃の名前に、息が詰まるような気がした。

 用件は、わかっている。

 短いメッセージが留守番電話に残されていた。

 遠ざけたいと思うのだから、放っておけば良い。そうわかっているのに気にかかる。距離を取って忘れてしまえと自分が囁くのに、着信に気づかなかったことが悔しい。

 しばらく携帯を手の中で弄んだ一矢は、躊躇って、迷って、結局リダイヤルから発信をしていた。番号をひとつひとつプッシュしているような電子音が途切れると、短い沈黙を挟んで呼び出し音が聞こえた。

「……はい」

 やがてそれも途切れる。次に答えたのは、紫乃の声だった。

 声を聞いて音を立てた心臓に、一矢は微かに顔を歪めた。相手にどう思われていようが、やはり好きなものは好きらしい。

 咄嗟に言葉が出てこなくて詰まる一矢に、紫乃のため息が応じる。

「こんな時間に無言電話と来ると、真剣に嫌がらせを疑うよ」

「……悪い。寝てた?」

 時間、と言う概念がつい失念していたらしい。時計を見ると1時半を回っている。京子が一矢の部屋に来たのがそもそも11時頃なのだから、それはそうだろう。

「寝ては、なかったけど……」

 歯切れの悪い答えに、ちらりとその意味が頭をよぎった。……眠れて、いなかったのだろうか。

「さっき、電話」

「留守電残したよ」

「うん。……聞いた」

 留守電の、怒ったような紫乃の声を思い出す。――この前ライブ、来てくれてありがと。……じじに怒られたから。そんだけ。

「武藤に何か言われたんだ」

「せっかく時間割いてライブに来てくれた人に、そういう態度は失礼だって怒られた」

「あそう。……別に、俺のせいだし」

 一矢の答えに、紫乃が黙る。一矢も、そのまま黙った。沈黙が降りる。

 言葉がなくても、紫乃と空間を共有してることが妙に切ない気がした。繋がっていることが、心を煽った。

 切りたくない。けれど、さっさと切るべきだと思う。

 感情と理性の相反する要求に言葉が出ないでいると、紫乃が口を開いた。

「用事、それだけなら……」

「お前、眠れないの?」

「……」

 一矢の問いに、紫乃が詰まった。図星のようだ。

「……関係ないじゃん」

「関係、ねーけどさ。めそめそ泣いてんじゃねーかと思っただけ」

「別に……」

「眠れない時ってさ、何してんの」

「あたし?……」

 どうせ如月のことを考えて眠れないのだろう。そう思って一矢はため息をついた。余計なお世話とわかってはいるが。

「ちゃんと食ってる?」

「え?……」

「あのねぇ、俺、眠れない時って料理するんだわ」

「はあ?」

 何やら方向のおかしい話題に、紫乃が頓狂な声を上げた。その声につい笑いながら、ソファに深く寄りかかって片膝を抱える。

「あんね、人間って結構現金なもんで、食うと眠くなるの」

「……」

「どうせ眠れないんだからっつって暇つぶしがてら30分くらいで簡単に何か作るわけ。んで、食うわけ」

「……」


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