第9話(1)
手の中で携帯が振動する。渋谷駅前に連立する電話ボックスのひとつに背中を預けていた一矢は、手の中の着信に視線を落とした。
「はいはい」
「あ、一矢?今日東京に帰って来てるんじゃなかったっけ」
「帰って来てますよ。今渋谷」
「あんたはいつでも渋谷じゃないのよ」
家が渋谷にあんだから、と毒づくように言う麻美に、一矢は笑った。
「おっしゃるとーりで」
「時間あるなら、来ない?」
「んー。俺もお邪魔しよーかなーとか思わなくもなかったんですがー。今回は見送りで」
「あ、そ。他の女と約束してんだ」
あっさり言う麻美に、一矢は口元に皮肉な笑みを浮かべた。
「そ。京子ちゃんとデート」
一矢の回答を聞いて、麻美が一瞬黙った。それから、眉を顰めるような声を出す。
「……今から?」
「今から」
「京子ちゃんに余計な手出しはしないんじゃなかったの?」
「……しませんよ?」
「この時間から会って?」
疑わしげな声を出す麻美に、苦笑いをする。時間にして間もなく11時になろうとしている。一矢の素行を考えれば、疑われるのも無理はないだろう。
この時間になっても尚、渋谷の駅前は人の姿が絶える気配がない。飲み帰りらしきサラリーマンや、今から遊びに行くような若者、そしてお仕事中の少々スーツを着崩したお兄さんたち。今夜もきっとこの街では数え切れないほどの小さな『事件』が起こり、朝と共に人々は日常へ帰る。……そういう街だ。
「それとも、また気が変わったわけ」
「さぁてねぇ」
一矢の回答をどのように受け止めたのか、さいってぇ、と麻美の声が聞こえた。最近やたらと聞く言葉のような気がする。言われ慣れてきた自分が怖い。
冷たい空気に自分の吐く息が舞い上がるのを見上げながら、一矢は真顔で答えた。
「おっしゃるとーりで」
「怪我しても知らないわよ」
「……刺されんの?俺。それは嫌だなあ」
一回くらい刺されなさいよ、と耳元で麻美が言う。
「そしたら少しは改心するかもね」
「そこで力尽きちゃったら改心のしよーがないんですが」
「憎まれっ子は世にはばかるのよ。2、3回刺されたってあんたなんか死にやしないわよ」
「……おっしゃるとーり、ですねえ……」
「もう一度忠告しておいてあげようか?純情なコに手出しすると、痛いメに遭うわよ」
「望むところ」
笑う一矢に、麻美が一瞬押し黙る。
「……どうしたの?」
「どうも?」
「そう?何か、開き直ってるみたいよ?」
麻美の言葉に、一矢はしばし沈黙した。
開き直っている……ニュアンスとしては、近いのかもしれない。
嫌われてしまえば良いと思っている。紫乃にも、そして京子にも。
紫乃が側にいれば、一矢はきっとこれまでのスタンスを貫くことが出来なくなる。そして京子が一矢に好意を寄せていれば、必然的に紫乃の影がちらつく。京子に対しては結局他の女の子に接するようにはしきれない。そしてつまらないことを悩まずにいられなくなる。……ならば、全て、遠ざけてしまえば良い。
「……前は、最低だと思われる覚悟が出来てなかったんだろ、要は」
「今は出来たってわけ」
「最低になっちゃえば、何も期待しなくなる」
京子の好意を知っている。
けれど、その好意さえ信じていない。
信じてはいないけれど、それでも嬉しくは思ってしまうのだ。
自分のどこかに、人に好かれる要素のかけらがあるのかもしれないと期待してしまう。そこから、他人との関係に何も期待しないことを強いてきた自分のスタンスが崩れていきそうだ。触れる肌の温もりに、愛情を求めたくなる。誰かとの信頼関係が欲しくなる。
……誰から見ても最低であると納得が行く振る舞いをしてしまえば、好意を向けてくれる人間が去っていくことを自分でも諾と出来るだろう。そうして京子を遠ざけることで、これまでの自分のスタンスを、守りたかった。
麻美が深々とため息をついた。
「あんたって、もっと自分を大事にしなさいよね」
「これ以上ないくらい大事にしてるんじゃない」
だから傷を受けることを恐れる。傷を受ける前に、全てを遠ざけようとする。
麻美がまた、ため息をついた。
「言い方変えるわ。大事に仕方を、間違えてんじゃないの」
大事に仕方を間違えている――けれど、他にどうすれば良いのだろう。守るために関わらない、深入りしない、遠ざける……一矢には、それ以外に自分を大事にする方法を思いつけない。
最も深い傷は、時に、最も近い人間が与えるものだ。あるいは、最も心許した人間が。
近い人間、心許した人間が存在しなければ、それほど深い傷を受けることはありえない。
ふと上げた視界に、京子の姿を見つけて目を止めた。
「ご登場」
「え?……ああ。京子ちゃん?」
「そ」
「あ、そ。じゃあ切るわ。またね」
「うん」
京子の頼りなげな姿に微かに痛む良心を、閉じた携帯と一緒にポケットにしまいこんだ。一矢の姿を見つけた京子が、はにかんだような笑顔で人込みの間を縫う。
「一矢さ……一矢」
「おつかれぇ」
「ごめんね。待たせて。寒かった?」
「ん、へーき」
微笑みを浮かべながら、京子の手を取ってスクランブル交差点を渡る。明治通り沿いに緩やかな坂を上りながら、一矢は京子を見下ろした。
「ごめんね。『迎えに行く』言いながら、電車でここまで来させて挙句歩きで」
「え?う、ううん」
「かっこよく車でお出迎えなんかしたいのは、やまやまなんだけど」
Grand Crossのボロバンでは、歩きの方がいっそましだろう。京子の服装がわからない以上、単車と言うわけにもいかない。
「いつかフェラーリでも乗れるようになってからね」
ふう……とため息をついてやれやれと顔を横に振って見せると、京子は一矢を見上げて無邪気に笑った。
「ふふ。車、欲しいの?フェラーリ?」
「買ってくれるの?」
「まさかッ」
「冗談。……ま、どっちかって言うと俺は、4WDとかの方が好きだけど」
「そう?」
「スポーツカーって、あんまし実用的じゃない感じ」
通り沿いに立っているスーツの男が、髪をふわふわにカールさせた少し前の若い女性に声をかける。キャバクラのキャッチだろうか、AVだろうか。新宿や池袋に比べて、渋谷の方がその類の人種が多いような気がする。
「京子さ、メシ誘ったってことは、まだ食ってないの?」
京子の指先は、冷たい。女の子の指先は冷えていることが多いような気がするが、少し可哀想になって温めるように指先を包むように手を繋ぎながら尋ねると、京子は「うん」と目を瞬いた。
「あのね、広田さんと打ち合わせがあって。遅かったの。始まるのが」
「こんな時間に?」
「広田さんの手が空かなくて。わたしは日中でも暇だったんだけど」
「ふうん?2人で?」
「そう」
「怪しいな〜。セクハラされなかった?」
京子が俯いて笑った。
「まさか。……Opheriaが、なくなるかもしれないの」
「え?」
驚いて、京子を見下ろす。それに応えて、京子はバツの悪そうな笑みを返した。
「何か、かっこ悪いね。なくなっちゃうかもしれなくって……わたし、事務所を移籍するかもしれなくて」
「……また?」
「うん……」
どんな事情があるのだかは知らないが、思わず同情した。事務所を転々としているのでは、なかなか確かな基盤を築けないのではないだろうか。事務所が変わると言うことは、やり方が変わると言うことだ。
「だからね、それについてお話があって。……あ、ごめんなさい。そんな心配そうな顔、しないで」
「心配するでしょそりゃ」
「そう?」
「うん」
あっさり答えた一矢の返事に、京子はくしゃりと嬉しそうな顔を見せた。「心配する」と言う言葉が嬉しかったようだ。その笑顔が、また微かに一矢の胸に小さな棘を落とす。
(……)
これからどうするのかを話す京子の言葉に相槌を打ちながら、一矢の住むマンションに辿り着いた。その建物に足を踏み入れた時、なぜか京子は微かに曇った表情を見せた。
「……あ、あの」
「え?」
エレベーターが下りてくる。乗り込みながら聞き返すと、京子は少し口篭ってから、そっと首を傾げた。
「い、イトコさんは、もう、いないの?」
「へ?……ああ」
そう言えば晴美が帰ってしまったことは、京子には言っていなかった。
そう思い出して、フロアボタンを押しながら頷いた。扉が閉まって、静かに上昇を始める。
「うん。帰った」
「そ、そう?」
「先週?だっけか?そいつの姉貴が連れ戻しに来て」
軽い衝撃と共に、エレベーターが止まる。京子が無言で一矢を見上げた。そんな表情をされる心当たりがなくて、思わずきょとんと見返す。
「……? 何?」
「う、ううん。……お姉さん?」
「そう。まあつまりそいつも俺の従妹にあたるわけだけど。それが迎えに来て、まるで連行されるように帰って行きました」
部屋の鍵を手の中でチャラチャラと鳴らしながら歩き出す一矢の背中に、京子が小さく「そう……」と答えるのが聞こえた。何気なく振り返ると、妙に嬉しそうな顔をした京子の顔に出会った。
「どうしたの」
「う、ううん。……お姉さんの従妹さん、いくつくらいなの?」
「え?あー……っと、俺の2コ下だか3コ下だかそんくらい。ちなみにウチに転がり込んできてた方は中学生」
「そっか」
京子の中で不安の種がひとつ抹消されたことになど気がつかずに、一矢は部屋のドアを開けた。電気もエアコンもつけっ放しで出て来たので、部屋の中は明るく、温かい。
「じゃあ腹が減ってる京子サンには、俺がご馳走をしてあげよう」
「え?」
「前に約束もしましたし。……でもごめんね、ヒラヒラのエプロンは用意がない」
部屋に上がり込みながら舌を出す一矢に、玄関口で戸惑ったような顔をしていた京子が吹き出した。京子を中へと促す。
「遠慮せずに上がってくれたまい」
「お、お邪魔、します……」
「誰の邪魔にもならないんで、ご安心を」
減らず口を叩きながらスリッパを出してやり、それを履いた京子は一矢の後に続いてリビングに入ると目を丸くした。
「すっごい」
「何が?」
「何でこんな凄いところに住んでるの?」
ああそれか……と苦笑する。語る気にはもちろんなれないので、ひらひらと片手を振りながら、ジャケットをソファに投げ出してキッチンへ足を向けた。
「いろいろと。胡散臭いでしょ」
「そ、そんなことッ」
ここはとりあえず「胡散臭い」と突っ込んで欲しかったのだが。
生真面目に答える京子に、ハンガーを手渡してその辺にコートを引っ掛けるように言うと、自分はキッチンで棚を覗き込んだ。
「うーん。10分。いや、13分」
「え?13分?」
「13分もらえれば、アラビアータなら作れるな」
「え、そうなの?」
「俺、ここんトコ家にいたりいなかったりじゃない?仕事で。地方で」
「うん」
「だから材料が乏しいんだよね。んでもパスタならあるしー……トマトソースは作り置きがあるしー……にんにくは腐ってないしー……唐辛子もあるしー……バジル、オレガノもあるな……」
ぶつぶつ言う一矢に、リビングでコートを片手に立ち竦んだままの京子が目を丸くした。
「やだ、本当にお料理得意なんだ」
「言ったっしょー。……サラダくらいは欲しいよね。あ、いけるか……いけるな」
更に冷凍庫を覗き込みながらぶつぶつ言って、一矢は京子を振り返った。
「ペンネにマカロニサラダじゃくど過ぎるから、ちょいとサラダも手抜きで勘弁してあげて」
「そんなッ……あの、何か、手伝おうか?」
何やら材料を取り出してキッチンカウンターにごろごろと取り出している一矢に、京子が焦ったように言った。どうやら自分だけどっかりとソファに腰を落ち着けて、上げ膳下げ膳を待てるタイプではなさそうである。つい、笑う。
「そんな手伝うほど凝ったことしないから、安心して座ってて。要する時間の13分はねぇ……どうしてもパスタってお湯が沸いて茹でる時間は指定があるのれ……」
言いながら鍋を火にかけて、にんにくを刻みながら言う一矢に、戸惑ったようにしていた京子は結局すとんとソファに座り込んだ。
「音楽とか、かけても良いよ」
「え?……うん」
「そう言えば京子ちゃんって、どんなの聴くの?」
手際良く作業を続けながら尋ねる一矢の背中に、夜景に見惚れていた京子が振り返った。
「え、と……ソウルとか。R&Bとか」
「らっきー。俺、R&Bなら結構持ってる」
「え、本当?」
「うん。そのテレビの向こうのCDラック、勝手に漁ってかけて良いよ」
そう言っている間に、サラダが出来上がる。冷凍のブロッコリーと缶詰のホワイトアスパラ、ツナを使った簡単なものではあるが、ドレッシングは今の間に作ったシーザー風である。
一方で、湧いた湯にペンネを入れて、その傍らで刻んだにんにくと唐辛子をオリーブオイルで炒める香ばしい香りが上がった。CDラックを覗き込んでいた京子が、再びきょとんと一矢の方を向いた。
「……凄いのね」
「ふぇ?」
生憎と、凄いと言われる料理が出来るほどの材料がない。一矢にしてみれば極めて手抜きの一品である。
「凄い簡単なもんしか作ってないよ」
「だって、ある材料だけでちゃんとした料理が作れる方が凄いわ」
「そう?」
「うん。材料買い揃えて作るんだったら、わかるけど」
なるほど、そういう考えもあるのか。
冷凍されていたトマトソースでアラビアータソースを作り上げて、クレイジーソルトで仕上げる。ペンネと絡めてサラダと共にリビングへ運ぶと、CDラックを開いたまま一矢の方をぽかんと見ていた京子は結局まだCDを選んでいなかった。
「お待たせ致しました」
「あ、ありがとう……」
半ばぽかんとしたままの京子に軽く吹き出し、ざっと片付けだけするとキッチンの片隅のワインセラーから1本抜き出してグラスと共に持っていく。ワインセラーは、元々この部屋に備え付けられていた備品だ。せっかくあるので、ありがたく使っている。ワインはと言えば、時々バイト代代わりに『listen』から強奪を図っているシロモノである。
「ついでだからワインでもいかがですか」
「あの、は、はい……」
ワイングラスにワインを注いでやると、軽くグラスを合わせる。一矢が勧めると、京子はようやくペンネを口に運んでくれた。一矢自身は既に帰りの車でコンビニ弁当を摂取済みにつき、ワイン片手に見学コースである。
「あ、おいしい……」
「ホント?良かった」
ワインを一口飲んでから、京子の代わりにCDの選定をする。適当に選び出してステレオの再生ボタンを押していると、京子の小さな歓声が聞こえて振り返った。やはり……妙な小細工抜きに、人の笑顔は嬉しい。
「おいしいって言って貰えると、凄い作った甲斐があるよね」
「やだな、おかーさんみたいなこと言って」
「……ん。おかーさんもきっとそういうお気持ちでいらっしゃるのでしょうねぇ……」
一矢の母親は、生憎とそういう感性の持ち主ではなかったようだ。息子を置いて蒸発してしまうくらいだから、一矢の笑顔が嬉しいなどの感覚は、恐らくなかったのだろう。