第8話(3)
◆ ◇ ◆
会わなければ良い。
会わなければ、気がついたばかりの淡い想いなど、すぐに忘れてしまうに決まっている。
武人ではないけれど、早いうちにこんな気持ちは潰してしまうに限る。一時の気の迷いとしか思えないのに、それでも後になるほど摘むことがつらくなるのだろう。
大体、どうなるわけでもないとわかっているのだ。紫乃は京子の想いを応援しているのだし、あれだけ激しくひっぱたかれていて好意など期待出来るわけがない。
会わなければ良い。いっそ縁がなくなってしまえば、いくらでも引き返せる。まだ思い詰めるほどじゃない。
なのに。
「それじゃあ次でラストでーす。みんな、今日はホントにありがとねー」
どうしてD.N.A.のライブになど来る羽目になってしまったのだろう。
「こりゃあ結構伸びるかもしんねぇな」
沸き立つ観客席の一番後ろの壁際で、寄りかかってぼんやりとステージを眺めている一矢の隣で、半ば無理矢理付き合わされた明弘がそう宣った。一瞬ちらりとそちらに目線を向けて、またステージに視線を戻す。
「伸びる?」
「上手いじゃん、演奏。あのキーボードの奴1番上手いんじゃねぇ?元々クラシックかな。訓練してる、真面目な鍵盤弾きって感じだよなあ」
「……うん。そうだね」
D.N.A.のステージは、素直に好感の持てるものだった。紫乃のヴォーカルは柔らかくて優しく心に入ってくるようで、武藤と神崎のオケがきっちりとそれをサポートしている。それに、上手い。
「ふうん」
「あんだ?」
「あんでも」
神崎の実物は、初めて見た。短髪をつんつんに立てて、全体的には小柄だ。Grand Crossのヴォーカルと良い勝負である。けれどステージの間を通して一言も口を開かないせいか、どこか尖った印象だ。
あまり愛想の良いタイプではなさそうだ。神崎と言い、如月と言い、紫乃は無愛想がお好きなようである。つまらないことを考えている間にステージが終わり、熱気溢れる客席に照明が点った。
D.N.A.のファンは女の子が多いらしい。聴く限りは等身大の女の子の恋の歌、と言う雰囲気だから、さもありなんと言う感じである。「共感する」と言う奴だろうか。歌詞を紫乃が書いていると聞けば、意外なほど女性らしい仕上がりになっていた。
「んで、楽屋にご挨拶なんて行くわけ?」
「うーん」
行きたくない。
ライブのテンションを残したまま出口へ流れ出す客を横目に見ながら壁に背中を預けたままで、一矢は顔をしかめた。
「後で武藤くんに電話しときゃ良いで……」
言いながら、預けた背中を起こす。その視線が、人の流れから外れてこちら側に歩いてくる姿の上に留まった。
一般の出入り口は、一矢たちのいる場所より幾分手前にある。その流れを外れて歩いてくる姿は、明らかにこちら側にある関係者出入り口を目指していた。一矢の姿に、眼鏡の奥の目が丸くなる。
「……広田さん」
「一矢くん。おつかれさま。来てたんだ」
「はい。……お疲れさまです」
なぜこんなところに、と思うのは愚問と言うものだろう。所属事務所の人間なのだから、見に来たっておかしくない。
一矢のそばまで来て一旦足を止めた広田は、明弘に会釈をすると一矢を見上げた。
「友達?紫乃ちゃんに呼ばれた?」
「いえ。武藤くんです」
「ああそう?知り合う機会なんてあったんだね。裏、行くだろう?一緒に行こう」
「あ」
咄嗟に言葉に詰まるが、広田は聞き流して明弘に笑顔を向けた。
「一緒に行く?」
明弘が一瞬ちらりと一矢に視線を向ける。それから軽く肩を竦めて顔を横に振った。
「や、俺は遠慮で。……そんじゃ、一矢。とりあえず俺、帰るわ」
「は?帰るの?」
「うん。いたってしょーがねーべ。んじゃまたなぁ」
ひらひらと片手を背中越しに振り、既に閑散とし始めた一般出入り口に足を向ける明弘の背中を見送ると、広田が一矢に笑みを向けた。
「じゃあ行こうか。何だか友達、悪かったんじゃない?いいの?」
「はあ」
いいのも何も、果たして今、一矢に選択肢があっただろうか。
(うぁー……嫌だなあ……)
紫乃に会うと思えば気が重い。
広田に促されて通路を歩き出しながら、内心、顔をしかめる。
「地方のライブはどうだった?」
「……あー」
「ちっちゃいトコ、やって回るのって大変でしょ。まあ、しばらくは体キツいだろうから、健康管理、しっかりしないとね」
そんなことを話しながら裏の方へ向かって行く。楽屋であるらしい部屋の前で立ち止まると、広田はその扉をノックした。それから、ドアを開ける。
「あれ?おつかれさま」
「あら、おつかれさまです。来てたんですか」
中から男の声がして、広田が中に足を踏み入れた。それに一矢も続くと、中にいたのはD.N.A.のマネージャーの男性だった。確か、大神と言っただろうか。
「メンバーは?」
「タケちゃんとじじくんはシャワーを浴びに行っちゃいましたよ。紫乃ちゃんは隣かな。呼んで来ますよ」
「うん。頼むよ。女性の楽屋には行きにくいしね。……一矢くん。座ったら?大神さん、知ってるよね?Grand Crossの神田一矢くん」
「ええ。お疲れさまです」
「お疲れさまです……お邪魔します」
挨拶を交わして大神が出て行くと、広田に促されるままに出入り口付近のパイプ椅子に腰を下ろした。居心地が悪い。
武藤にだけ挨拶をして帰るならまだしも、残っているのが紫乃だけと来ると最悪である。密かに鼻の頭に皺を寄せていると、やがて開けたままのドアから紫乃が顔を覗かせた。大神の姿はない。どこかに行ってしまったようだ。
最初紫乃は、一矢の存在に気がつかず、真っ直ぐ広田に目を向けた。
「おつかれですー。来てくれたんですか?」
「うん。でも、ラスト3曲しか見られなかったけど。ごめんね」
「あはは。いえ、来てくれただけで……」
言いながら何気なく視線を彷徨わせた紫乃は、壁際に黙って膝を組んで座っている一矢の姿に気がついて、ぎょっと言葉を途切れさせた。
無言でしばし一矢を見つめ、対する一矢も沈黙を守る。やがて紫乃が先に、一矢から視線を逸らした。
「どうでした?ラスト3曲は」
「あれ、新曲だよね?前にデモを聴かせてもらった時と、アレンジ随分変わったんじゃない?」
「あ、わかります?広田さん的に、どっちの方がありですか」
しばらくぼんやりと、紫乃と広田の会話を聞いていた。出来ればさっさと帰りたいが、広田に連れて来られてしまった手前そうもしにくく、武藤を待ってぼんやりと座っていると、広田の携帯が鳴った。2人の会話が途切れる。
「はい。……ああ、おつかれさま。……え?桜沢くんが来ない?また?」
何やら平和とは言いにくい広田の言葉に、思わず顔を向ける。
「あ、そう……藤代くんは捕まった?……そう?じゃあ井上くんは?……ああ。そうだなあ……」
電話の相手と話しながら、広田は紫乃に軽く謝るような仕草をすると部屋を出て行った。桜沢、と言うことは、広田がほとんど専属としてプロデュースをしているCRYで何か困ったことが起きたのだろう。他人事なのでのんびりとそんなふうに思いつつ、閉じた扉を眺めていると、紫乃が無言で一矢から離れた隅の椅子に腰を下ろした。
気まずい沈黙の中、遠くから撤収する音だけが聞こえてくる。
一矢も、そして紫乃も、黙りこくったままだった。「おつかれさま」の一言くらいかけるべきなのかもしれない。紫乃の方も「来てくれてありがとう」くらいはあっても然るべきだろう。なのにお互い、言葉が出ない。
視線を逸らしたまま、無言の時間が過ぎていく。
かける言葉は、ないわけではないのだ。伊達に女性慣れしているわけではない。何とかしようと思えば、何とでもなるとも思う。
けれど、何とかする気になれなかった。
言ってしまえば、ただ、意地を張っているだけだ。あの時の態度は良くなかったとは自分でも思うが、京子を応援する紫乃の態度に抵抗がある。そして今の紫乃の頑なな態度もまた、「口を開くものか」と言う無駄な意地に拍車をかける。
紫乃の方も、何を思っているのか、一向に口を開く気配がなかった。この前のことをまだ怒っているのかもしれないが、ただの意地の張り合いと言う気もしなくはない。
(こいつも大概強情だな〜)
自分のことを棚に上げて、呆れたように思う。ちらりと視線を向けると、紫乃もちょうど目を上げた。ぶつかる視線に、思わず互いが思い切り顔を背ける。
「あ……?」
結局言葉を交わさずに広田が戻るのを待っていると、広田より先に神崎が戻ってきた。他人の楽屋で顔を背けたまま沈黙する一矢と紫乃に、一瞬ぎょっとしたように出入り口で足を止めると、小さく不審な顔で首を傾げ、中に入ってきた。
「……おつかれさまです」
こちらには無言を通す理由がない。むしろ、楽屋に勝手にお邪魔している手前、挨拶するのが筋だろう。
座ったままで頭を下げる一矢に、神崎も妙な表情を引き摺ったままで頭を下げた。
「同じ事務所の……えーと、Grand Cross?」
「神田です」
「D.N.A.の神崎です。……初めまして」
愛想はなさそうだが、他人と交流出来ないわけではなさそうだ。神崎の言葉に自己紹介をすると、神崎の方も短く自己紹介をしてから紫乃に向き直った。
「お前、何してんの」
「何って?」
「だって……知り合いじゃないの?」
漂っている気まずい空気は、神崎の目にも見えるらしい。曖昧な表情でちらりと一矢を振り返って問いかけた言葉に、紫乃は顔を顰めた。
「知りません」
「……あんたねえ」
「何?」
「ウチのファーストシングルでコーラスやっといて、『知りません』はさすがに不自然なんじゃないですか?」
「知らないものは知らないですー」
思わず呆れて口を挟んだ一矢に、紫乃は顰め面のままでまたそっぽを向いた。神崎が目を瞬いて、にこりともせずに一矢を振り返る。
「今日は?」
「武藤くんに呼んでいただいたので。広田さんにここまで攫われてきたもんだから、一応お礼だけ言おうかなあと思ったんですが」
「広田さん?来てるの?」
「先ほどお電話で出て行きました」
ふうん、とひとりごちる神崎に、紫乃が補足した。
「ほら、CRYってマネージャー変わったんでしょ?」
「また?」
「うん。あんま定着しないって、冬間さんがぼやいてたよ。そんだから広田さんがいろいろ大変なんじゃないの、結局」
「あ、そう。別に俺はどうでもいいけどさ……。武藤、シャワー浴びてそのまま来てくれた友達に引っ掛かってる」
「……さようでございますか」
一矢に説明してくれた言葉に答えつつ、ついどこか神崎を観察するような気分になってしまうのは、致し方ないだろう。紫乃の元彼――気に、ならないわけがない。
胸の中に落ちた小さな小石が微かな波紋を呼び起こすのから目を逸らしていると、肩に引っ掛けたタオルを片手で持ったままで神崎がふと紫乃に近付いた。
「お前、ここ、何つけてんの」
「ふぇ?どこ?」
「ここ……」
言いながら顔を近づけた神崎が、覗き込むようにして紫乃の頬を親指で拭う。見方を変えれば『兄妹』のようだと言うのに納得はいくが、残念ながら一矢の目にはそうは映らなかった。
「まだシャワー浴びてないんだろ」
「ない」
「行ってくれば。……タオル、持ってるか?」
「持ってないわけないじゃないよー。いいよ、とりあえず広田さん待ちしてるから」
まるで恋人同士の名残を残しているような互いの仕草に、どことなくカチンと来て立ち上がる。
「ほんじゃあ俺、帰りますわ」
「え?武藤に会っていかないの?」
「なかなか戻らないかもしれないし。お礼だけ、お伝えいただけます?」
「ああ、いいけど……」
ここにいるだけで、いらいらするような気がする。これ以上マイナスの感情を抱えたくないので、思い切って椅子から立ち上がりながらひらひらと神崎に向かって手を振ると、通路に出て思い切りため息をついた。
感情の起伏には、余り慣れていない。目を逸らし続けているから、自分の中に湧き起こるいろいろな感情に疲れる。
怒ることや悲しむこと、傷つくことは得意じゃない。得意な人間などいないだろうが、一矢はそういった感情が湧くことから極めて目を逸らして生きてきている。嫉妬など……もってのほかだ。
(このまま、嫌われればいいのかな……)
広田にだけは挨拶をしなければまずいだろうかと思いながら、ふとそんな考えが過ぎった。
いっそ嫌われてしまえば、「神田くんて最低」と思われていれば、こちらも無駄なことを考えずに済むのではないか。
それに……。
――家族が、いるでしょ。自分にも、相手にも、家族が。
紫乃に、惹かれ始めている。けれど、恋愛を始めるのは嫌だ。何かを期待するのが嫌だから、それならばいっそ望みを自分で徹底的に断ち切ってしまえば、自然に紫乃に惹かれた気持ちもすぼんでいくのかもしれない。『期待』と言う栄養を与えてやらなければ、ささやかな恋情など枯れていくのではないだろうか。
最初から期待しなければ、フィードバックはなくて済む。他の人にそうしているように、紫乃に対してもそうすれば良いだけだ。
望みのない恋愛など最初からしないに限る。
望まなければ、痛い思いをすることもないだろう。
(だったら、望まないように……)
さっさと嫌われてしまえば良い。