第8話(2)
◆ ◇ ◆
「うぃ〜っす。おつかれぇ〜」
スタジオを終えて『listen』に顔を出し、あまり手伝うこともないようなので隅のテーブルに陣取って明弘とだらだらと話していると、一矢の携帯に着信があった。
D.N.A.の打ち合わせを池袋にある神崎の家で終えたと言う武藤からの着信で、「時間あるなら来る?」と言う流れで電話を切って30分、今日はどちらかと言えば閑散としている『listen』に武藤が到着した。
「武藤くん。おつかれ」
「えぇな、この店。お洒落やん」
奥のテーブル席で明弘と向かい合っている一矢を見つけた武藤が、明弘に軽く会釈をしながらこちらに向かって歩いてきた。ひらひらと片手を振って体をずらすと、武藤が座れるスペースを隣に作ってやる。
「これ、明弘。んでこっちがD.N.A.のベースの武藤」
簡単に紹介をすると、テーブルに頬杖をついたままの明弘が、武藤を親指で示した。
「何飲む?ビール?」
「俺、車やねん。可愛らしくウーロン茶で」
「おっけ」
答えた明弘が武藤のグラスを取りに席を立つと、ようやく上着を脱ぎながら武藤は一矢に顔を向けた。
「今日、何しとったん?」
「スタジオれす。そっちは」
「似たようなもんやな。今日は1日ほとんど打ち合わせしとってん。……あ、そう言えば、一矢たちが使ってるスタジオも池袋にあんねやろ?」
D.N.A.の打ち合わせは、大概ブレインか池袋の神崎の家なのだそうだ。
「うん」
「今度遊びに行ってもええ?」
「いーよ」
そこへ、武藤のウーロン茶と自分の分のビールを持って明弘が戻ってきた。先ほどと同じ場所に腰を下ろす。
「お、さんきゅう〜」
「D.N.A.ってGrand Crossと同じ事務所なの?」
咥え煙草で戻ってきた明弘が、灰皿に煙草の灰を落としながら尋ねた。武藤がウーロン茶を一口飲んで、頷く。
「そう。でも別に仕事での縁は何もあらへんな。事務所で会うたこともないし」
「へえ。そういうもん?」
「そういうもんやない?明弘……明弘でえぇ?」
「え〜よ」
「明弘は何しとん?学生さん?社会人?」
「大学生」
しばらくは、当たり障りのない話題が続いた。明弘は、伊達に交友関係が広いわけではない。他人にあれこれ頓着するタチでもなければ構えるタチでもないし、武藤の方も気安いので、打ち解けるのは早かった。『音楽』と言う共通の話題があると言うのもあるだろう。聞いてみれば武藤は一矢のひとつ上で、明弘と同い年だった。
やがて明弘が友人からの呼び出しで出て行ってしまうと、武藤が明弘の座っていた席へ移動した。壁に背中を預けて、店内を見回す。
「マスターがミュージシャンってのが、えぇんやろな。何か空気感、馴染みやすい」
「隣、リハスタだしね」
「まじかー。今度遊ばして」
「武藤くん、腹減りません?何か作りましょーか?」
武藤の要望に応じてガーリック・チャーハンとシーザーサラダを作り、テーブルへ運ぶと、武藤がスプーンでチャーハンを取り分けながら不意に言った。
「一矢さあ」
「うん」
「紫乃に引っ叩かれたやろ」
「……はあ?」
唐突に何を言い出すやら、である。
新しく自分の為に持ってきたビールのグラスに口をつけて視線を彷徨わせながら、元いた場所に腰を下ろす。
「何でご存知なんでしょーかね……」
「紫乃に聞いたからやろ」
「何でヒロセサンはそんなことを武藤くんにご報告なさっちゃってるんでしょうかねえ……」
ふう、とため息をついて見せると、武藤はまたけらけらと笑ってから「そんでな」と続けた。
「一矢も気にしとったら可哀想やなぁと思って、さっき、電話してん」
紫乃が先日、武藤は面倒見が良いと言っていたことを思い出す。なるほど、こういうマメさが『人生相談室』になってしまうゆえんだろう。
小さく苦笑しながら、一矢は掛けていた椅子の背もたれにすとんと寄り掛かった。
「そりゃあどぉも。……別に、気にしてない」
「そうか?」
「うん」
「なら、えぇけどな。あいつも真っ直ぐな気性やから、言い換えると融通利かへんねん」
チャーハンを取り分けたスプーンでぺしぺしと自分の唇を叩きながら、武藤も苦笑いを浮かべた。
「何、したんかまでは聞いてへんけど」
「……」
思わず、ふうっとしみじみと息を吐き出す。
あの日の紫乃の険しい眼差しが、胸に焼き付いて消えない。
「ただの、売り言葉に買い言葉」
「ああ。そういうの、あいつ、めちゃめちゃ乗りやすいからな」
「逆。俺が」
「ほぇ?一矢が?」
「そう」
思い返せば、言い過ぎだったかもしれない。少なくとも、京子の友人として京子を心配する紫乃に言って良い言葉ではなかったことは、わかっている。
けれど……。
「何や。一矢、おっとりしてそうに見えんねんけどなあ」
チャーハンを口に運んで「おおおお。うめぇ〜」とひとしきり呻いてから言った武藤の言葉に、一矢は笑った。揉め事は嫌いだから、確かに怒ったりすることは余りない。相手にどう思われていようが、相手がこちらに何を要求しようが、最初から何の期待もしていないのでこちらも感情的になることはほとんどない。
「そう?」
「うん。喧嘩とか、あんま、せぇへんやろ」
「そうね〜。んでもウチはメンバーに暴れん坊がいるからね〜」
「暴れん坊?」
「そ。よそと揉め事になった時に放っておくわけにはいかんし、仲裁くらいは入ってやんなきゃまずいでしょ」
「揉める?」
「たまにね。こないだなんかメンバー内で殴り合いあったし」
昨年の10月のことだ。恐らくは由梨亜を間に挟んで、啓一郎と和希の間で殴り合いにまで発展した。啓一郎はともかく、和希のそんな様子はなかなか見れるものではない。思い返していると、サラダにフォークを伸ばしながら武藤が笑った。
「渋いなぁ。一矢はメンバーと揉めることはない?」
「今んトコ、ないれすね。んでも、D.N.A.もないんじゃないの?仲良さそうだし」
「ん〜あぁ、そうかあ?そやな……仲はええかもしれへんけどな」
「うん?」
「神崎がまた、口悪いねん。しょっちゅう紫乃と喧嘩しとるわ」
テーブルに頬杖をついてフォークの先を軽く咥えながら、武藤はまた苦笑いを浮かべた。
「紫乃もああやろ?せやから……最近はともかく、前、みんなで住んでた時なんかしょっちゅうつまらんことで喧嘩……ま、あれはあれでええんやろけどな」
途中から半ば独り言のように変わった武藤の言葉に、一矢は思わず表情を止めた。無言で武藤を見詰める。
「言いたいこと言えるのがええんやろし……」
「……武藤くん」
「あ?」
「今、ちょっと気になったんですが」
「何や」
「『みんなで住んでた』?」
武藤がきょとんと一矢を見返す。それからサラダのレタスにフォークを突き刺して、あっさりと頷いた。
「知らへんかった?」
「知りませんが、別に」
「あ、そう?紫乃と仲良さげやったから、知っとるんかと思っとった」
それからパリパリとレタスを齧る。
「元々4人で上京して来た言うたやん。ほんで、金ないし、4人でまとめて同じ部屋に住んどってん。元々紫乃と神崎は一緒に住もう言うてて、せやったらもう、どうせみんな金ないんやから一緒に住んでまえっちゅーことで」
そこまで聞いて、どきりとした。
無言の一矢を気に留めず、武藤が言葉を続ける。
「2部屋あるアパート借りて、4人で住んでてんけど、ヴォーカルとドラムが付き合い始めて……東京来て半年くらいん時やな。そんでヴォーカルが出てって、しばらくそのまま3人で生活しとってん」
「……」
「ほんで、俺に彼女出来たやろ。今更やろ言うても、やっぱ他の女の子と同じ部屋で生活してたらあかんやん。そんで、俺も神崎も紫乃も、それぞれ部屋を探すことにしてん」
「……」
「神崎と紫乃はそのまま2人でおってもええんちゃう?って話もあったんやけど、何せ……」
「……質問」
「あ?」
「紫乃って、神崎くんと付き合ってたりしたんだ?」
「……」
今度は武藤が無言に陥った。それから自分の口を押さえて、まじまじと一矢を見つめる。
「……俺、まずいこと言うた?」
「……知りませんけど」
「ごめん、なかったことにして」
「そんな今更。何かまずいの?」
「や、俺、知ってるんやろなって勝手に思ってた」
「何で」
「紫乃、結構長いことクロスのライブに行ってるやろ?随分前から知り合いなんとちゃうの?」
「ちゃう。ついこの1月からのお付き合いですが」
一矢の回答に、武藤がテーブルの上で頭を抱えた。それからそのままの姿勢で、ちらっと目だけを上げる。
「すまん、一矢」
「何?」
「紫乃に黙っといて」
「……そりゃあ構いませんけど。何よ?」
「紫乃が言うてへんこと、俺がべらべらしゃべっとったらあかんやんー。しかも、今も付き合ってんならまだえぇけど、前の話やん」
口を滑らせたことをいたく反省しているらしい。
顔一面に『しまった!!!!』と書いて、なぜか一矢に土下座の勢いでテーブルに頭を伏せている武藤におかしくなりながら、胸の片隅が痛む。それを感じて、またも一矢はため息をつきたくなった。紫乃に殴られたあの日からぐるぐると考えが回る。どんなに考えてみても結論は同じらしい。――紫乃に、惹かれている。紫乃と神崎の話を聞いて心が痛むのは、そのせいだろう。
「ふうん……付き合ってたんだ」
テーブルに頬杖をついたままぼそっと呟くと、武藤がようやく体を起こした。のそのそとスプーンを取り上げる。
「まあ……前の話やけどな」
「今は、違うんだ」
別れた理由は、紫乃の心変わりだろうか。紫乃が如月を想っているのは間違いない。
「……元々な」
チャーハンをスプーンで掬い上げて口に運びながら、武藤は息をついて口を開いた。
「紫乃と神崎は中学……中1かな。そん時から仲良くて、紫乃にキーボード教えたんも神崎らしいねん」
「へー」
「俺は1コ上やから学年違うやん。俺と知り合った時は、2人はもう付き合ってたな」
「……」
「俺と知り合ったんは俺が高1ん時やけど。元々地元の滋賀でやってたバンドがあってん、俺。ほんで、そのバンドのメンバーの親戚か何かが長野でライブハウスやっててん。それに呼ばれて行った対バンで、それが最初やな。その後に俺、長野に引っ越すことになって、たまたまあいつらの近くで……運命やなこれって思った」
「んで、一緒にバンド始めたんだ?」
「そう。昔っから一緒におるせいか、兄妹みたいやねん、あの2人。神崎が誰よりも紫乃のこと、知ってるんちゃうかな」
「……」
「せやから、別れた時は俺がショック受けてん」
そう言って笑う武藤に返した笑みは、どことなくぎこちないものになった。
「何で別れたのかは、聞いちゃまずいの?」
指先で、もう泡の抜けきってしまったビールのグラスを弾きながら尋ねてみると、武藤は鼻の頭に皺を寄せてかくんと頭を落とした。
「あんま、べらべらしゃべることちゃうけどな。……さっきの話に繋がんねん」
「さっきの話?」
「真っ直ぐやから融通利かへん言うたやろ」
「ああ。……繋がんの?」
「繋がんねん。紫乃がOpheriaのサポート始めてすぐくらいやったかな。絶対このメンバーで音楽やってプロになりたいって、あいつ思い詰めてたんやろなー」
「はあ」
「良くあるやん。バンド内で恋愛あると、揉め事増えるやん」
「ああ……まあね」
「実際俺らは恋愛が原因でメンバー2人も抜けとるやろ。やから、尚更やろな。恋愛沙汰でバンドに影響があるのが嫌や言うて」
そんで神崎と別れてん……と、武藤はため息をついた。
だからか、と一矢も内心、嘆息する。武藤には、如月のことを相談できないと言っていたのは、やはり神崎とかつて恋愛関係にあったからなのだろう。Opheriaのサポートを始めてすぐと言うことは、少なくとも紫乃と京子が一緒にいた『SWING』のライブ以上に前の話なのだろうから別れてから1年以上経っているのかもしれないが、前の彼氏に今の恋愛の話が筒抜けになってしまうのは余りお互いに気分が良くないに違いない。
では、如月のことを想い始めたのは、神崎との破局には直接影響があったわけではないのだろうか。……どちらでも良いのだが。
「そりゃあ神崎くんもご愁傷様」
複雑になった気持ちを武藤に気づかれたくなくて、何気なく言いながら煙草のパッケージに手を伸ばす。1本抜き出しながら、ちらっと武藤に目を向けた。
「そんで一緒にメンバーやってんじゃ、神崎くんも大変だやね」
「ほんまやで。顔には大して出さへんし、これでバンド内が揉めたら本末転倒やしな、神崎も言わへんけど。……紫乃のことがほんまに好きやから、紫乃の気持ちを尊重したんやろな。折れる形で別れてんけど、そんなん、忘れられへんやん」
「……そりゃまあそうでしょうなあ」
「諦めつけようとしたんやろな。紫乃が気にすると嫌やから、『もう忘れたでー』って思わせたかったんかもしれへんけど……その後神崎、1回だけ別の女の子と付き合ってん。んでも1ヶ月もたんで別れてんねや。結局今でも紫乃のことが好きなんやろなと思うねんけどなあ」
「……」
「俺は、紫乃と神崎が似合いやと思うし、ずっと一緒にやっとんの見てるやん。ほんまに、神崎は誰よりも紫乃のことわかってんねん。誰よりも大事にしてんねん。そのまま一緒におっても、揉めることになんかならへんかったと思うよ。……戻ってくれればえぇなあって思ってんねんけどな……」
言葉を返すことが出来ずに、一矢は黙ったまま指先で煙草を弄んだ。返す言葉など、あるわけがない。同意など出来るはずもない。
思いがけない方向から現れたその存在に、嫉妬に似た複雑な感情を押し殺して煙草に火をつける一矢には気がつかず、武藤は手のひらに顎を乗せて遠く窓の外へと目を向けた。
「こればっかりはな……紫乃の、気持ちやから」
どうにも出来へんな……と武藤が呟くのを、一矢は立ち昇る紫煙に視線を定めたまま、どこか上の空で聞いていた。