第8話(1)
最近、メジャーの音楽シーンで流行っている恋愛の歌が、ふと耳についた。それを聴いて、心がきゅっと掴まれたようになる。
情緒不安定になっている……自分でそう、わかっている。わかっていながら、尚も耳がその切ない歌詞を追うのを止められずに、京子は京王プラザホテルのラウンジに足を踏み入れた。
新宿駅から西口の地下通路を辿って行ってすぐのそのホテルは、いつもビジネススーツに身を包んだ男性の姿で溢れているような気がする。店員に断って店内を見回すと、通りに面してガラス張りの壁際に紫乃の姿を見つけて、京子は足を向けた。
先日渋谷で、マンションに女の子と並んで入っていく一矢を見た時は、ショックだった。
一矢の家は、渋谷駅からさほど遠くない辺りにありそうだとは、以前に聞いている。あの日の一矢の様子からしても、多分あのマンションに住んでいるのだろう。
一番ショックだったのは、マンションへ向かう2人の様子が、そうすることが自然であるように見えたことだった。
(……従妹と住んでるって言ってたもん)
しかし、あれが『一緒に住んでいる従妹』であれば、少々心穏やかではない。
(従妹って、結婚出来るのよね、確か……)
と思えばやはり、同居している従妹だとは思いたくない。
(い、従妹じゃないかもしれないし)
だとすると、自然に一矢の部屋に向かう彼女が何者なのかと言う疑問が当然のように浮上する。
同居している従妹でも嫌だけれど、ではそうではない女の子だとも思いたくない。
どちらにせよ、胸中穏やかとはいられずに、京子の気持ちをかき乱すことに違いはなかった。
「お待たせー」
紫乃がぼんやりと頬杖をついているテーブルに、声をかけながら近づく。紫乃は京子が来ていることに本当に気づいていなかったらしい。目を丸くして、顔を跳ね上げた。
「あ……全然気がつかなかった」
京子を見て、笑顔に変わる。店員に京子のレモンティと紫乃のコーヒーのおかわりをオーダーして席につくと、紫乃はどこか複雑な笑みを浮かべて上着を脱ぐ京子を見つめていた。
「急に、ごめんね」
「ううん」
今日、こうして紫乃と会っているのは、紫乃の方から呼び出されたからだ。元々、京子と紫乃はそれほど仲が良いと言うほどではない。もちろん悪くはないが、そもそもが紫乃はOpheriaのメンバーではなくサポートをしていたに過ぎないのだ。音楽に詳しい紫乃に勉強がてらライブに連れて行ってもらったことは何度かあるが、それ以外で外で会ったり電話をしたりするような仲でもない。
けれど、今日、紫乃に呼び出された理由は、何となく察しはついてはいる。一矢のことだろう。
渋谷で一矢を見かけたその日、闇雲に渋谷駅に向かう京子の携帯に、紫乃がたまたま電話をかけてきた。以前何度か連れて行ってもらって京子が気に入っていたバンドのライブがあると言う、誘いの電話だった。
紫乃は、一矢と京子のそもそもの出会いであった『SWING』の一件について、無関係ではない。
あの時も、紫乃に誘われて行ったライブだった。
翌日、様子を尋ねた紫乃に、京子はホテルにいたことを話してしまったし、後々になって一矢と偶然再会してしまったのだと言うことまでは話してしまった。その気安さから、渋谷駅に向かう足を緩めて、京子は紫乃に言っていた。
「紫乃ちゃん」
「んー?」
「一矢さんて、どういう人だと思う?」
唐突な京子の問いに、紫乃は一瞬面食らったように押し黙った。それからややして問い返す。
「……神田くん?」
紫乃は、京子が一矢に抱き始めた気持ちに、恐らく薄々気がついているだろう。紫乃に対して取り立てて語ったことはないが、一矢と再会したとは告げたし、一矢について触れる時の京子の様子で察している様子ではある。
「うん。……やっぱり、か、軽い人なのかなあ」
京子に接する時の態度を見れば、端々に女性慣れしている様子が垣間見える。無意識に打ち消そうとはするものの、場慣れしているからこその落ち着きが滲み出るのは、隠せるものではない。
京子の言葉に、困惑するような短い沈黙を挟んで、紫乃が答えた。
「あたしには良くわかんないけどー……まあ、悪い奴じゃあないかなあ、とか……」
「そう?」
「うん……。そりゃあちょっと最初はさ……ほら、京子ちゃんからホテルがどうとかって聞いてたし。遊んでるってか、軽いのかなあとかって気もしなくはなかったけど。意外に真面目な奴かもしれないなあって思わなくもないかな……。何で?」
紫乃の答えに幾分ほっとしつつ、ではあの女性は誰なのだろうと思わずにいられない。
「彼女がいるとかって、聞いたこと、ある……?」
遊んでる人ではないのだとしたら、実は特定の彼女がいたりするのだろうか。
京子がいないものだと思いこんでいるだけで、本当にいないとは限らない。
とは言え。
(だったら、あのキスは何だったの……)
酔った勢い、と言う奴だろうか。
「えー?改めて聞いたことはないけど……どうしたの?」
「一矢さんが、女の子とマンションに入って行くのを、見ちゃったの……」
口に出してみれば、泣きたいほど嫌だった。今頃一矢たちはあのマンションの部屋で、どうしているのだろう。一矢が他の女の子と今この瞬間を過ごしているのかと思えば、胸を焦がすほどの嫉妬がこみ上げた。
「え?マンション?」
「うん。多分、一矢さんの部屋だと思う……。ねえ、どういうことだと思う?」
何か、自分には思いつけないような、納得のいく答えがあるかもしれない。
縋るような気持ちで尋ねる京子に、紫乃が唸った。
「うー……偶然、とか」
「偶然?」
「無関係でたまたま同じ方向に……」
「話してたもの」
「じゃあ……近所の人とか」
紫乃の回答を聞いて、そこで京子はようやく親戚の可能性を思い出した。一矢には同居中の従妹がいたのではなかったか。受け流すにはいささか妙齢のような気もするが、ともかくも京子はそれを紫乃に告げた。
「一矢さん、今、従妹と同居してるって言ってた。それかな……」
「イトコ?」
「うん。女の子」
「ふうん?いくつ?」
「……知らない」
そう言えば、聞きそびれたままである。
「今見た女の子ってのは?」
問いを重ねる紫乃に、京子は先ほど見た後ろ姿を脳裏に蘇らせた。
「多分……わたしとかと近い年くらいの人」
「……」
京子の回答に、紫乃は沈黙を置いてから、答えた。
「それって、従妹だとしてもちょっと複雑な気が……」
「……うん」
まったくだ。
だが、ごちゃごちゃ言ったとしたって身内は身内なのだ。血縁関係者ばかりはどうにもならない。
黙り込む京子に、しばらく黙った紫乃が口を開いた。
「あのさ」
「うん?」
「あたしが何をしてあげられるわけじゃないけど……」
「うん」
「何かわかることがあったら、京子ちゃんに伝えるから」
……あの日の紫乃との会話を記憶に蘇らせながら、席に着いた京子はとりあえず当たり障りのない話題を口にした。
「紫乃ちゃん、バンドの調子はどう?」
「ん、んー?順調……って言っていーのかなあ。まだわけわかんなくて必死こいてる感じだよー」
紫乃がそう苦笑いを浮かべている間に、ウェイトレスが京子のグラスを運んで来た。紫乃のカップにポットからコーヒーを注ぐと、いなくなる。沈黙が訪れた。
「……どうしたの?」
京子の方から話を振ってみる。いつも歯切れの良い紫乃が口ごもっているのが、何となく不安にさせた。京子の視線にまだ迷うような顔つきをしていた紫乃が、不意にがばっと頭を下げた。
「ごめん、京子ちゃん」
「え?」
「あたし、余計なことをしちゃったかもしんない」
「……? 何、したの?」
「ひっぱたいちゃった。思い切り、パーンッて」
「ええええ?どうして」
「むかついたから」
そんな明快な回答では、何がどうしてそうなったのかが良くわからない。
目を白黒させて口を噤む京子に、紫乃はテーブルに頬杖をついて「はあッ」と息を落とした。目を伏せる。
「何かもう、京子ちゃんは神田くんには近づかない方がいーんじゃないかって気がした、あたし」
「……どういうこと?」
「悪い奴じゃないんだろうとは、思うですけど」
言葉を選ぶようにしながら、紫乃が口を開いた。
「だけど神田くんて、恋愛に対するスタンスが、京子ちゃんとは余りに違うんじゃないかと思う」
「……」
「はっきり確認してないけど、京子ちゃんて、神田くんのこと、好きなんでしょ?」
真っ向から尋ねられて返答に詰まる。言葉にしてしまうと、もう自分に対して誤魔化すことが出来なくなるような気がして、少し躊躇った。
(だけど……)
ずっと一矢のことばかり考えているのは、確かだ。
渋谷で見かけた光景について考えれば余計な想像力が働くばかり、つまらない嫉妬に駆られて眠りを妨げさえする。――それはつまり、京子が認めようが目を逸らそうが、既に好きになってしまっていると言うことではないのか。
自分の中に育っている想いを見つめ、京子は吐息混じりに頷いた。
「……うん。好き」
恥じらった表情で肯定する京子に、紫乃は何か言いかけて飲み込んだ。それから改めて、口を開く。
「何にも、なかったんだってね」
「え?」
一瞬言われている意味が理解出来ずに目を瞬く。それから何を指しているかに気がついて、京子は咄嗟に開いた口を手で塞いだ。
「あ……ごめんなさい。わたし、紫乃ちゃんに言ってなかった……」
申し訳なさそうな顔をする京子に、紫乃は苦笑を浮かべてひらひらと片手を振った。
「いーよいーよ。別にあたしに言わなきゃなんないもんでもないんだから。ただ、あたしは勝手に気にしてたから、何もなかったってわかってほっとしてるだけ」
「ごめんね」
「ううん、本当に気にしないで」
繰り返す京子に、紫乃はさらっと髪を振って否定をすると、「だからさ」と続けた。
「だから……京子ちゃんが気にしない人ならいーけど、そういうことがあって、京子ちゃん自身が神田くんに好意あるんだったらさ、何かちゃんとしなよってあたしは勝手に神田くんに対して思ってたんだけど。……そういうわけじゃないみたいだし。京子ちゃんも傷ついたりしたわけじゃないんだったらさ」
「……うん」
「神田くんにはあんまり、近づかない方が良いような気がしてきてる、あたし」
「……」
無言で紫乃を見つめると、紫乃も黙って静かに京子を見返した。
「……どうして?」
「あいつ、京子ちゃんのことを傷つけると思う」
「……」
「わかんないけど。そんなに何を聞いたわけでもないけど。あいつのことなんか、何もわかんないけど」
返す言葉を見つけられずに、京子は黙った。それから、尋ねる。
「一矢さんが、何か、言ったの?」
「……ううん。そういうわけじゃあ、ないんだけどね。ただ、少し異性関係、だらしないんじゃないかって気がしたから」
「どうして?」
「……」
「……」
「……一緒に住んでるイトコがいるって言ってたじゃない?」
「あ、うん」
「今はもう一緒に住んでいないみたいですけど。……中学生だって」
思わず沈黙する。
(中学生……?)
心の中で思い返す後ろ姿は、どう考えても中学生のそれではない。顔を見たわけではないけれど、ハタチ前後としか考えられない。
「だからごめん、京子ちゃんが見たって人が誰なのかは結局良くわからないんだ」
「……うん。平気。そっかあ……。でも、そんなこと聞いてくれたんだ」
「出過ぎかなとは思ったですけど。身上調査してんのかって言われちゃったよ」
そう言って小さく舌を出す紫乃にあわせて、京子も微笑んだ。けれど、元気のない笑みになるのはどうにもならない。
「あのさ」
「……うん」
「神田くん、はっきり言って、いろんな女の子と遊んだりしてるんじゃないかな」
「……」
「京子ちゃんが見た人は、全然何でもない、何か理由があって一緒にいただけなのかもしれないけど。そんなのは全然わかんないけど。でもそれとは別に、いろんな女の子と遊んでるんじゃないかなあって気がする」
「……」
「普通に友達してりゃ、悪い奴じゃないかもしんない。実際あたしは、いい奴だなあって思ったりもしたし。だけど、恋愛においては不誠実な気がする」
「……」
「……女の子の気持ち、蔑ろ(ないがしろ)にするようなこと言ったから、頭に来て引っ叩いちゃった」
「どんなこと……?」
尋ねると、紫乃は答えかけて口を開いてから、迷うように閉じた。それから吐息をつく。
「どんなことってほどでもないけど……」
それ以上は答える気がないように、紫乃が口を閉ざす。京子も追及することが出来なくて、黙った。
黙りこくったままで、考える。
(不誠実……)
だとしたら。
(どうしてあの時、何もなかったの?)
手出しを遠慮したくなるほど京子がひどいと言うわけではないだろう。そうでなければ、キスなどするものだろうか。食事に誘ってくれたり、グラスブーケをくれたり、ご勘弁願いたい相手にそんなことが出来るのだろうか。その前に縁を切るのが普通だろう。
もしその通り、『京子が対象外』と言う話ではないのだとすれば、ひと晩ラブホテルで過ごしているのだ。何かあってもおかしくない。けれど、何もなかった。――それは、一矢の道徳心が働いたと言うことに他ならないのではないか。ならば本当に一口で『不誠実だ』と片付けてしまって良いのか。
一矢の言動には、確かに端々に他の女の子の影が見え隠れする。特定の誰かと言う話ではない。女性慣れをしているのだろうと言う匂いはする。
けれど、もしもそうなのだとしたら。
(寂しい、のかも、しれない……)
京子の、甘さとも言える優しさが、一矢に対して肯定的な答えを導き出した。
人が笑ってくれるのが好きだと言ったその言葉は、一矢の本心のような気がする。人の笑顔が好きだと思う人間が、本当に本質そのものが不誠実だなどと言うことがあるだろうか。不誠実に見える行動を取るのだとすれば、そこには何か理由があるのではないだろうか。……裏腹の行動を取っているのだとすれば、一矢は苦しくないだろうか。
「京子ちゃん?」
「え……?」
「ごめん、あたし、傷つけた?」
はっとすると、紫乃が不安そうな顔で京子を覗き込むようにしていた。慌てて顔を横に振る。
「ううん。そうじゃないの。ごめんね」
「良かった。余計な真似しないでよって言われても、おかしくないから」
「そんなことないよ。心配してくれて、ありがとう」
ほっとしたような紫乃の笑みを見つめながら、もう一度、胸に浮かんだ考えを抱き締める。
そう……もしもいろいろな女性と遊んだりしているのなら、彼は、寂しいのかもしれない。それなら、時折覗かせる陰にも、理由が出来る。
(もっと、知りたい)
紫乃の忠告を受けて、却って痛む胸に京子はそっと目を伏せた。
心配してくれる紫乃の気持ちはわかる。ありがたいと思う。けれど、それを受けても尚……いや、だからこそ、一層。
一矢の寂しさを、取り除いてあげられるのが、自分だったら良いのに……。