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In The Mirror  作者: 市尾弘那
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第7話(4)

 微かに唇を尖らせながら、紫乃は壁に背中を預けた。その隣に何となく並びながら、せっかくもらった缶コーヒーのプルリングを引く。

「あのね、ちょっと話があって」

「それはさっき聞きましたが」

「うん……あのさ、変なこと聞くけどさ」

「……うん」

「……神田くんって、ひとり暮らし?」

「……」

 はあ?である。

 缶に口をつけかけた動きを止めて、紫乃を見返す。紫乃の大きな瞳が、僅かに道路に立ち並ぶ街灯の灯りを映し込んでいる。

「そうですが」

「……そう?」

「何?」

「ううん。誰かと住んでたりとかするのかなあとか」

「……」

 聞きたいことが全くわからない。

 軽く眉を顰めつつ、コーヒーに口をつけてから回答を少しだけ変える。

「基本的にひとりですが。今日ついさっきまでは同居人がいたけどね。短期間」

「同居人?」

「そう。イトコ」

「……へえ?さっきまでって?」

「昼間、自分の家に帰りましたんで」

「ふうん」

 少し考えるように首を傾げた紫乃は、一矢をじっと見つめたままで更に口を開いた。

「どんな人?」

「……はあ?」

「イトコの人」

「……」

「あれ。変なこと聞いてる?」

「かなり」

「そう?ねえ、どんな人?」

 何なのだろうか、一体。

 わけのわからないままに、一矢は答えた。

「中学生の……女の子」

「中学生の女の子?」

「そうだけど」

「……そう」

 そこでまた考えるように視線を伏せた紫乃は、次に顔を上げるとまた新しい質問を口にした。

「神田くんって、彼女さんとかいるわけじゃないよねえ」

「……はあああ?」

 いい加減、わけがわからなくて、思い切り顔を顰めて問い返した。

「いませんが。……何なの?さっきから。身上調査でもなさってるの?探偵業でも始めたんかい」

 一矢の言葉に、紫乃が吹き出す。くすくす笑いながら、微かに片目を細めて一矢を見上げた。

「探偵業かあ。面白そうだよね」

「そうかあ?他人の秘密を暴いたって大して楽しいことなさそうだけどね」

「そう?」

「そりゃそうでしょ。秘密にしてることは人に知られたくないから秘密なんでしょーから。誰にでもそういうことってのは、あるでしょ」

「……知られたくないこと、か」

 それから紫乃は、しばらく黙った。俯くようにして、自分の長い髪の毛先を指先で弄んでいる。その様子を眺めながらコーヒーを飲み干すと、事務所の塀の上に乗せて一矢も壁に背中を預けた。

「んで、さっきから、何なわけ?」

「うん……あのね」

「うん」

「凄い失礼なことを言う気がするけどさあ……神田くんって、遊び人なの?」

「……物凄く失礼ですけど。本当に」

「あ、やっぱり?」

「『やっぱり?』ってアナタね……。どういう質問なわけ?何が知りたいわけ?」

 再び紫乃が沈黙をする。一矢の方は口を開きようがないので、黙って紫乃の言葉を待った。待ちながら、薄々、察してはいた。――多分、結局はまた、京子のことなんだろう。

 でなければ、紫乃が一矢のことについてあれこれ聞いてくる理由が浮かばない。

 そう思えば、内心ため息が漏れた。……紫乃と会えることを微かに喜んでしまった自分を知っているだけに、尚更だ。

「……いろんな女の子と、遊んでるのかなと思って」

「それを何でキミが知りたいの?」

「……こういうことを言うと、またぐちゃぐちゃ言うって言われても、嫌なんだけど」

「はあ。言わねーから言ってみ」

 胸の内が少しだけ苦いのが、一矢の横顔をそっけなく見せた。そんな一矢の様子に躊躇ったように口篭った紫乃は、ふうっと息をついて言葉を選ぶように続けた。

「どんなふうに始まったとしてもさ……きっかけが何だったとしても、そこから少しずつ築いていく関係が、人の気持ちを育てたりするじゃない」

「……」

「……神田くんだって、気づいてるんでしょう?京子ちゃんの、その……何つーか……」

「……」

「余計なお世話だとは、わかってるんだけど……」

「本当に余計なお世話です」

 一矢の言葉に、紫乃が押し黙る。それを感じながらも視線を向けることはせず、壁に寄り掛かったままで正面の、駐車場の果ての壁に視線を定めたままで一矢の方もため息をついた。

「あのさ、誤解させたまんまで俺も悪いんだけどさ」

「うん?」

「今更だけど、俺と京子って、あん時何にもなかったよ?」

 以降にキスまではしてしまったので、一応『あの時』と指定する。が、さらりと流して言った一矢の言葉に、紫乃は深い意味と受け止めなかったようだ。黙って一矢を見上げる。

「最初からお話して良い?」

「……うん」

「あん時……最初ん時さあ、そりゃあファミレスかなんかに連れてってやった方が良かったのかもしれない。だけどはっきり言って京子ちゃん、ひとりで歩けるような状態になかったし、そんなのファミレスに連れてったってしょうがないじゃん?」

「……うん」

「俺だって元々、朝まで彼女に付き合ってやろうと思ってたわけじゃないし、ひとりでファミレスに放置ってわけにはいかないでしょ。泥酔状態でひとりで放っておいても安全つったら、俺にはホテルしか浮かばなかったよ。そしたらビジネスホテルでも探してやんのが親切なのかもしれないけど、ひとりで歩けもしない人を連れて移動するつったらタクシー使うしかないし、普段使いもしないビジネスホテルなんかどこにあるか俺にはわかんないし、こっちだって金があるわけじゃないし、ビジネスホテルなんか探してタクシーで移動して、いくらかかるかなんかわかんないじゃん」

 言いながら、そもそもの原因になっている『SWING』での京子との出会いを思い出す。何をするつもりも、その先どうなる予定もあったわけじゃない。こんなふうになるとは、思いもしていなかった。再会するなど、考えてもいなかった。

「そんで俺に出来る精一杯としては、運ちゃんに『1番近いホテル』って言うしかなかったし、それがラブホだって選択肢がねーもん、それ以上」

「……」

「と言って、ホテルに連れてったのは俺だし、京子ちゃんのお財布事情なんか知るわけじゃないし、とりあえず部屋代の精算が最初に来ちゃったら、しょうがないから俺が払うじゃん。そんで部屋まで連れてったらべろべろの彼女が放してくれないし、そうしてる間にあの日ライブで単車だったわけじゃない俺だって帰る手段がなくなっちゃうし、したら部屋の金払ってるのが俺である以上、朝までそこにいるだけいたって文句言われる筋合いじゃないと思うんですが」

「……そう、だったの?」

 紫乃が目を丸くして顔を上げる。

「そうだったんです。何もなかったの。ゆえにキミが責任を感じる必要はこれっぽっちもないわけ。そりゃあ向こうはぐだぐだの状態ですから、胸だの腹だのに腕や手が当たらなかったとは言わんけど、物理的接触以上でも以下でもないし、こっちだって覚えてない」

 紫乃が必要以上に一矢と京子のことを気にするのは、ひとえに『あの夜』に責任を感じているからだろう。しばらく大人しかったものだからこちらも蒸し返したくはなかったので放っておいたが、これで誤解が解けたのだからもう気にする必要はないはずだ。

 黙った一矢に、紫乃も力が抜けたように沈黙をした。やや間を置いてから、ほおっと安心したような息を吐く。

「……何だ」

「軽いと言われれば認めるさ。だけど、何もなかったことは、今は京子も知ってる。あの夜のことは、それで完結してると俺は思ってるんですけど」

「何だぁ……良かったぁ……」

 安心したように、紫乃が笑みを覗かせた。それを見て、一矢もほっとする。がたがた言われなくなったので、あれきりもう忘れていたのかと思ったが、ずっと気にしていたようだ。ならばもっと早く言ってやるべきだった。何より、一矢自身が紫乃の誤解を解けたことにほっとしていた。

(……何で?)

 自分まで一緒に安堵をして、その理由を思わず自分に問い返す。湧き上がってきた回答に、一矢は動きを止めた。

――紫乃に、京子と自分のことを気にされたくない。京子と何かあったと思って欲しくない。

 そのことに気が付いて、どきりとする。それは、つまり、裏を返せば。

(紫乃のことが、気になってる……)

 もっとこの人のことを知りたい、とは思った。それは確かだ。紫乃が泣いているとつらい。手を貸してやりたい。何かしてやりたい。今日、会えることを嬉しいと感じた。ひとりの部屋に、紫乃がいたらどうなのだろうかと考えたりもした。……如月に対して、嫉妬に似た感情を持ったりも、した。

(嘘でしょ……)

 浮かんだ考えを否定する。否定するが、ちらりと向けた視線の先で紫乃が安堵したような微笑を浮かべた横顔に、微かに胸が疼く。

(……うわー……嘘だろー……)

 嘘だろ、と言っても、こればっかりは自分で制御が出来ない。紫乃に惹かれている自分を認めることは何だかひどく癪のような気がするが、「それはナシで」と言ってやめられるものなら誰も苦しみはしないのである。つくづく不便な感情である。

 惹かれた理由など、わかりはしない。そんなものに心当たりがあるほど、まともな恋愛経験が豊富なわけじゃない。自分でも理由がわからないのに、「他にいるだろ?」と自分に思いもするのに……なのに、その想いが事実としてそこにある。「どうして寄りによってこいつかな!?」と自分で突っ込みたくなるのに、確かに鼓動は速くなるのだ。何て理不尽なのだろう。

 自分で自分に頭を抱えたくなっている大変失礼な一矢の様子には気づかずに、ひとしきり安心したらしい紫乃が顔を上げた。どこかすっきりしたような顔をしている。

「良かった。あたし、凄く安心した」

「ああそう、良かったね。じゃあ今夜はゆっくり眠ってください。おやすみなさいさようなら」

 自分が紫乃に惹かれているらしいことに眩暈を覚えて、とりあえず退散して頭を整理しようと片手で額を押さえながら壁に預けていた体を起こす一矢の背中を、紫乃の手がぐいっと引っ張った。

「あ、ちょっと待った」

「……なんれすか」

「あのね、それはじゃあそれで良いとして、ともかくもあたしが話したかったことってのはそれじゃなくて」

「……」

 きょとんとして振り返る。まだ話は済んでいなかったのか。ジャケットを引っ張られたまま振り返って紫乃を見返すと、紫乃がふうっとまたもため息をついた。

「あのさ……最初は、じゃあ、その……何も、なかったのかもしれないけど」

「なかったんれす」

「うん。だけどさ、でもさ、さっきも言ったけど、その……」

 口篭る紫乃を黙って見下ろす。話が微妙に逸れたのでつい忘れかけていたが、そう……先ほども紫乃は確かに口篭った。本題は『あの夜』ではなく……それが前提であるにしてもないにしても。

「……気づいてるよ。京子の気持ちなら」

 今現在京子が一矢に抱いている気持ち――紫乃が言いたかったのは、そちらだ。

 そのことに気が付いて、醒めた視線を向ける一矢に、紫乃が微かに息を飲む。

「だけど、それが何?」

「……傷つけないであげてよ」

「……」

「す、凄い余計ってわかってるけど、だけど、傷つけないであげてよ」

 それを、紫乃が言うのか?と思う。

 唐突に紫乃が呼び出してまでこんなことを言い出した理由は、一矢にはわからない。

 わからない、けれど。

 ……今、自分自身の気持ちを自覚したばかりの一矢に対して、紫乃が言うのか。一矢を想う京子の気持ちを大切にしてやれと。

「お前に言われる筋合いじゃない」

 抑えた声で冷たく言い放つ一矢に、紫乃は一瞬唇を噛んで俯いた。それから食い下がるように顔を跳ね上げる。

「誤解しないで欲しいんだけど、京子ちゃんがあたしに頼んだわけじゃないからね」

「わかってるよ」

「あたしが、見てられないだけなの」

「……」

「あたし、あたしは……き、如月さんが何度かふたりで会ってくれて、それが何の意味もなかったことはわかってたけど、で、でもそれがやっぱり、嬉しかったから……そばにいられるたびに好きな気持ちが育っちゃって……」

「……」

「今も、忘れられないくらい、振られてもどうしても他の人に目が向けられないくらい、育っちゃって……苦しくて……」

 紫乃の言葉が胸に突き刺さる。そんなに何度も繰り返さなくて良い。紫乃が如月を今でも好きなことくらい……そして、誰にも目を向けることが出来ないことくらい、わかっている。わかっているが、言葉ではっきり繰り返されれば突き刺さる。

「良いコだよ……付き合ってあげてなんてあたしは言えないけど、だけど傷つけるような真似だけはしないでよ……。ちゃんと彼女のことを見て、考えてよ」

「……」

「いい加減にだけは、しないでよ……」

「別に京子本人に何を言われたわけじゃない」

 京子の想いを応援するような紫乃の言葉が、一矢の気持ちを頑なにさせた。遮るように言った言葉に、更に重ねる。

「俺が勝手に気が付いただけ、京子本人が俺に何を言ったわけじゃない。会いたいと思ってくれる、だからメシくらい一緒に行ってる。だけど前にも言った。俺は彼女と特定の付き合いをする気はない。他の誰かとも同じように会うし、同じように話すさ。それが何なんだよ?」

「言ったわけじゃないかもしれない、だけど気づいてるんでしょう!?」

「気づいてるよ?それが?」

「だったらそれが残酷なことだってことも、わかってるでしょう!?付き合うつもりが最初からないんだったら、そして京子ちゃんの気持ちを知ってるんだったら、そうやって繰り返し会うことが残酷だって、わからないわけじゃないでしょう!?」

――ずるずると連絡を引き摺れば、その分気持ちも引き摺られる……加算されて、つらい時間が長引いて、痛い気持ちも増していく……

 武人の言葉が蘇る。

 そんなことは、わかっている。気持ちは少しずつ育っていくものだ。駄目なものなら早く摘むにこしたことはない。

 けれど、紫乃に対する意固地な気持ちが、一矢の答えを歪めた。

「わかんないね」

 吐き捨てるような一矢の言葉に、紫乃が一矢を睨み上げる。売り言葉に買い言葉――畳み掛けるように、殊更冷たく一矢は言葉を吐き出した。

「それで泣くようなことになったって、俺が心配してやる筋合いじゃない」

 パァーーーンッ。

 言った瞬間、紫乃の平手打ちが一矢の頬に直撃した。鋭い痛みに顔を顰めながら紫乃を見ると、烈火の炎のような怒りと、そしてなぜか涙を目に浮かべ、唇を噛み締めた紫乃が睨み付けていた。

「……最低」

「……」

「あんたを、一時でもいい奴だと思ったあたしが、馬鹿だった」

 抑えた声音で睨みつけたまま言葉を押し出す紫乃に、一矢は視線を背けて黙った。

「あんたが言ってた通りだね。あたしが友達として言ってあげるべきなのは、近付かないよう忠告することみたい」

「……」

「仕事終わりにありがとう。お疲れさま」

 返事のない一矢に、半ば言い捨てるようにして紫乃が背中を向けた。事務所へと戻っていく後ろ姿が完全に見えなくなってから、平手打ちをくらった頬に親指を当てる。熱を持っているような気がした。

 女性の平手打ちは、男に殴られるのとはまた種類が違う痛みがある。受けた瞬間の痛みは多分、鋭さとキレがある女性の方が痛いように思える。

「……ってぇ……」

 小さく、ひとりごちた。

 打たれた頬ではなく、視線が突き刺さった心の方が、痛かった。


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