第7話(2)
今日の訪問は、何かオハナシでもあるのだろうか。武人がふらっと来ることが珍しいことでもないので大して気に留めなかったが、その背中に今頃気が付いて目を向ける。武人の背中がため息をついて、手元のCDケースをぱたぱたと動かした。
「妃名さんからね、電話が来たんです」
「は?」
「『会いたい』って」
思わず無言で背中を見詰める。言葉を探すような沈黙に、一矢は口を開いた。
「別れた後?それとも最近?」
「最新の話で言えば、昨日」
「……そりゃまた鮮度の高い」
最新、と言うことは、何度かかかってきていると言うことだろうか。話題にも時間帯にも何となくそぐわない野菜ジュースを口に運びながら、少し考える。
「で、あんたはどうしてんの?」
「どうも、してません」
答えて、武人はあぐらのままでくるんと体ごと振り返った。何とも言えない複雑な笑みで、顔を向ける。
「だって、話してないですから。留守電にメッセージが残ってただけ」
「ああ……」
「別れた途端、連絡がつくようになるわけじゃないですからね。……元々の原因がそれなのに、今更スムーズに連絡取れるようになったら俺だってびっくりですよ」
「そりゃそうか」
「はい。……相変わらず、妃名さんがかけてくれる時には、俺は電話に出られてない。だから、留守電のメッセージを後で聞いただけ。俺から折り返したって親が繋いでくれるはずがないから、かけてません」
「ああ、うん……」
「……このまま、放っておこうかと思ったりも、します」
苦い表情を微かに滲ませてため息をついた武人は、手に持ったCDに視線を落とした。ディスクを抜き出して穴に人差し指をはめ込みながら、考えを彷徨わせるように俯いて黙り込む。
「それで、いいん?」
一矢の記憶では、武人自身、妃名のことが嫌いになって別れているわけではない。妃名の要望に応えてやれない自分が嫌で、我慢を強いられる妃名が可哀想で、付き合うことから手を引いたのだと記憶している。であれば、『会いたい』と言われれば武人自身、会いたいのではないだろうか。
「……」
案の定、武人は答えに詰まって押し黙った。それからまた、座ったままで体を回転させて、CDラックのすぐそばにあるCDプレーヤーに向き直る。
「あんたは、どーしたいの?」
無言のまま、武人はプレーヤーにディスクをセットした。中でディスクが回転する軽い音だけが密やかに響き、武人が再生ボタンを押すとやがて静かに、アメリカの古いジャズバンドの柔らかい音が流れ出した。
録音が古いものは、最近の録音のものと違って音が丸い。記録出来る帯域が狭く、技術が古いからだ。それを『優しい』と感じるか『音が悪い』と感じるかは人それぞれだし、最近のものを『音がクリアだ』と感じるか『耳に痛い』と感じるかもまた然りである。
しばらく黙って、黒人男性のしゃがれたテノールとサックスに耳を傾けていた。2曲分たっぷりと沈黙を保った武人が、背中を向けたままでようやく口を開いた。
「さっさと忘れたい――多分、それが、本音です」
意外な返答に、一矢は片眉を軽く上げて武人を見つめた。武人の背中が続ける。
「妃名さんの声を聞くと、どうしてるのかなって思うんですよ。会いたくない、わけじゃない……。だけど、付き合ってた時、俺と妃名さんの生活はずっとすれ違いで、それが彼女を追い詰めて、可哀想で、だけどそれで責められてにこにこしてられるほど、俺だって大人なわけじゃない。いらいらだってします。嫌にだってなります。俺は、あくまで俺自身の生活を変えるつもりはない」
「うん……」
「この先はきっともっとひどくなる。干渉しないでいられない彼女は、干渉されたくない俺とじゃ、根本的に多分窮屈な思いをせざるをえない。俺もそれはきっと同じです」
「……」
「それでもどうしても好きだから、何を我慢してでもそばにいたいんだって思うほどの想いがあるならまだともかく、俺と妃名さんは残念ながらそこまでの関係を築いてきたわけじゃない」
「これから築くのかもしれないじゃん?」
「だったら、我慢しないでも合う人を今のうちから探した方が、無理がないでしょう」
冷たいとさえ言える武人の言葉に、返す言葉がない。
「そこまで気持ちが育ってから、我慢を強いて強いて、どうしたって無理なのに合わせて苦しんで悩んで妥協点をぎりぎりまで持っていく前に、今のうちに終わらせてしまった方が、お互いの為だと思う」
「それで、割り切れる?」
「俺は、割り切れます。……少なくとも今なら」
「……」
「だから、掘り返されたくないんですよ。ずるずると連絡を引き摺れば、その分気持ちも引き摺られる。加算されて、つらい時間が長引いて、痛い気持ちも増していく。……せっかく少しずつ忘れようとしているのに、これで会って、会ったらきっとまた彼女のことを可愛いと思ってしまうんだろうし、そうしたら決めた結論が俺の中で揺らぐ。揺らいでも、結局どうにも出来ない自分を知っているし、妃名さんに我慢を強いることがわかりきっているから、また駄目だと決めなきゃならなくなる」
「……」
「……俺だって、何度も妃名さんを傷つけたいわけじゃない。傷つけたくない。嫌ですよ」
そうして押し黙ってしまった武人に、かける言葉を見つけられなくて一矢も黙った。
武人の言うことは、わかる。
どうにもならないほど既に好きなら、また話は別だろう。けれど武人の気持ちは――-そして恐らく妃名も、そう言うには中途半端なところにある。好きだとは思うものの、会いたいとは思うものの、何をなくしてもと言うわけじゃない。相手に合わせられない部分を、相手が自分に合わせるようどこかで要求している。武人がバンドをやめられないと言うように、そして妃名は武人が親受けの良い生活をしてくれるように。
人の気持ちは、少しずつ育っていくものだ。形振り構わず、何をおいてもその想いが大切なほどの恋、と言うのが美しいのかもしれないが、現実にはなかなかそうはいかないだろう。
興味を持つ、興味が好意に変わる、その好意が次第に自分の中から目を逸らせないものとなっていき、なくてはならないものへと姿を変え、そして何を捨ててでも守らずにいられないものに育っていく。……そこまで育ってはいないとわかるものに、自分の生活の全てを預けるわけにはいかない。何もかもを相手に合わせるわけにはいかないのだから、互いに我慢を強いる。元の生活や価値観にずれが大きいほどその我慢も大きくなり、飲み込まなければならない言葉も増えていく。そして大概は、我慢が育ちかけている想いを、摘むのだ。
けれど、育ちきってはいないとしたって、摘まれる時はつらい。必ず、つらい思いをする。そしてその苦さや痛みは、育った大きさや育てた時間に比例する。
育ち始めた気持ちを殺すのは、苦しい。けれどそれがこの後なら、もっと苦しくなる。ならば今の苦しさを我慢してしまうべきだと言うのが武人の考えだろう。結末がどう転がるかはわからない――-最終的に破局するとは限らないにしたって、何もわざわざ悩むことがわかりきっている恋愛を育てることはないと。
傷つくことがわかっているのなら、深く傷つく前に、まだ浅い傷で済むうちに、手を引きたい……誰しもそうだろう。自衛本能のようなものだ。
けれどそう思っていたって、相手から何かのアクションがあれば、それを跳ね除けるのにさえ精神力を使う。そしてそれがまた想いを育てて傷を生む。何のアクションもない方が親切だ。
沈黙の間を音楽だけが流れていく。
「俺は、間違ってるのかな」
ぽつんと呟いて、武人がくるりと振り返った。微かな痛みを覗かせて、困ったような笑みを作り上げる。
「これでも、考えたんですよ、結構。俺は、会いたいと言ってくれるのが嬉しいから、じゃあそれでいいんじゃん?って思ったりもした」
それがストレートな考え方ではある。
「うん」
「だけど俺、その先も考えちゃうんですよ」
「……うん」
「妃名さんが、別れた今でも俺を想ってくれる。俺はそれが嬉しい。だったら会えばいい。会ってどうなる、寄りを戻すのか。戻したとしてどうなるんだろう。俺は、明日の夜からまた群馬です」
「……」
「次に帰ってくるのは、明後日。何しに帰ってくるかって、学校に行く為。じゃあ学校が終わったらどうするって、放課後その足で一矢さんたちがいるだろう静岡。ずっとそんな生活を続けるわけじゃないだろうけど、すぐに終わるわけでもない」
「……」
「寄りを戻しても、きっと妃名さんは泣くんだろうな。付き合っていると思えば、会いたいと思う気持ちに歯止めがなくなる。付き合ってるのに会えないって思うことが、多分また彼女を泣かせる。それが続けばきっとまたストレスのたまった彼女は俺を責めるだろうし、俺だって自分が頑張っているものを認めてくれるんじゃなくて否定の材料にされるんじゃあ、優しく出来ないかもしれない。繰り返せばまた、同じ結論に辿り着くんだろう……そこまで、考えちゃうんですよ」
「でも一度別れてんだからこそ、彼女も変わるんじゃないの?」
「かもしれないですね」
一矢の言葉に、武人はあぐらを崩して片膝を立てた。その膝に肘を付いて、額に押し付けるように片手を前髪に突っ込むと、微かに顔を伏せる。
「でも、変わる前の彼女の要求が、本来の彼女の要求なんですよ」
「ああ……うん、まあ、ね……」
「だったら、それを口にしなくなるだけで、積もる我慢は同じです」
「うーん……」
「我慢なんて、誰だって限界があるんですよ。うまくいかせたいから我慢して黙ってる――それで一見うまくいっているように見えて、そうすれば嬉しいことや楽しいことが前以上にずっと増えて、とくれば気持ちはより加速して育つんでしょうね」
「……だろうね」
「そうして気持ちだけ育てて、表面上の関係だけうまくいかせて、けれど胸の内の要求だけは変わらなくて我慢を押し殺して……それで、本当にうまくいくとは考えられないんですよ」
「……」
「そうして限界が来た時には、今以上に遥かに育っちゃってる気持ちの中で、俺も、多分妃名さんも、今はっきり終わらせる以上に遥かにつらい思いをすることになる」
お手上げである。論理上、間違っていると思えないだけに返す言葉がない。
「じゃあ別に寄りを戻さないにしたって、彼女が望んでくれているんだから1度会うくらいならどうなんだろう。会ったら妃名さんは、どうするんだろう。俺はどうするんだろう。会って、話して、だけど寄りを戻さない。……それじゃあ、気持ちを無駄に引き戻すだけ、俺にとっても、何より妃名さんにとって、つらいだけじゃないのか。だったら、いっそ、連絡なんか取らない……取れない、方が良い。冷たい奴だと妃名さんに思われたほうが、彼女だって諦めやすいんじゃないですか……」
「……」
「……こんなふうに考える俺は、多分、冷たいんでしょうね。どうなるかなんかやってみないとわからないって言う人もいるんでしょう。実際そうなんだろうし、俺は恋愛経験が豊富なわけじゃないから、机上の空論……そういう気もします」
「……」
「だから単に、俺がこれ以上傷つくのを怖がっているだけかもしれない」
まったく下手に頭が良いのも考えものである。16歳にして、そして交際経験が短期間で1度きりにしてここまで考えてしまうとくれば、果たして武人はこの先恋愛にのめりこむようなことがあるのだろうか。他人ごとながら心配になってしまうではないか。――理由は違えど、同じようにのめり込めない一矢も、人のことを言えた義理ではないだろうが。
「本当に好きならそんなこと考えないで、引き摺られるのかもしれない。そんなふうに割り切れるんなら『そんなの本当の恋愛じゃない』って言う人、いるんでしょうね。だけどじゃあ、『本当に』『引き摺られずにいられないほど』好きじゃなかったら、痛い思いはしないのかって……そんなこと、ないですよ」
「……」
「今も、十分、痛い。これ以上、痛い思いをする前に、多分俺は手を引きたいんです。……だから、さっさと忘れたい。多分、本音です」
顔を伏せたままで淡々と言葉を吐き出す武人に、一矢は無言でテーブルの上の煙草に手を伸ばした。火をつける。
武人自身がそう言うのならば、それが恐らくベストなのだろう。実際、深入りするほど受ける傷は大きくなる。――何ごとも、最初のうちならば取り返しがつくように出来ているのだから、芽を摘むならば早いうちであるに越したことはないのは確かだ。
「……携帯の番号、変えたら」
いくら武人が自分でそう決めたと言っても、たびたび妃名から連絡が来て、敢えて無視し続けるのは武人がつらいだろう。その都度、ぐるぐると同じことを考えてしまって、結局は会って気持ちが引き摺られるのとさして変わらないような気がする。冷たい奴だと妃名に思われた方が彼女の為にも良いだろうと言う言葉は一矢も同感だし、だったらいっそ、妃名からの連絡を避けていると思わせてやる方が、双方にとっても親切のような気がする。
「そうですね……」
短く言った一矢の言葉に答える武人の声は、苦かった。妃名から電話が来るのを嫌がっているわけではないから尚更、その想いをまた飲み込むのが苦いのだろう。当たり前だが武人だって望んで妃名に「冷たい奴」だの「嫌な奴」だの思われたいわけではない。
(だけど……)
黙って灰皿に煙草の灰を落としながら、胸の内で、繰り返した。
恋愛の傷は、想いの深さに比例する。傷を受けたくないのは誰でも同じ――気づいているのなら、早いうちに想いを断ち切ってしまった方が良い。
「携帯、変えることに、しますよ……」
気づかないうちに、胸の内でどうしようもないところまで育ってしまうことだって、時にはあるのだから。
◆ ◇ ◆
静岡で路上とハコライブをやって帰って来ても、晴美はまだ一矢の部屋に居座っていた。昨夜、遅くなってから帰ってきた一矢が昼過ぎに起き出してみると晴美がいたので、今日は学校が休みなのだと気が付く。曜日感覚など、こんな生活をしているうちにすっかりおかしなことになっている。
「一矢くん、今日はお休み?」
リビングでソファを占拠してテレビを見ていた晴美は、寝起きのそのままぼさぼさ頭で部屋に入ってきた一矢を見上げて笑った。くしゃくしゃと髪を掻き混ぜて晴美の隣に座りながら、首を横に振る。
「んにゃ……夜、仕事」
休みが欲しい。
「ふうん?一矢くん、何か食べる?」
「プリン」
「……どうしてそういう滅茶苦茶なことを言うかな」
「煙草。……あ、そうだ。煙草ねぇや」
「……買って来なよ」
半ば寝ぼけているような顔つきでぼけっと繰り返す一矢に呆れた回答を返すと、晴美はまたテレビに視線を戻した。何となくその頭をぐしゃぐしゃと掻き混ぜてから、立ち上がる。
「買って来よ〜っと」
「じゃあ晴美もジュース買ってきて」
「あんたねぇ……」
「ついでじゃーん。あ、やっぱ晴美、M13の本日のデザートがいい」
「……馬鹿言え」
洗面所で顔を洗い歯磨きを済ませると、自室に一度戻って着替える。近所の自販機で済ませるつもりなので、適当にその辺の服を引っ掛けて、裸足のままサンダルに足を突っ込んだ。
「ジュース、何」
「コーラ」
「へぇへぇ」
聞けば聞くほど要求が吊りあがるような気がして、それ以上の要望は聞かずに財布だけポケットに突っ込んで外に出る。
2月ももう半ばになろうとしている。陽射しには近付く春の匂いが含まれ始めたような気もするが、空気の冷たさはまだまだ真冬だ。いくら近所とは言え、裸足にサンダルは失敗だったかもしれない。マンションを一歩出れば、既に足先が冷たいような気がする。
(うぉ〜……さっさと帰ろ〜……)
誰にやらされているでもなく、自分の煙草を買いに行くのだから文句は言えない。小走りにマンションを飛び出し、明治通り沿いのいつも煙草を買う自販機を目指す。その隣にドリンクの自販機もあったはずだ。
一矢にとっては家の近所に過ぎない明治通りではあるが、何せ渋谷と表参道の間に位置するのだから道行く車も歩道を歩く人間も、ひっきりなしである。溢れ返る人の姿は、何となく安心する反面、却って人恋しさを煽るような気もする。
目当ての煙草とあわせて自分の分と晴美の分のコーラを購入して、足早に道を引き返す。手に持った缶コーラが寒さを加速させる。と言って、炭酸飲料である以上走るわけにはいかない。
さっさと明治通りを逸れて家の方向に道を折れると、不意に背後から「一矢」と名前を呼ばれた。寒さに自分の両腕を軽く前で交差させたままで振り返ると、呼び止めた主を見て一矢は内心顔を顰めた。
「秋菜」
晴美の姉で一矢の従妹である秋菜だ。渋谷の短大生である秋菜は、渋谷自体にはしょっちゅう来ているはずではあるが、一矢のマンションを訪ねて来ることなど当然まず滅多にない。と言うか、「知ってたのか」と疑問さえ浮かぶ。
「何しとんの」
「あんたを追っかけて来たに決まってるじゃないの」
「あ、そう」
嫌だなあと思いながら、歩き出す。小走りに一矢に追いついた秋菜が並んで歩き出すのを見て、ため息をついた。
「晴美ちゃんのお出迎え?」
「そろそろ妹を返してもらうわ」
「……俺が攫ったように言わんでいただきたいんですが」
そもそも押しかけてきたのは晴美の方である。どうしても一矢を悪人にしたい気持ちはわからなくはないが、わかりたくはない。
「俺ん家、電話でもかけた?」
「かけるわけがないじゃないの」
「……いなかったらどうするつもりだったのよ」
「待つつもりだったわよ。ろくな生活してないだろうあんたはともかく、晴美は夜には帰ってくるんだから」
「……」
棘だらけの言葉に返答する気にもなれずに、一矢は無言で肩を竦めた。
「まだ、義務教育中なんだからね。あんまり放っておくわけにはいかないでしょう」
「はあ」
「大体、あんたのとこなんか置いておいたら、悪影響極まりないんじゃないの」
「はあ」
「ろくでもないこと、教えてないでしょうね」
「はあ」
「ちょっと、聞いてんの?」
「はあ」
「……親子揃って」
「秋菜サン」
真面目に聞いていれば腹が立つだけである。適当に流していた一矢だが、最後の一言が引っ掛かって、さすがにむっとするのを堪えながら口を開いた。
「晴美を連れて帰るのは俺は一向に構わんですが、代わりに黙って連れ帰っていただけます?」
無理矢理の笑顔に、秋菜が口を噤む。2人を見つめる視線には気が付かないままに、一矢の住むマンションまで辿り着いてロックを解除した。並んで中に入る。
「あと、俺自身、あのおっさんと血が繋がっているとはあんまり認めてないんで、その辺よろしく」
エレベーターを待ちながら短く言う一矢に、秋菜が隣からちらりと視線を向けたが、口に出しては何も言わなかった。乗り込んだエレベーターの中は、終始気まずい沈黙が支配する。部屋に向かって廊下を歩きながら、まさか晴美も俺が秋菜を連れて戻って来ようとは夢にも思わんだろうなあと内心ため息をついて自室のドアを開けると、「おかえりぃー」と飛び出してきた晴美がぎょっとしたように足を止めた。一矢の背後に秋菜の姿を見つけたのだろう。
「ぎゃあ。……おねーちゃん」
「はーるーみ。帰るわよッ」
「いやあああああ」
「なッ……ちょっとッ」