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In The Mirror  作者: 市尾弘那
22/83

第6話(4)

「……う〜」

 ちりちりと、なぜか微かに痛む胸から無意識に目を逸らしていると、不意に紫乃が小さな呻きを上げて身動ぎをした。見下ろす一矢の前で、むくりと起き上がる。

「あえ。神田くん」

「おはよう。お目覚めはいかが」

「う〜……あれ?じじは?」

「武藤くんなら、お電話。トウドウサンと言うお方から」

「ああ」

 納得しながら体を起こした紫乃は、武藤の言うように酔いなどどこにもなさそうな、けろっとした顔で一矢を見上げた。

「じじねー、人生相談室なんだよねー」

「は?」

「あ、ビールない。おかわり」

「……はい」

 おもむろに言う紫乃に代わって、仕方なく通りすがりのウェイターにビールを3つ、追加オーダーをすると、もう一度紫乃に顔を戻した。

「何、『人生相談室』」

「じじってねー、面倒見いいからさー。いろんな人から恋愛相談だの人生相談だの持ち込まれて、しょっちゅう電話かかってくるんだよね」

「人望厚いやねー」

「そうそう。凄いよね。……藤堂ちゃんなら多分長いよー。今マックスもめもめだもん。しばらく解放されないな、こりゃ」

 うんうん、と紫乃がひとりで頷いている間に、追加したビールが運ばれて来る。主がいないまま追加注文された武藤の分のジョッキをそっち側に押しやりながら、一矢は新しいジョッキに口をつけた。

「じゃああんたも相談すればいーのに」

「何を」

「レンアイ相談」

「……」

 無言でジョッキに口をつけた紫乃は、一矢の言葉にはあっとため息をついた。

「出来ないんだなー、これが……」

「何で?武藤、心配してたよ。紫乃、何かあったんじゃないかなーって」

「……そう?」

「うん。黙ってるより親切だと思いますけろ」

 一矢の言葉に、ジョッキをテーブルに置いた紫乃が小さく唸った。

「そうかもしれないけど……言えないんだもん」

「何……武藤と何かあったとか」

 思いついて言ってみると、紫乃が笑った。顔を横に振る。

「ないない。大体じじ、彼女いるし」

「あ、そうなん」

「うん。後で『彼女の写真見せてー』って言ってみ。『こんなにいらないから!!』ってくらい見せてくれるよ。もう、超めろめろだもん」

「ええのう……幸せそうで……」

「うん。じじに彼女の話を語らせると、聞いてるこっちが幸せになってくるよ。……いや、たまに『もう黙れ』って殴りたくなるけど」

 紫乃の言葉に思わず笑った。殴りたくなるほど幸せならば、良いことである。

 笑いながら、ではなぜ武藤に話せないのかをちらりと考えた。――武藤でなければもうひとりのメンバー、神崎と何かあったのかもしれない。突っ込むことでもないので、それ以上は口にせず、灰皿に放ってあった煙草の火を消す。

「ま、ひとりで泣く前に言いなさいね」

「何?ひとりで泣くって」

「知らんけど」

 テーブルの上の煙草を取り上げて1本抜き出した紫乃は、きょとんと一矢を見上げてから、黙ってテーブルに視線を定めた。トントンと煙草でテーブルを軽く叩く。

「……神田くんさ」

「あいあい」

「前に、『愚痴のひとつなら』聞いてくれるって言ったよね」

「……」

 思わず視線を向ける。一矢の視線を横顔に受けたまま、紫乃がため息をついた。

「……まあ」

「じゃあ聞いてよ。ひとつだもん、無料奉仕でお願いします」

「そんなとこだけいやに真に受けんな。……別にいくらでも聞いてやるよ」

「……如月さんね、彼女、出来たよ」

「……」

「……それだけ」

 黙って目を見開く。口に出した紫乃は、微かに眉根を寄せて、けれど無理矢理笑顔を作ろうとしているような横顔を見せていた。

「特別大サービス、無料ご奉仕中、ひとつ以上承り――平気か」

「平気じゃ、ない……」

 堪えるように、紫乃がきゅっと顔を歪めて強く目を閉じた。泣くまいとしているのだろう。微かに唇を噛んでいるのが見えた。

「自分で唆したけど、やっぱしつらいね。……知ってる人だから、尚更つらいや」

「知ってる人?」

「うん……」

 Opheriaの飛鳥ちゃん、と紫乃は小さな声で呟くように言った。

「え」

「もう付き合ってるから、言っても平気だよね。……あ、あちこちで言ったら駄目だけど、もちろん」

「そりゃわかってるよ。……まじで?」

「まじで」

 たびたび、話の流れで飛鳥の名前が出た時に、紫乃が翳りのある表情を見せたことを思い出す。そういうわけだったのかと今更のように納得がいった。

「今でも、会えないかなって期待しちゃって、時々ロビーで待っちゃったりする自分が嫌だよ。未練がましいなーって思う」

「……ああ。だから」

 以前、「良くロビーにいるな」と言う意味合いのことを言った一矢に、紫乃は曇った顔を見せた。ロビーには煙草の自動販売機があるし、灰皿もある。如月も煙草を吸うようだから、度々あそこで話したりしていたのかもしれない。

「『アスカチャン』ね……」

「だから言ったでしょ。決まった人がいますよおって」

「それは別にいーんだけどさ……想像つきませんなあ……」

 天井を見上げて唖然と呟く一矢に、紫乃が寂しそうな笑みを覗かせた。

「そう?」

「うん。2人でいて何話すんだか、想像不能」

 Blowin'とOpheriaでは、あまりに音楽性が違い過ぎる。別に音楽性で好きになるわけではないのだろうが、『落書きと煙草の煙だらけのライブハウス』辺りが似合いそうな如月と『アイドルバンドの顔』である飛鳥では……失礼ながらいささかそぐわないような気がしてしまうではないか。

「えー、そうかなあ。大事に、してると思うよー……」

「あ、そう……」

 とうとう『彼女持ち』になってしまったと言うわけか。それでは今、「振られた」と言っていた時より更に落ち込んでいるのではないだろうか。

「諦め、つくか?」

「……つけなきゃ」

「ま、そうですが」

「……」

「……聞いてやると言ったわりに、あんまり励ましてやれる自信がないけどさ。とりあえず、お聞き下さいます?」

 紫乃の視線を感じながら、かけてやれる言葉を精一杯胸の内に探した。

「今だけ、だよ」

「……」

「苦しいのって。絶対、今だけ。……必ず通り過ぎるって、決まってんの」

 毎日が、黒い色で塗り潰されているように感じられたことがある。

 黒で塗り潰された1日のページを捲ると、またそこに黒で塗り潰された新しい1日が用意されているように感じられたことが。

 永遠に続くと、思っていた。

 終わることなど、ないのだと思っていた。

 その最中にいる時には、見晴らす未来は一面黒で塗り潰されて見えた。

 けれど、終わった。今の一矢にとっては、毎日は黒ではない。日々は新しい色で毎日、彩られている。

 一矢が苦しんでいた理由は恋愛ではなかったけれど、今の紫乃にとってもきっとそうなのではないか。そう思って、言葉を重ねた。

「取り巻く環境も、周囲の人たちも、そして自分も――絶対変わるんだわ」

「……うん」

「だから、ずっと苦しい時間が続くわけじゃない。……信用ならんかもしらんが、俺が保証してやろう」

 ちらりと見ると、紫乃が泣き出しそうな笑顔を微かに覗かせた。それに笑みを返して、続ける。

「お前さんの存在は、如月さんにとって無意味じゃ、なかったんじゃないですか」

「え?」

「お前が、如月さんの恋愛を応援してやって……うまくいってさ。如月さんの幸せって奴に、手を貸してやってんだから」

「……そんな大層なことじゃないよ。だって元々うまくいく……」

「かどうかは、わかんないでしょ?お互い想ってたって、気が付かなきゃそれまで、動かなきゃわかんないまま終わるんだから。もしかするとお前が煽ってやんなきゃ、今も変わってなかったかもしれない」

 事実は、知らない。紫乃の言葉がきっかけのひとつになったのか、それともなくたって結局そうなっていたのかは、一矢にはわからない。けれど、歯を食いしばって背中を押してやったのだ。それが最後の一押しになったと思ってやっても、良いだろう。事実など、誰にもわからないのだから。

 だったらせめて、紫乃の想う人の幸せに、紫乃の存在が役に立ったのだと……そう思わせてやるのは、悪いことではないはずだ。

「あとは必要なのは、時間だけでしょ。如月さんにとって紫乃の存在は意味がある……そういう自分に自信を持っても、いーんじゃないかい」

「……あたしは」

 一矢の言葉に、紫乃は苦しそうに顔を歪めた。

「あたしは、そんなんじゃ、ない……」

「何?」

「あたしは、ずっと知ってた……如月さんが好きな人がいるんだろうなってことも、そのコ――飛鳥ちゃんが好きな人が、如月さんなんだろうなってことも。もっと早く背中を押してあげることだって、本当は出来たはずなんだ」

「出来たはず、ねーじゃん」

「……」

 あっさり言う一矢に、紫乃が顔を上げた。

「誰だって聖人じゃないんだ。出来たはず、ないでしょ。出来ることなら、やってたんじゃない。だけど紫乃は、紫乃自身の為に、まず自分が頑張らなきゃいけなかったんじゃないの?違います?」

「……」

「出来るはず、ねーよ。最後に背中押してやることだって、普通出来ないよ。……少なくとも俺には、出来そうにない」

「……」

「綺麗な行動ばっかり取れるんなら、そんなのマジな恋愛とは言えないんじゃないの?誰かに何かを施してやれるほど、人は偉くない。そんな余裕をずっと持ってられたんだったら、そんなの最初から、好きとは言えないんじゃないのかね」

「……」

「……俺には良くわからんけど、そんな気がしますが」

 口を閉ざすと、紫乃が深く俯いた。俯いたままで、搾り出すように呟いた。

「あたしは、あたしの中がどろどろだって思った」

「どろどろで、悪いん?」

「……だって」

「自分がわからなくなるほど好きになれるのは、それだけの価値がある出会いだったってことでしょ。どろどろだって言ったって、全部がどろどろだったわけじゃないでしょ。迷惑になること、相手や周りを思いやることを忘れること、自分のことだけを考えた行動……そういうことがなかったからこそ、今でも如月さんは広瀬サンに優しくしてくれるわけじゃないんですか」

「……そう、かな」

「俺にはそう思えますが。紫乃が聖人君子じゃないように、如月さんだって聖人君子じゃない。紫乃が本当に全部『どろどろ』なんだったら、とっくの昔に邪険にされてる。……本気で好きになりながらも相手や周りを思いやることが出来たんだとすれば、それできっとひとつ、幸せなんだよ。幸せをひとつ見つけただけでも、無駄な恋愛じゃなかったでしょ。想う紫乃も、きっと想われる如月さんにとっても」

 深く俯いた紫乃の肩が、視界の隅で微かに揺れる。小刻みに体を震わせて、押し殺すようにテーブルに涙を落とす紫乃の頭を、天井を向いたままで乱暴にくしゃくしゃと撫ぜてやった。

「……武藤くんが戻ってくる前に、テーブルに垂れ流した大量の涎を収める方向で」

 一矢の言葉に、俯いたままの紫乃が小さく吹き出す。

「ばぁーか」

「……ばか……」

「でも……」

 言葉を途切れさせた紫乃が、涙交じりの笑い声のまま、小さく「ありがとね」と呟いた。


 紫乃が如月と出会ったのは、もう1年半近く前になるだろうか。

 重ねてきた偶然、それがいつの間にか、紫乃の中に特別な想いを生み出していた。

 出会ってからずっと、好きだった。どれほど頑張っても自分の方を向いてくれないと気づきながら、それでも頑張りたかった。ずっと如月のことばかりを考えてきた。――本当に、大好きだったのだ。

 けれど同時に気づいていた。紫乃がサポートをするバンドのメンバーが、紫乃と同じように……いや、もしかするとその前から、ずっと同じ人を見ているのだと言うことに。

 それに気づきながら、自分の気持ちを止めることが出来なかった。そんな自分を、ずっと責め続けた。如月のそばにいることが出来れば出来ただけ、自分で自分を責めずにいられなかった。

 2人に距離を作っていたのは、きっと自分だ。

 自分の存在は、本当は邪魔でしかない。

 自分の想いは、ない方が良いものなのだと……なのに頑張りたいと、2人を応援してやれない自分が、ずるくて汚いもののように思えていた。

 武藤と一矢と居酒屋を出て別れ、幾度も如月に車で送ってもらったことのある道を、微かにアルコールの残る頭でゆっくりと歩く。

 何度か、2人で会ってくれた。音楽の趣味があったせいに過ぎなかったのだろうし、何があったわけでもなかったけれど、それだけで幸せだった。そして、その幸せの分、自分を責めて苦しかった。

 自分のアパートに続く暗い路地に舞う息は、白い。もうこの道を、如月の車で送ってもらうことはないのだと思えば、止めた涙がまた溢れそうになる。

(いつか、忘れるのかなー……)

 こんなに、好きだと思う気持ちさえ。

 会いたいと、声が聞きたいと、そう願って悲鳴を上げる胸の痛みも、いつかは思い出に変えられるのだろうか。

 気が狂いそうなほどの切なさが溢れさせる涙で眠れずに朝を待つ夜も、懐かしい記憶と笑える日が来るだろうか。

 そんな日が来ることは、今の紫乃にはまだ到底信じることなど出来なかった。

 永遠に続くような気がする。叶わない想いにいつか、おかしくなるんじゃないかとさえ思う。

――ずっと苦しい時間が続くわけじゃない

 先ほど、一矢が言った言葉を胸の内で反芻する。

 その言葉に縋りたいほど、自分は自分でそう思うことが出来なくなっている。

――信用ならんかもしらんが、俺が保証してやろう

 思い返した言葉に、紫乃はひとりで吹き出した。

(信用ならんなー)

 考えてみれば、一風変わった奴のような気がする。軽そうで、いい加減そうで、何も考えていなさそうで……けれど、時にかけてくれる言葉は意外なほど真摯な響きがあるように思えた。人の気持ちを弄ぶ種類の男かと思えば、そうではなく……痛みを、知っているかのように見えることもある。

(読めない奴だなー)

 真面目な言葉を紡ぎながら、口調だけはどこか軽さを失わないのは、意外と不器用なところがあるのかもしれない。多分真剣に語るのが少し照れ臭いのだろう。その割りには、紫乃を掬い上げようとする気持ちが端々に滲んで感じられて、優しい奴なのかもしれないと言う気にさせる。

 けれど。

――わーるいんだけど、俺、彼女と特定の付き合いなんかする気、ねーよ

 裏腹の、冷たい言葉。何を考えているのか、どこか見えない。正体がわからない。優しいのかもしれないけど、やっぱり人の気持ちなど何とも思っていないのかもしれない。

(どっちなんだかなー……)

 はあっと白いため息をついて、夜空を見上げたまま歩く。

 ……如月と辿った道を歩けば、想いが苦い。

 蘇る記憶が涙を誘い、痛みを呼び起こす。

 そして、如月を想うことで知った自分の中の嫉妬を含んだ汚い感情と、自己嫌悪。

 けれど――……。

――どろどろで、悪いん?

 本当に人を好きになれば、自分の中の醜さに気づく……それは、自分だけではないと思って、良いだろうか。

――迷惑になること、相手や周りを思いやることを忘れること、自分のことだけを考えた行動……そういうことがなかったからこそ、今でも如月さんは広瀬サンに優しくしてくれるわけじゃないんですか

 そうだろうか。自分の中で芽生えた想いは、如月にとって迷惑だけのものではなかっただろうか。

――うまくいってもいかなくても、良い恋愛が出来るのは良いことです……出会えたことに感謝出来るなら、好きになったことを後悔はしないでしょ

(出会えたことに、感謝、出来る……)

 涙はまだ涸れない。

 けれどいつか、涸れる日がきっとくる。

 笑顔で振り返る時に、「出会えて良かった」と――「好きになって良かった」と言える、そんな恋でありたい。

――紫乃は、紫乃自身の為に、まず自分が頑張らなきゃいけなかったんじゃないの?

 如月に恋する間、自分でさえ否定し続けた自分を認めてくれる言葉が嬉しかった。

 自分自身の為にまず頑張ることが、悪いことではないのだと、当たり前のことなのだと受け入れてくれる言葉に救われた。

(そうだよね……)

 今でもまだ、大好きだけれど。

 まだまだきっと、忘れられそうにはないけれど。

 歩きながら、想いの名残にまた涙が頬を伝う紫乃の心を、思い返す一矢の言葉が確かに、ほんの少し……手を差し伸べてくれたような、気がした。


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