第1話(1)
「……あ、一矢?年明けにメシでも行かないか?まあ時間見て折り返してよ。……じゃ」
携帯の留守電に残されていたメッセージを聞いて、消去する。落ち着いた大人の男の声――従兄の久我朋久だ。……いや、『意識的には従兄』と言うべきか。
(トモさんと会うのも久々だなー)
とりあえず後でかけ直すことにして携帯をポケットにねじ込むと、神田一矢は部屋を出た。
どちらかと言えば痩せぎすの長身、2枚目とは言いにくいが下がった目尻が人懐こそうな人の良さそうな印象を与える。尻尾のように長く伸びた髪を後ろで無造作に束ね、それを軽く指先で弾く。
今日はこれから、気が向いた時だけ手伝っているバー『listen』へ向かうことにしている。収入としては大したものではないが、生活費を稼がなければならないわけでもないので、気楽なものだ。
一矢の家庭環境は複雑である。高校の時に、家庭が完全に崩壊した。一矢は高校の中退を余儀なくされ、父親は母の妹と夫婦同然に暮らし、母親は行方がわからない。
現在一矢は渋谷のマンションにひとり暮らしである。元々、父親と叔母は恋人同士だったのだそうだ。それがどういう経緯からか、姉である母と結婚した。叔母は叔母で別の人間と結婚をし、それはそれで決着がついていたはずだ。
何かが狂ったのは多分、叔父――久我康久の急死だろう。元々心臓の弱かった彼は一矢が中3の暮れに急死した。多分そこから、父と叔母の関係は復活したのだろう。
籍こそ入れていないが、久我の息子である朋久とは一歩間違えれば従兄ながら兄弟である。幸いそんなややこしいことには今のところなっていないが、時間の問題かもしれない。
(どぉーでもいーけどねー。今更)
一応、父親が一矢の面倒は見ると申し出たので、家賃、生活費を要求している。それも思い切り高級マンションだ。その分学費がかからなかったのだから良いだろう、と思っている。崩壊した家庭への、ささやかな復讐だった。愛情をもらえなかったのだから金くらい寄越せ、と言うわけである。
とは言っても、大学に通っていたとすれば卒業する年齢まで、との期限付きなので、残すところあと1年。そこから先は自分で自分を養わなければならない。それまではとことんふんだくってやる腹積もりである。
「はよー。明弘は?」
バー『listen』は下北沢にある。一矢の住む渋谷からは単車ですぐだ。裏手の駐車場に乗ってきた単車を駐車して中に入ると、マスターであるテルがカウンターの中から振り返った。
この店は、店続きの隣に小さなリハスタがある。店自体も小さなもので、客席はテーブルが3つ、6人座ればいっぱいと言うカウンター席、それから中空にロフトのような感じで靴を脱いでくつろげる座敷のような席がある。オープンして照明を落とすと、濃いチョコレート色の床や壁にはカウンターに置かれている小さなミラーボールの淡い光が通り過ぎ、不思議な空間になる。
『listen』も、リハスタ『echo』も、元ミュージシャンのテルが趣味でやっているような規模のものだが、それぞれがそれなりに固定客を持っているらしい。
テル自身の年齢やバックグラウンドは不明だ。一矢より年上なのは明らかだろうが、それ以外にはわからない。本名も知らない。別にどうしても知りたいわけではないので、それはそれで構わないとも思う。
中に入って来た一矢の問いかけに、テルはカウンターから一番近い小さなロフト席を指さした。見れば、小さなそのスペースから足の裏が覗いている。
「何だ、寝てんの」
呆れて言いながら、上着をカウンター席のひとつに投げ出した。腕まくりをしながら勝手にカウンターの中に入る。
「一矢、今日料理担当」
「んー。いーよ」
料理をするのは嫌いではない。17歳の頃から自分で自分の生活を面倒みなければならなかったせいで慣れてもいる。やってみると意外に楽しく、暇な時間も手伝って腕はそこそこだろう。遊びに来た女の子に何か簡単に作ってやったりすると受けが良かったりするのもポイントだ。
布巾を濡らしてテーブルを拭いて回っていると、不意に頭上から唸り声が聞こえた。明弘が起きたようだ。
「うーん……かえってだるくなったな、何か。……あれ?一矢、いつ来たの」
「今さっき」
「あ、そ」
ごそごそと音が聞こえたと思うと、やがてロフト席からのそのそと明弘が降りてきた。靴を脱いだまま、手近なテーブル席のソファにどすんと乗り移る。
「明ちゃんも手伝ってよ」
「手伝うほどすることねーだろ、この店は」
鼻の頭に皺を寄せてテーブルに頬杖をつく明弘に、思わず苦笑した。
大野明弘は一矢よりひとつ上の22歳だ。
さらさらの長すぎない髪を茶色く染めて耳にピアスが5つほど開いている。顔立ちはどちらかと言えば知性的で爽やかなおにーさんと言った風情の大学生だが、その実、一矢の知識や交友関係で『ろくでもない』と言える部分の原因はみんなこの男にある。
とは言え、明弘が教えてくれたものの全てがろくでもないわけでもない。
知り合ったのは、一矢が15歳の時だった。中学3年生だ。明弘は当時高校1年生の16歳。暗黒期である中学時代で唯一の友人といえる世良正俊に連れて行かれた新宿のライブハウスで、一矢は明弘と出会った。
特定のバンドを決めずにふらふらしているドラマーだった明弘は一矢にドラムを教え、音楽を教えた。高校進学をやめようと考えた一矢を諭し、高校に行かせたのも明弘だ。
明弘と出会っていなかったら、今の自分はどこにもいない。何も出来ない自分に唯一出来ると思えるものが、ドラムだ。
「寝てないの?」
テーブルを拭き終えてカウンターに回り込みながら尋ねると、明弘は大あくびをかましながら「ふあー?」と答えた。
「寝てねー。昨日知り合った女の子と朝まで遊んでた」
「……そのうち笑子さんに殺されるんじゃないの」
明弘には彼女がいる。
一矢の指摘に明弘はけらけらと笑った。
「へ。笑子なんか怖かないね。あいつだって人のこと言えねー」
その言葉に軽く肩を竦めて応える。明弘は四六時中他の女の子と遊んでいるし、笑子は笑子で連絡が取れないことが多々あるようだし、全く不思議なカップルだ。聞けば中学時代からの同級生で、明弘が長年かけて口説きまくってようやく落としたらしいから、惚れてはいるのだろうけれど。
何度か見たことのある笑子の、今風の愛らしい顔を思い浮かべながら蛇口を捻る。男受けするタイプなのは間違いない。
「あ、そーだ、一矢」
テルが明弘のテーブルにジンジャーエールのグラスを置く。それを受け取りながら明弘は思い出したように顔を上げた。無害そうで有害極まりない先輩に視線を向ける。
「こないだ、お前らのライブ見たよ」
「へ?いつ来たの?」
「何だっけ、年末?」
「今が年末でしょ……。11月?『グランベリィ』?」
ワンマンライブをやった時だろうか。ここ1年くらいで一矢がドラムを叩くバンドGrand Cross――通称クロスは、小さなキャパでならワンマンライブが出来るようになってきた。
「そうそう、それ」
「え?いたの?」
「『グランベリィ』なんか使ってんのかよって思って見に行った」
「……どんな理由よ」
呆れながら洗った布巾を広げて干すと、そのまま背後の小さな冷蔵庫を覗き込んでテルに顔を向けた。
「テルさん、何作る?俺」
「好きなメニュー適当に作っていーよ」
「いーかげんだなあ、相変わらず」
「一矢の作るメニューって評判良いんだよ、俺のより」
「人望でしょ」
勝手なことを言いながら冷蔵庫から適当に食材を抜き出す。頬杖をつきながらジンジャーエールを飲んでいた明弘が、話を再開した。
「良く客集まるようになったじゃん」
「あー……うん。まあね」
「コザルもだいぶ歌、上手くなったんじゃねぇの?」
コザル、とはGrand Crossのヴォーカリストである橋谷啓一郎のことだ。あどけない童顔に全体的に小柄な体、その割に良く動くその姿を明弘が形容するとそのようになるらしい。
「うん。上手くなったっしょ」
明弘とは一時期啓一郎も含めて四六時中集まっていた遊び仲間だったことがある。当然明弘と啓一郎は既知の間柄だ。
「なったなった。デビュー出来んじゃん?」
煙草の先で灰皿の中の灰をつつき回しながら言うのを聞いて、気がついた。
そうだった。明弘にはまだ、言っていなかった。
野菜を洗う手を止めて顔を上げる。
「明ちゃん。ごめん、言い忘れてた」
「え?」
「俺ら、決まった」
「は?」
「メジャーデビュー」
はああああ!?と言う明弘の叫びが、オープン前の店内に響き渡った。
◆ ◇ ◆
オープンしたばかりのうちは閑散としていた『listen』は、夜が深まるにつれて常連客がやってくる。今はテーブル席が埋まり、カウンターでは元テルの追っかけらしい女性客2人がテルとおしゃべりに興じていた。明弘は久々に笑子がつかまったと言って途中で店を出ている。
カウンターの内側で煙草をくわえながらその様子を見るともなしに見ていた一矢は、ガラス張りのドアの向こうに見知った姿を見つけて体を起こした。バーに来るには若すぎる、まだ少年と言えるあどけなさを残した顔つきと仕草。そのくせ雰囲気だけはいやに大人びた落ち着き払ったものだ。
「あ、やっぱここにいた」
「いらっしゃいませー」
入って来た少年の言葉とテルの声が重なる。少年はカウンターの中に一矢の姿を見つけて白い歯を覗かせた。
「武人ぉ」
「お。武人くん、いらっしゃーい」
方宮武人はGrand Crossのベーシストで一矢のバンド仲間である。正真正銘の16歳、もちろんバンド内最年少だ。信頼に足る実力の持ち主ではあるが、頭脳の優秀さゆえか時折爽やかな毒舌ぶりを発揮する。武人が小学校の頃から知っている一矢にしてみれば、可愛い弟分と言える存在だ。
高校中退後に一矢が勤めていた楽器屋に入り浸っている小学生――それが武人だった。Grand Crossを結成したそもそもの理由も、武人が「バンドがやりたい」などと言い出したのがきっかけである。
「何飲む?」
「一矢さんの奢りでしょ?じゃあビール。グラスで」
「お前なあ……」
高校生にしては異様に酒に強い武人は、カウンターのひとつにすとんと腰を落ち着けてしれっとそんなふうに言う。煙草を口にくわえたままでしかめ面を向けてやるがどこ吹く風で受け流され、仕方なく一矢はグラスをひとつ取り出した。
「えー。かーわいーい。いくつぅ?」
武人が座ったカウンターの反対側から先ほどの女性客が尋ねる。武人はそつのない笑顔を向けて頭を下げた。
「16です」
「えー。16ぅ?かーわーいーいー」
「一矢って若い男の子までたぶらかしてんのぉ?」
「美奈さーん……。俺は女の子専門ですー」
武人の前にグラスビールを置いてやりながら反論する。武人は我関せずと言った感じで「いただきまーす」とグラスに口をつけた。
「何、どしたのあんた」
灰皿を引き寄せて煙草を押しつける。何食わぬ顔でグラスを半分あけた武人は、理知的な顔を上げた。
「何ってことないですけど。暇だったから電話したら出なかったからどうしたのかなと思って。クラブかここかなってあたりを勝手につけて来てみました」
「……他に行き先ないの?俺」
「知りませんよそんなこと。……ああ。後は女の子と一緒か。どれかですよね」
さらっと笑顔を崩さずに言う武人に女性客が大喜びで手を叩いた。
「言われてるわよ。言い返さないで良いの?一矢」
「……言い返す言葉が見つけられません」
「ま、ここ覗いていなかったらいなかったで帰ればいーやって思ってたんで。いたから良しとしましょう」
そう言って武人はグラスを綺麗に空にした。
「……もっとゆっくりじっくり味わって飲みましょうね武人くん」
「ゆっくりじっくりしてたら泡消えて温くなってまずくなってく一方じゃないですか、ビールなんか」
あっさり言って武人は空のグラスを一矢の方に差し出した。面白がってテルが別のグラスを差し出す。
「強いんだよねー、このコ。将来が楽しみだよ。……ほい。特製レシピのカクテル。酒は飲めば飲むだけ強くなる。鍛えてあげよう」
「鍛えないでもらえます?ウチのコ」
差し出す方も受け取る方も一矢の制止をどこ吹く風と受け流して、『特製カクテル』は無事武人の手に渡った。
「ねー、名前なんて言うのー?」
「アナタはテルさんの追っかけなんじゃないのー?」
「そぉだけどー。テルったら最近あんまりライブやってくれないんだもの。若いコに乗り換えるのも悪くないじゃなーい?」
「名前、何?」
「方宮です。方宮武人」
「武人くんかぁー。可愛いー」
もう何を言っても可愛いらしい。若ければそれだけで受けが良いのは男も女も同じである。
「ね、ね。年上とかどう?」
「悪くないですよ」
「え、ほんとー。いくつ上までおっけー?」
「2歳上」
答えたのは武人ではない。一矢である。やけに具体的なその回答に、武人が微かに赤くなって一矢を睨んだ。
「え、なになにー?意味深ー」
「10歳上とか駄目?何でも買ってあげるわよー」
「……武人。若さを吸い取られるぞ」
「ちょっとぉーッ」
女性陣から一斉にブーイングが上がった。
「既に年上の彼女持ち、この人。しかもつき合い始めたばーっか。年下がいーなら俺でどう?何でも買って」
「年下の良さはすれてないとこにあるのよー。一矢じゃ無意味じゃないー」
「……純真なボクに向かって何てシツレーなコトを……」