第5話(4)
◆ ◇ ◆
中学校に通う晴美は、一矢より早い時間に家を出る。
何を張り切っているのか、同じ時間に叩き起こされて朝食を詰め込まれた後、晴美を見送って再度眠りについた一矢は3時を過ぎて部屋を出た。
今日は夕刻からまた事務所で打ち合わせが入っている。事務所がついてからこっち、ライブを1本もやっていないので少し欲求不満だ。来週になれば今度はライブ尽くしで辟易するのかもしれないけれど。
ブレインの受付で事務員の女性にGrand Crossの会議室の場所を確認して、足を向ける。ブレインには1階、2階、3階とそれぞれ会議室が計5つあり、今回Grand Crossが使用する会議室は、3階の最奥だ。自販機で買った缶コーヒーを片手で弾ませながら、階段を上がる。
(寒ぃ〜……)
このところ急激に冷え込んだが、今日は特に寒い。テレビでは夜から雪が降るかもしれないと言っていた。その為、少し迷って単車をやめた。東京の雪なら大したことはないだろうが、万が一積もるようなことになったら嫌だし、大体雪の中の単車は死ぬほど寒い。
手の中の缶コーヒーの温もりを楽しみながら、2階に到着する。更にもう1階上がる為に体を折り返しかけて、階段の正面のスタジオに人影が見えることに気がついた。
2階のスタジオはレコーディングスタジオとリハーサルスタジオがそれぞれひとつずつあるが、そのうちリハスタはほとんどBlowin'の私物化していると聞いている。足を止めて見てみると、中に揺れる人影はやはりBlowin'のメンバーのようだった。
所属アーティストにも、格差と言うものが存在する。全国規模で最もメジャーに展開しているCRYが事務所の柱となっているのは確かだが、この事務所内でそれに続くのが多分Blowin'だろう。京子のOpheria、紫乃のD.N.Aの他にもMEDIA DRIVEやVIRGIN BLUEと言うアーティストが所属しているが、そちらは特定のファンを相手に展開していると言う感じだ。
Opheriaは鳴かず飛ばず、D.N.Aは期待の新人、と言ったところだろうか。まだデビューさえしていないGrand Crossは、もちろん未知数である。もうひとり、この事務所では唯一のマルチアイドル大倉千晶がいるが、彼女はいろいろな意味で別件と言うイメージがある。
ともかくも、Blowin'が2階のリハスタをほとんど独占的に使用しているのは、その辺りに理由があるのだろう。CRYは、事務所にはまず滅多に来ない。と言うことは、事務所に出入りするアーティストの中でBlowin'が最優先的に扱われている。
(すげぇよなぁ……)
リハスタの壁にはめ込まれた窓から、ちらちらと金髪が揺れるのが見えた。如月だろう。
階段を上がって会議室に入ると、啓一郎と和希は既に揃っていた。概ね、このメンツの中で集合が最も遅いのは一矢であることが多い。武人は学校があるので、今日の打ち合わせには参加しないと聞いている。
「はよー」
「ういす」
「おはよう」
挨拶を交わしながら手近な椅子を引いて、コーヒーをテーブルに置く。
「2階、Blowin'来てんね」
何気なく口にすると、片手で携帯を弄んでいた和希が応えて顔を上げた。
「何だかこのところ、ずっと来てるみたいだよ。この前ちらっと遠野さんと話した」
「ふうん?」
「アレンジしてるみたい」
「そうなんだ」
煙草を咥えていた啓一郎が、テーブルに頬杖をつきながら口を開く。
「今日、結構人口密度高そう」
「は?事務所?」
「そう。さっき広瀬も見たし、MEDIA DRIVEも1階の会議室使うとかって使用表に書いてあったし。その後にOpheriaも来るのかな」
「ふうん……CRYは?」
「相変わらず来ない」
「来ないのかなあ」
「山根さんもあんまり来ないって言ってたよ」
山根はブレインの事務員の女性である。
「山根さんってCRYが好きでここ入ったんだって?」
「らしいね。ファンクラブ入ってると面接弾かれるって聞いたから、入らないで我慢してたんだとかってこっそり教えてくれた」
啓一郎は、わりと良く事務員の山根と話している。事務所に来ることも一矢より多いだろうし、人懐こいせいもあるだろう。何も考えずに話しかけるので、男だ女だに関わらず、啓一郎は打ち解けるのが早い。
「ああ、やっぱりそういうのってあるんだ」
「事務所に寄るみたいだけどね。CRYはやっぱちょっとねぇ……人気、あるもん」
雑談をしながら、ふと思う。
紫乃が事務所にいて、Blowin'も事務所のスタジオに入っていると言うことは……また、落ち込んではいないだろうか。
やがて佐山と広田、やや遅れてロードランナーの社員である藤野が到着して、打ち合わせが始まった。この先しばらくは、地方でのハコライブと路上ライブを繰り返しながら地方ラジオなどの仕事をしつつ、東京でも仕事をする。移動手段や宿泊にも金をかけないので、かなりの時間を取られることになる。個々のライブや他の仕事について細々と打ち合わせている時間がなくなるので、今のうちにまとめて少し先の分まで打ち合わせをしておく必要があるのである。
長引きそうな打ち合わせに、一旦休憩が入った。会議が始まってから1時間半以上が経過している。
「じゃあ15分くらい休憩入れようか……45分になったら、続きを始めよう」
そう言って広田が出て行くと、啓一郎がべたっとテーブルに突っ伏した。その頭をぽんぽんと佐山が叩いた。
「良く起きてたね」
「……バレた?」
「目が半開きになってる。怖いから、ファンの人の前でそういう顔はしないでね」
「俺、飲み物買って来よーっと」
会議室の中は、割合温かい。廊下こそ外の冷たい空気を排除しきれていないものの、締め切りの会議室はエアコンのせいで少し乾く。ポットでホットコーヒーを入れることは可能だが、冷たいものが欲しくなって一矢は立ち上がった。
「オーダー、受け付けますけど」
「俺、コーヒー買ってきて」
テーブルに額を押し付けたままで、啓一郎が片手を挙げる。
「ブルーマウンテン」
「りょおかい。和希とか藤野さんは?いい?」
「俺はいいや」
「俺も、ここのホットで」
「……一矢くん、どうして俺は省くの?」
「だってさーちゃん、コーラ飲んでんじゃん……」
啓一郎のオーダーを受けて会議室を出る。階段の方へ足を向けると、通りがかりの隣の会議室が目に入った。ちょうど紫乃がこちらに出て来ようとしているところで、ドアのガラス越しに目が合う。
「あれ。おはよー。何だ、隣、クロス?」
「おう。はよ。そっちは何してんの」
「今は取材で雑誌のインタビューでー……午前中からさっきまではリハスタでアレンジやっててー……」
「で、どこ行くの?」
「煙草を買いに」
紫乃は、すっかり京子のことについてがたがた言わなくなった。何かを聞いているのだろうか。それとももう何も聞いていないのだろうか。言われないに越したことはないので、一矢からはもちろん触れない。
同じ方向へ向かうので、何となく並んで階段に向かう。今日の顔つきを見る限り、この前のように如月に会ってへこんだりしている様子はない。
「今日、事務所来てる人多いんだってね」
「そう?スタジオこもりっぱでわかんないよー……。あ、でも啓一郎くんは会ったよ」
「CRYって全然事務所来ないんだって?」
「ああ……何か、あんまり広田さんと折り合い良くないって聞いた」
「へぇ?」
「あたしも良くは知らないけど。CRYのサポートの冬間さんって人が、前にぼやいてた」
並んで階段を下りる。2階のリハスタが目に入って、なぜか一矢が少し、意識した。紫乃も何かを思っているのかもしれないが、その表情からは読み取れない。
「そう言えばこの前、飛鳥ちゃんの実物に会った」
話題を探してふと、飛鳥を見かけたことを思い出す。口にすると、紫乃はなぜか、微かに顔を曇らせた。
「……そう?」
「うん。まさかと思うけど、あのコ、高校生?」
「ええ?違うよ。あたしたちのひとつ下だよ?」
「あ、そうなんだ。何か素朴で可愛いね。今度紹介よろしく」
「はああ〜?」
一矢の軽口に、2階のフロアで紫乃が足を止める。それを置いて階段を更に下る一矢の背中に、紫乃の呆れたような声が投げられた。
「あっきれたー。京子ちゃんがいるでしょお?」
「お話してみたいだけざーんす」
「だーめーでーす。危なくって神田くんになんか紹介出来ないよ」
「……危ないって何よ」
「危ないでしょうが。飛鳥ちゃんには決まった人がいるから、もう駄目です」
「決まった人?」
一矢の問いには答えずに、紫乃はずかずかと階段を下りて追い抜かした一矢を睨みあげた。
「まったくもー。女の子なら誰でもいいわけ?信じらんない」
「うーん、微妙。紫乃はない」
「……殴るよ」
「入れて欲しいの?」
「欲しくない」
「んで、飛鳥ちゃんってどんなコ?」
「だーかーらッ。もう決まってんのッ決まった人がいるのッ神田くんの出る幕既にどこにもないですッ」
「ちえーッけーちー」
「そういう問題かッ!?」
階段を折り返して踊り場から1階へ続く階段に足を掛けた紫乃は、そこでふと足を止めた。やや遅れて続きかけた一矢もつられて足を止める。紫乃の視線を追って、その理由に気がついた。
「わ、わ……き、如月さん。おはようです」
ロビーで、煙草を吸っていたらしい如月がぽかんとソファからこちらを見ている。紫乃の怒鳴り声でも耳に入ったのだろう。
「おはよう」
「やややだなあ。ぼーっと見てないで、声かけたりとかしないですか」
「いや……何か元気にしゃべってたから」
急に、どこか改まった態度の紫乃の背中に、少し複雑な気がした。明らかに動揺をしている。如月の方は表情が乏しいので、何をどう思っているのかは一矢からは全くわからない。
紫乃が階段を再び下りていくので、一矢も再び足を動かす。まさかここで回れ右をするわけにはいかないだろう。そうは思うが、またこれで紫乃が後で泣くことになりはしないかと思うと、少しだけ気にかかる。
「あ、これ……」
如月のそばで紫乃が足を止めた。一矢にしてみれば如月は先輩――それも、大先輩と言う意識がある。挨拶をしないわけにはいかない。
言葉を口にする前に、紫乃が如月に対して一矢を示した。察するに『これ』は一矢のことだろう。
「これぇ?」
「るさいな。これ、Grand Crossの神田くんです。ドラムの」
一矢のクレームを叩き潰して紹介した紫乃の言葉に、横目で紫乃を睨んでから如月に向き直る。如月がソファから立ち上がった。
「Blowin'の如月です。よろしく」
挨拶をしているだけなのに、どこか怖い気がする。別に噛みつかれるわけではないのだろうし、礼儀正しく立ち上がって声をかけてくれるのだからこちらの勝手な思い込みだろうが……その冷たい顔つきは何とかならないものか。
「あ、神田です。……よろしくお願いします」
正面から実物の如月を見るのは、初めてだ。身長は170半ばくらいだろうか。一矢よりやや低い。
「じゃあ、俺……」
ぼそっと言って如月が階段を足に向けかけるので、一矢はもう一度頭を下げて自販機の方へと足を向けた。どうにも会話が弾みそうにはないので、距離を置いた方が無難だろう。そう判断して歩き出す一矢に反して、紫乃が「如月さんッ」とその後を追いかけた。
構わず出入り口付近の自販機に向き直って、硬貨を入れる。階段の下の紫乃と如月が何か言葉を交わしているのは見えるが、その会話までは聞こえない。
自分の分と啓一郎の分のコーヒーを購入し、どうしようかと少し躊躇っていると、会話を終えたらしく如月が階段を上っていくのが見えた。紫乃がくるりとこちらを向いて歩いてくる。一瞬前まで如月に向けていただろう何気ない笑顔が崩れ、伏せた顔は切なく歪んでいた。
「……どした」
「……何でも」
片手で缶を弾ませながら、視線を自販機のイミテーションに向けてぼそっと尋ねる。顔を伏せた紫乃は、そのまま何気ない態度を装って一矢の隣に並んだ。ドリンクの自販機の隣には、煙草の自販機がある。
「こんなとこで泣いてくれるなよ?」
「泣かないです。もう、泣きたくない」
強気に言い放ちながらも、伏せた顔は上げない。千円札を自販機が飲み込んでからも、紫乃は顔を伏せたままだった。
「別に、振られたからって冷たくされてるわけじゃなさそーじゃん?」
いかにも慰めていると言うようなことを口にしたくなかったので、どこか婉曲した言葉を舌に乗せる一矢に、紫乃は顔を伏せたままで小さく笑った。
「うん……優しくしてくれる」
「まだ頑張れたりはしないの?」
「しないです」
紫乃の回答は明快だった。ようやく、のろのろと顔を上げて自販機に視線を向ける。その横顔は泣いているわけではなさそうで、ひとまずそのことに安堵を覚えた。
「だって如月さんはもう、相手が決まってます」
「……付き合ってないんでしょ」
「今はね。でも、今、ハッパかけたから」
「は?」
言っている意味を理解出来ずに、一矢は視線を自販機から紫乃へ移した。その視線を感じてはいるだろうに、こちらに顔を向けずに自販機を睨みつけたままで紫乃が答えた。
「告白してこいって。あたしが今、ハッパかけたから」
「……どうしてそういう自虐的なことをするかな」
「幸せになって欲しいって……」
紫乃の指先が、ボタンを選択する。ピッと言う小さな電子音とともに点灯していたランプが消え、代わりに煙草のパッケージがごとんと転がり落ちる音が聞こえた。それを取り出そうとはせずに、紫乃はこつんと自販機に頭を押し付けた。
「幸せになって欲しいって思ったら……そうするしかないでしょ?」
「……」
「早く、うまく、いくように。……うまくいくって、あたしにはわかってるんだもん。あたしは、好きだから、幸せになって欲しいって思うもん」
「……」
「想い合ってるの。あたしはそれを知ってるの。如月さんの言葉をきっと待ってる。あとはどちらかが口にするだけなんだもん……」
長い髪に覆われた紫乃の横顔は、見えない。震える声は、涙に掠れているように聞こえる。
けれど、ようやく上げてこちらを見た紫乃の笑顔は、一応は涙に濡れてはいなかった。
「……偉かったじゃん」
励ましてやりたい。
素直にそう思って、一矢も笑みを向けた。ぽんぽんとその頭を軽く叩くように撫でてやる。
「痛いなぁ」
「偉いよ、お前」
「……」
「もったいないな、如月さんもさ」
一矢の言葉に、紫乃が笑顔を作る。泣くのを堪えているのがわかる顔だ。堪えるのはつらいだろうから、こんな場所でなければいっそ泣かせてやりたいのだけれど。
「……そうでしょ」
「うん。想われている本人には、意外となかなかそういういじらしさは伝わらない……もったいないやね」
好きな相手の幸せを願うことなら、誰でも出来る。
けれど、自分以外の相手とわかってその恋の後押しをしてやるのは、いかにもつらいだろう。それを飲み込んで、痛みを少しも感じさせないで、想う相手を励ます紫乃が痛々しく、いじらしく思えてしまう。反面……如月に対して、どこか嫉妬めいた感情が微かに湧いた。
追加購入のタイムリミットになった煙草の自販機が、つり銭をジャラジャラと落とす音が響く。
「……良かったんじゃん?」
向き合ったままのドリンクの自販機に、再び硬貨を押し込みながらぼそりと言った。紫乃が目を瞬く。
「何?」
「うまくいってもいかなくても、良い恋愛が出来るのは良いことです」
少し迷って、適当にボタンを押す。以前ロビーで紫乃がテーブルの上に置いていた缶コーヒーの銘柄を思い出して、そのボタンを選択した。
「……うん」
「出会えたことに感謝出来るなら、好きになったことを後悔はしないでしょ」
ごとん、と重たい音がして缶が転がり落ちてきた。屈み込んでそれを取り出す。
「それだけでも、幸せじゃあないですか?」
「……うんッ……」
くしゃりと歪みかけた紫乃のおでこに、差し出した缶をこつんとぶつけた。
「偉かった紫乃にご褒美。安くて悪いね」
泣きかけた顔が、笑顔に変わる。
その笑顔に、ほんの少しでも自分の言葉が、紫乃を立ち直らせる手助けになればと思う気持ちは本心だ。
けれど、その場限りの『恋愛ゲーム』で耳障りの良い言葉ばかりを身につけている一矢には、これ以上言葉を見つけてやれない。
一矢のどこかぶっきらぼうな言葉に、紫乃が缶を受け取りながら笑顔のままで礼を言った。
「……ありがとう」
本当はもっと……心にちゃんと届く言葉を、見つけてやりたいのに……。