第5話(3)
「そうなの?」
「そりゃあ……同じトコばっかりでやっててもしょうがないっしょ?ある程度客つかめたかなって思ったら、他の地域とかも掴んでかなきゃ」
そっかぁ……と京子がしみじみと感心したように呟くので、思わず笑う。感心されるほどのことはしていないのだが。
「わたしたち、ほら、アマチュアで自分たちでやってきてないから……そういう、当たり前のことを知らなくて」
「いいんじゃない?それぞれだよ」
優しく笑ってやると、京子もほっとしたように一矢を見上げて笑みを覗かせた。それから、また、迷うような目つきをする。
(……?)
何か言いたいことがあるのだろう。何となくそう言う様子である。
「あのね」
「? うん」
やがて、京子は口を開きながら、一矢を見上げた。
「今度ね、Opheriaで、ファンクラブの人相手にライブをやるの」
「へえ。いいね」
「そんなにたくさんお客さんが来るわけじゃあ、全然ないんだけど……」
「俺らからすれば、ワンマンってだけで立派なもんだよ。アマでやってりゃワンマンを1回やるんだってしんどい」
「そう?」
「そう。……んで?」
「それでね……」
あ、あ、遊びに来ないかなあって思ったんだけど、と京子は早口で俯きながら言った。言いたかったのはこれらしい。Opheriaのライブのお誘いだ。
「呼んでくれるの?」
「うん、あの、もし良かったらなんだけど」
どうしようかなあと内心思いつつ、笑顔を向ける。にーっこりと笑ってみせながら、調子の良い言葉を舌に乗せた。
「京子が誘ってくれるなら、行くよ」
「そ、そう?」
「当たり前じゃん。凄い嬉しいよ」
「本当?」
一矢の言葉に、京子が嬉しそうな顔をした。それを見て「まあいーか」と言う気がしてくる。
別に、京子に限って深く考える必要はないのではないか。逆に言えば、どうしてそれほど京子に対してだけいろいろ気にしなければならないのか。
得意なタイプではないから四六時中一緒にいられるかと言えば無理があるが、自分に好意を持っているようだと思えば嬉しいし、それを可愛いと思うものは思うのだ。それが、目の前からいなくなれば忘れてしまう程度のものだとしても、それは別に京子にだけじゃない。自分から何かアプローチするほどの好意はないけれど、京子からアクションがあってそれを拒絶するほど嫌いなわけじゃない。
「うん」
「じゃあ……あの、夜とか、電話、しても良い?」
軽いと言われれば認めるが、別にこちらは騙しているわけではない。好きだの付き合おうだのと言う種類の言葉は、一度たりとも口にしていないし、これからもしないだろう。流れの中で多少口説き文句に近い言葉が出たとしても、そんなものは『オトナの挨拶』の一環だ。それを見抜けないなら、見抜けない方が悪い。ずるくて結構だ。積極的にこちらから何もしなくても、こうして京子の方からアクションが来る。それは彼女が一矢に興味を持っている証拠で、別にこちらのせいではない。
「もちろん」
虚構に満ちた一矢のにこやかな回答に、京子は、顔を輝かせて安堵の息を落とした。
◆ ◇ ◆
一矢の住む部屋は、照明にタイマーを仕掛けることが出来る。
19時を過ぎると、自動的にリビングに照明が灯るように設定をされていて、そうそう早い時間に部屋に帰ることなどない一矢が灯りのついていない時間に家に辿り着くことは、まずない。帰らない日も少なくないので、朝6時には、今度は逆に自動的に照明が落ちる。
だが、久々に19時より前……18時を過ぎた頃に自分の部屋のドアの前に立って、気が滅入った。
ドアを開けて、中に入る。闇が自分を包み、そのまま取り込まれそうな錯覚を起こす。
やはり、適当に時間を潰してから帰ってくれば良かった。
2月に入って、寒い日が続いた。吐く息はどこまでも白く、誰もいない部屋の、しんとした冷えた空気はとことん気が滅入る。慣れることが、出来なかった。
とは言え、いつまでも玄関口で佇んでいても仕方がない。ともかくも灯りをつけながら靴を脱いで中に入る。暗くて冷え切った部屋は冷蔵庫のようだ。
ひとりで住むには広すぎる3LDK。別に、広い部屋が欲しかったわけじゃない。高額を搾り取ってやろうと思えば、都心の広い部屋になるしかなかっただけだ。けれどそうして選んだ広い部屋は、却って孤独を反映させるだけだった。
ダークブラウンのフローリングのリビングに入る。ダークブルーのフェイクレザーのソファと、洒落たガラスのローテーブル。その辺りの床だけを覆っているスモークホワイトのカーペット。テレビとテレビボード、コンポとCDラック。
いつ見ても、生活感のない部屋だと思う。温かみがない、帰ってきた気がしない。インテリア雑誌のイミテーションよりもタチが悪かった。
大きく取られた窓からは、渋谷の街が見える。駅から明治通りを上がって1本裏に入った場所にある一矢の部屋からは、駅周辺の煌々とした灯りとマンション周辺の閑静と言える闇のコントラストがはっきり見て取れる。
ブラインドを下ろそうとして、何となく目を留めた。そのままぼんやりと、夜景を見下ろす。
――楽しいと思うなー。おうちに帰ると必ず誰か人がいるとかって。
目を細めてウェディングドレスに見入る、紫乃の声が耳に蘇った。
(家に帰ったら、か)
例えば家に帰ったら、紫乃がいたら、どうなのだろう。
ふとそんなことを考えてしまって、つい、ひとりで吹き出してしまった。
自分と紫乃なら、帰った瞬間に言い合いでも始まるのだろうか。思うことをぽんぽんと口にしそうで、どうやら自分はそんな紫乃に対してムキになる傾向がある。考えてみれば不思議なものだ。女の子の我侭ににこにこ付き合うのは慣れている。多少のことならいちいちムキになどなるはずがないのに。
(女だと思ってないからだろ)
そう結論付けてブラインドを下ろす。そう、女の子のどんな我侭にもにこにこと付き合ってやれるのは、それを含めて『恋愛のゲーム』をしている最中だと認識しているからだ。相手の意向を汲み取ってやって、相手の小さな満足を積み重ねてやって、最終的にこちらの満足のいく結果に持ち込む。どちらにしても、この先もずっと付き合う相手のわけではないのだから、その場限りで我慢してやることなど何でもない。相手だってそれをわかっているから、ゲームのゴールに辿り着く前に、本当の彼氏などには到底言わないだろう我侭を言う。フィフティ・フィフティだ。
けれど、紫乃に対して『恋愛のゲーム』をしようと言うつもりが一矢にはない。元々扱いにくそうだと思うものを、邪な意図で何かを我慢してやる筋合いじゃないし、ぼこぼこにされるのが目に見えている。それに……。
――どうしても、好きなの……
(……)
押し殺しきれない切なさを零す、紫乃の泣き顔が過ぎる。
如月を想ってあれほど傷ついている紫乃に、妙なちょっかいをかける気にはなれないではないか。
複雑になった胸中を隅っこに押しやって、軽く頭を振る。別に一矢が心配してやるようなことではない。あの日、たまたま自分が遭遇してしまっただけのことで、紫乃が自分で立ち直るべきことなのだから、どうにもしてやれない。
そう思いながら、着たままだったジャケットをハンガーに掛けようと脱いでいると、電話が鳴った。携帯ではない。家の電話だ。
「はい」
珍しい。だらしなくジャケットを脱ぎかけたままで受話器に手を伸ばすと、今時貴重なことに、硬貨を使って公衆電話からかけた時の『ブー』と言う音が聞こえた。目を瞬く。
「あ、もしもしー?一矢くんー?」
誰かと思えば、電話口から流れてきたのは従妹の晴美の声だった。晴美は携帯電話を持っていない。ついでに言えば一矢の携帯電話の番号も知らない。だからか、と納得して返事を返す。
「うん。どした?」
「今から一矢くん家、行って良い?」
「……構わんけど、何よ?あんたん中で最近家出が流行ってんの?」
「今ねぇ、渋谷の駅前だから、もうすぐつくからね」
そう言って電話を切った晴美は、それから間もなく、本当にすぐに一矢のマンションに到着した。チャイムに応じてマンションのロック、それから部屋の鍵を開けてやると、入ってきた晴美の姿を見て、一矢は思わず床に崩れた。どいつもこいつも気軽に家出などしてくれるな、である。
「……晴美ちゃん」
「何?」
「……俺ん家、『青少年憩いの場』ではないんですけど」
「何それ」
「家出少女保護センターじゃねえっつってんのッ」
玄関で晴美の侵入を阻む一矢を押しのけて勝手に部屋に入り込んだ晴美は、手に大きな旅行バッグを持っていた。これは何だか前回と違い、本気でしばらくここに居座ろうとしているように見えて怖い。
「はーるーみー」
仕方なく玄関の施錠をしてその後に続く。勝手にリビングに足を踏み入れた晴美は、荷物を床に下ろすと、今さっき一矢が下ろしたばかりのブラインドをがーっと開けた。
「何」
「うんうん。いーねー」
「は?」
「この前来て思ったの。あたし、しばらく一矢くん家から学校に通う」
「はあ!?馬鹿、何勝手に決めてんだよ」
目を剥く一矢に、晴美はびしっと腰に両手を当てて威張るように一矢を見上げた。
「だって一矢くん家って、ドラマに出てくるみたいなんだもんー。晴美もこんな家に住みたい」
「……そういう安易な理由で転がり込むのはやめていただけません?」
「いいの」
良くない。
「俺が秋菜に殺されるんですけど」
「秋菜ちゃんなんか知らない。おじさんのこと、悪く言ってばかりだもの」
「……」
おじさん、とは、一矢の父親元春のことだろう。今、秋菜と晴美が母親と暮らす家には、父親同然として元春が生活している。一矢と秋菜の折り合いが悪いのはそのせいだ。秋菜はこの複雑な環境に反発を覚えている。
一矢のせいではないとは言え、元春が家にいることを拒絶し続けている秋菜はその息子の一矢も嫌っていると言うわけだ。それに対して兄の朋久はそれほど子供ではないし、晴美は元春が家に来た頃、まだ小学生だったこともあって、見ず知らずの他人が新しく父親になるより遥かに簡単に元春を受け入れた。元々従兄妹同士なのだから一矢にもそこそこ懐いているし、晴美にしてみれば家の中の空気が不穏になる原因は常に秋菜の心無い反発にある。
普段は仲の良い姉妹だが、このことになるととことん2人とも、折れない。
一矢にしてみれば、秋菜の気持ちの方が良くわかると言うものだが。
「それは……しゃーないんじゃあないですか?」
窓際にへばりついて夜景に見入る晴美の為に、部屋の照明を少し落としてやる。生活感がない部屋であることも手伝っていささかムーディな雰囲気になるが、中学生の従妹相手に何が起きようはずもない。
「何でぇ?」
「だって……自分の父親じゃない人間が父親の顔して家にいたら腹も立つでしょ」
「元々身内じゃないのよー。おじさんは優しいよ。晴美は見ず知らずのおじさんが新しく来るより全然いい」
「……ああそう……」
元春が家に来たのは、秋菜が中学3年生の冬頃だろう。その頃一矢は家を出てまさしく放蕩生活を送っていたので良くは知らないが、最も多感な時期にそんな滅茶苦茶なことがあれば印象は悪くて仕方がない。
「そんで、何で家出してるわけ、今回は」
呆れたような諦めたような気分で、床にすとんと座り込む。渋谷の夜景に見入っていた晴美は、顔だけくるんと振り返った。
「晴美がいなければ、秋菜ちゃんも少しはおじさんと仲良くせざるを得ないかと思って」
「……お構いなしだと思うがね、俺は」
あれほどつんけんしている女が、その程度の理由で元春と仲良くしようとするとは思えない。晴美がいなければいないで、完全にシカトするのがオチだろう。
「かーちゃんには言って来たか?」
「うん」
「……何て言ってきたの」
「一矢くん家がかっこいいからしばらく住みたいって」
「……」
一矢にとっては居心地の悪い部屋も、晴美にしてみれば『テレビドラマ』らしい。自分のテリトリーである部屋に女の子を入れても良いと思えることが余りないので滅多に出番はないが、時に女の子を口説く小道具でもあるこの部屋は、確かにシンプルでクールではあるだろう。中学生の女の子からすれば、ファッショナブルなのかもしれないが。
「……俺の諸事情は?」
「何?俺のショジジョウって」
「俺には俺の都合があるでしょ?俺、帰って来ないことなんかしょっちゅうあるよ?」
「何してるの?」
「……」
自分の行動パターンを説明するのは、少々晴美の教育上宜しくないような気がする。勢い、返す言葉に詰まる。
「……オシゴト」
「仕事で帰って来ないの?」
「こともあるの。大体俺、来週からずっといないよ」
「どうして?」
「地方に行っちゃうから」
「じゃあ晴美のひとり暮らしだね」
ああ言えばこう言う。この年頃の女の子は何て扱いにくいのだろう。
「……いつまでいる気」
「飽きるまで」
「ふーざーけーんーなー……」
ぼやきながら、携帯電話を取り出す。呼び出した番号は朋久だ。晴美の家に電話をする気になれない一矢が救援を求められるのは、朋久しかいない。
「一矢?」
数回のコールが途切れて、朋久の落ち着いた低い声が返る。思わず盛大なため息で応えた。
「……何だよ、いきなり」
「晴美が押しかけて動かない」
「え?」
「俺ん家に居座るって言ってますけどー」
事情を語ると、朋久は静かに聞いていたがやがて吹き出した。
「ああ……そりゃ大変だね」
「思いっきり他人事的な感想をいただいているみたいなんですが」
「うん。俺には頑張ってねとしか言ってあげられない」
「……連れて帰るとか家に連絡して怒らせるとか、何かないの?」
「本人が動く気がなくて、ウチの母親に言ってったんだろ?もうどうしようもないじゃないか」
「どうにかして下さい」
そのうち飽きるよ、と朋久は流す姿勢に入った。
「母親も、晴美が一矢に懐いてるのは嬉しいんだよ」
「軽く迷惑です」
「秋菜があんなだからね……晴美だけでも受け入れてくれるのが嬉しいから、あまりきつく言えないんだろう」
「……」
そう言われると、余り強くは言えないではないか。べったりと窓に張り付いている晴美の背中に視線を戻してため息をつく。
「どうなっても知らないからね、俺……」
「……まだウチの妹は中学生だから、あんまり妙なことをされると困るんだけど……」
「そういう意味じゃないわッッ」
思い切り怒鳴ってやると、朋久はくすくすと笑った。それから、さらりと言う。
「一矢も、たまには良いんじゃないか。同居人がいるって言うのも」
「え?」
「品行方正にならざるを得ないだろう?」
「……」
「晴美にあんまり悪影響を与える生活をしないようにね」
「……わかりました」
救いの手を差し伸べてくれそうにない朋久との通話を切って、改めてため息を落とす。可愛い従妹を追い出すことは、どうやら出来そうにない。
「トモ兄?」
「そう」
「何だって?」
「よろしくされちゃいましたけど」
一矢の返答に、晴美はにこっと相好を崩してまた夜景に戻った。
ものは、考えようだ。
朋久の言う通り、たまには悪くないだろう。
家に帰ると誰かがいる生活、と言うものをここしばらくしていない――晴美は確かに、一矢の『身内』と呼べる距離にいる人間では、あるのだから。
「……晴美、メシ食った?」
「食ってなーい」
「んじゃあ俺が何か作ってしんぜよう」
「やったー」
半ば諦めた気分で立ち上がる一矢の言葉に、晴美は、まるで子犬のように満面の笑みで飛び跳ねた。