第5話(2)
どうしたのだろう。紫乃が電話を寄越すなど、考えてもいなかった。
「何かご用?番号、どした?」
「啓一郎くんから略奪しました」
「ああ……会ったん?」
「うん。事務所で。何か獰猛な顔つきしてたけど」
紫乃の言い方に笑った。
「ひとりで多忙だから」
「……助け合おうよ」
「俺がやれることならやっとりますがねえ……」
ヴォーカルの宿命だと思って諦めていただくしかない。
「んで、今、平気?」
「ん?うん。何?」
「この前のさ、お礼、言おうと思ったからさ」
この前のお礼……事務所の駐車場で号泣していた紫乃の話を聞いてやったことだろうか。あの後、一矢は、泣きやんだ紫乃を家まで送ってやった。
「ありがとね」
「律儀やのー。まあせいぜい俺の存在のありがたさを噛みしめてくれたまえ」
「……ごめん、そこまでじゃない」
呆れたような紫乃の回答にくすくす笑う。あの時は実際、終始らしくないほど頼りなく見えて、少し気になった。少しは元気を取り戻しただろうか。
「んで?少しは立ち直ったんか?」
「……うん」
答える声は、微かにトーンが落ちる。それはさすがに仕方がないだろう。1日や2日でころっと元気になれるくらいなら、あれほど号泣しはしまい。
そう思いながら、その場にしゃがみこむ。
「立ち直るしか、ないから」
「……まあね」
「心配してくれたんだ?ありがとう」
「……」
素直に、また礼を言われて妙に照れ臭くなった。誤魔化すように伸び気味の前髪に片手を突っ込んで、かきあげる。
「べっつにぃ。ほら、せっかく男らしいんだから、もったいないじゃん?」
「……凄い、褒めてないよね?」
「現実って怖いよね……」
しみじみと言ってやると、紫乃が電話口でまた唸るのが聞こえた。ぐるぐる言っている。
「どうして素直にお礼の言葉を受け取らないかな」
「まあ、何かあったら愚痴のひとつなら聞いてやらんでもないよ」
「……ひとつなの?普通は『ひとつでも』とか言わない?」
「ひとつにつき料金は後日請求」
「じゃあ聞いていらない、別に」
一矢の軽口に、声のトーンが戻ったのを聞いて、小さく微笑んだ。元気な姿が、らしいような気がする。
「そんじゃあ、お礼の言葉なら確かにいただきました」
「うん。じゃあ、それだけだから」
「はいはい」
「またね」
そうあっさりと電話を切ると、少しの間、一矢はそこにしゃがみこんだままで、閉じたばかりの携帯を手の中で弄んだ。弄びながら、先日見たBlowin'のウェブサイトを記憶に蘇らせる。
少しだけ、奇妙な感じだった。
ファンだと言うだけなら、良くある話だ。
けれど、ファンではなく恋愛――紫乃が「振られた」と言って泣いていた相手が、企業の立ち上げる公式ウェブサイトを持っていて、全国にファンを持つ人間だと言うことが、感覚としてどこか妙だ。
紫乃があれほど想う相手が如月だと知って何となく調べただけだが、バイオグラフィーやディスコグラフィーなどをふらふらと見ながら複雑な気持ちになったのは否定出来ない。なぜか、調べなければ良かった、と言う気がした。
携帯をポケットにしまいながら、立ち上がる。階段を下りて中に戻るところで、明弘の声が聞こえた。
「ビョーキだけはもらってくるなよー」
「うん」
ちょうど笑子とすれ違う。通れるように通路をあけてやりながら、思わず声をかけた。
「あれ?帰るの?」
「うん」
「明弘置いてくの?」
「うん。じゃあね」
「あ、ばいばーい」
その背中をつい見送ってから中に戻ると、まだ友子たちのバンドが練習をしているのを、カウンターに肘をついたままの明弘がぼけっと暇そうに眺めていた。
「笑子さん、帰っちゃったけど」
「デートだよ」
「……ごめん、言ってる意味が俺、わかんなかったみたい」
『彼氏』がここにいて、『彼女』が誰とデートすると言うのか。
頭を悩ませながら先ほどいた場所に戻って、カウンターに寄りかかる。ステージの方へ視線を向ける一矢の背中に、明弘が繰り返した。
「だからオトコとデートだっつってんの」
「……んで、どうしてそれを彼氏は黙って見送ってんの?」
「行きてーんだから、行かしときゃいーんじゃねえの?止める理由がねえじゃん、別に」
「……普通はあるでしょ?」
背中を預けたカウンターに両肘を乗せながら、カウンターの内側にいる明弘を顔だけでちらりと振り返る。
「複雑なカップルやね、あんたらも」
「そうか?単純だろ。俺が下僕」
「下僕……こんな我侭放題な下僕もいないやな……」
我が強くて自己主張を憚らない明弘は、笑子に対しても誰に対するのと同じように言いたい放題やっているように見える。媚びもしなければおもねりもしない。口も悪ければ態度も悪い。一見すれば、遊び回ってばかりいる明弘の方がじっと耐える笑子を泣かせているようにさえ見える。けれど内実、そうではないと言うことか。
「よく怒らないよねー、明弘も」
先ほど一矢がいた時の会話も、笑子が明弘の交友関係の誰か男を自分と会わせろと言っているように聞こえた。ふざけているとしか思えない。
再びステージに目を戻しながら言うと、明弘が鼻を鳴らすのが聞こえた。それから、低く答える声。
「あいつは、やりたいようにやらせてやんないと、駄目なんだよ」
「……そんで明ちゃんは我慢してんの?」
「してねぇよ?別に」
「じゃあ他の人と何しててもいーわけ?」
「いーわけねぇだろ。目の当たりにしたら叩き殺すよ」
目の当たりにする機会はそうはないだろう。
「俺が本当にキレるような真似はしてないと思うしかない」
「信じてるんだ」
「……信じてるわけ、ねぇだろ。信じられるかよ。だけど考えたって不愉快になるだけじゃねーか。したいようにさせて、後は考えてもしょうがねぇから考えない。何してるんだとしたって、どうしてるんだとしたって、惚れてんのがこっちなんだから許すしかない。どうでも良いって思う以外に、ねーじゃんよ」
「……」
「本当に許せないことがあれば、俺だってキレるさ。だけどこっちからつつき回ってわざわざキレる必要もねぇだろ」
明弘の口調は、本当にどうでも良いことだと思っているかのようだった。……いや、『どうでも良い』わけではないのだろう。自分のそばからいなくなる、その苦痛と比べれば飲み込める――飲み込むだけの価値が、笑子は明弘にとっては、あると言うことなのだろう。
「あいつがいなくなって困んのは、あいつじゃない、俺なんだよ。どこまで許せる範囲を広げられるか、やれるとこまでやるしかねぇじゃん」
ちらりと振り返ると、明弘はステージに視線を向けてどこか不機嫌そうに、諦めているように、頬杖をついたままの悟ったような目つきで、ため息混じりに吐き出した。
「負け、って、最初っから決まってんだよ」
「……」
「恋愛なんか、惚れてる方が、負けなんだ」
◆ ◇ ◆
地方ライブをするにあたっていくつか打ち合わせをすると言うことで、事務所に呼び出されたのは1月も残り5日になってからだった。事務所の駐車場に単車を停めて、事務所の方へと足を向けかける。
そこへ、人影が視界の隅で近づいて来るのが見えた。
何となく顔を向けると、かなり小柄な女の子だ。年は一矢よりいくつか下だろうか。高校生くらいに見える。身長も随分と小さい。180を越える一矢と30センチ近くの差がありそうだった。ショートカットにした髪のレイヤーが、耳の辺りでふわふわと揺れている。顔立ちは、どちらかと言えば全体的にやや地味である。
誰だろう。最近どこかで見た気もする。何となく単車のそばで足を止めたままそんなことを思っていると、事務所の中へ続く短い階段を上りかけながら、彼女の方がこちらに顔を向けた。ぼけっと見ている一矢の視線にきょとーんとした表情を浮かべてからにこっと笑う。
「おはよぉございますー」
「あ、おはようございます……」
「寒いですねー」
そう人懐こく笑ってみせるあどけない表情が、妙に可愛らしい。そう思ってから気がついた。Opheriaのヴォーカル、上原飛鳥だ。紫乃に見せられた雑誌の中で見覚えがあったのだと気づいた時には、飛鳥は建物の中に姿を消していた。
(ふうん。あのコかあー)
実物は、写真で見るより随分と子供っぽい。加えて言えば、平凡と言える。けれど、にこーっと笑った素直な笑顔が印象良く残った。
飛鳥に続いて一矢も事務所に入る。階段を上がってしまったのか飛鳥の姿は既になく、代わりに啓一郎がロビーのソファに沈み込むようにしていた。半寝に近い状態である。
「……こんなとこで何しとんの」
近づいてこつんと頭を軽く小突くと、啓一郎は眠そうな目を向けた。
「おー……一矢ー……はよー……」
どことなくぼんやりしたまま、啓一郎が真上を仰ぐような姿勢で、背もたれの背後に立つ一矢を見上げた。
「バイト明けー」
啓一郎は渋谷の駅前にある居酒屋でアルバイトをしている。多分、閉店する朝5時まで働いていたのだろう。
「そりゃあお疲れさん」
「打ち合わせの間、寝てても良い?俺」
「……俺がいーよと言ってあげたところで、さーちゃんや広田さんが認めてくれるかは責任が持てない」
一矢の返答に啓一郎ははあっと大きくため息をついた。「食っていけんのかなあ……」とぼやく。
「だって悲惨だよ?バイト出来る時間は相当減んのに減った分の給料ほどには補われねーもん」
「でも補ってくれるだけ、ましなんじゃあないですか?」
「それはわかってるけどね。別に最低限だけ何とかなりゃあ、俺はそれでいーんだけどさ……」
事務所内、しかも事務室前のロビーなのでぼそぼそと小声でぼやきに似た会話を交わす。
「んで、何でこんなとこいんの?会議室は入れないの?……って言うか、どこだっけ、今日」
「さっき確認したら、あの……」
ソファの前のローテーブルに放り出してあった煙草に手を伸ばして咥えながら、啓一郎の顎が事務室の奥を指す。
「奥の会議室」
「あそう」
「まだ誰も来てねーし、会議室入ると本気で寝ちゃいそうだったから、ちょい寒いこっちで目覚まし」
「……目覚まされてませんでしたけど」
「半分くらいは起きてたろ」
つられてそのままロビーで煙草を咥えながら、きょろっと辺りを見回した。啓一郎に尋ねてみる。
「さっきさ、俺の前に『飛鳥ちゃん』、入って来なかった?」
「『アスカチャン』?」
「Opheriaのヴォーカル」
「わかんないけど、誰か通って挨拶をしたような気もする」
記憶喪失かいと突っ込みたくなるようなことを啓一郎が言うのを聞きながら、その言葉でふと気がついた。
飛鳥がいる――Opheriaが事務所に来ていると言うことは、京子も来ているのだろうか。
一矢がそんなふうに思ったのを読んだかのように、事務所の扉が開いて冷たい風が流れ込んできた。振り返る。
「あ」
「あ」
咄嗟に、短い呟きが漏れた。相手も同様だ。まさしく、京子が他の女の子と2人で連れ立って中に入ってくるところだった。目が合う。
「おはよー」
「お、おはよ」
「おはよーざいまーす」
京子と一緒に入ってきたコは、良く知らない。多分メンバーの誰かなのだろう。当たり障りのない笑顔を向けて挨拶を投げかける一矢に、京子は端から見てもわかるほどに赤くなって小声で挨拶を返した。
(……)
何か勘付いたのか、ソファの肘掛に頬杖をついた啓一郎がしらっとした顔で一矢を見ている。何となく無言でそれを見下ろしている一矢の後ろを通り過ぎかけた京子は、こちらから見ても意識しまくっているのがわかった。こうも男として意識されるのは、悪い気分ではない。
栗色の髪の女の子と階段に向かう京子の背中を何となく見送っていると、階段の下で京子が立ち止まった。こちらを振り返る。何かを迷うような仕草で一矢を見つめると、赤い顔のまま顔を逸らした。再び階段に向き直って、それから連れの女の子に声をかけると、改めてこちらに向き直る。
「あの」
もうひとりの女の子は、小さく首を傾げながら階段を上っていった。京子がちらちらとソファの啓一郎を気にしながら、一矢に向かって呼びかける。
「んーじゃあ俺、会議室入ってるわ」
一応気を使って、啓一郎が立ち上がった。煙草を灰皿に放り込んで、両手をジーンズのポケットに引っ掛けると、そのまま会議室の方へ歩いていく。
「うん」
返事を返しながら京子にまた顔を向けると、同じように啓一郎の背中を見送っていた京子がまたこちらに顔を向けた。まだ何かを迷うような様子をしているので、一矢も煙草を灰皿に放り込んでそちらに向かって足を向ける。
「どぉも。何か久しぶりな感じ」
「う、う、うん」
真っ赤になって俯いてしまう京子に、思わず小さな笑みが漏れた。全く、本当に純情だ。その様子が可愛くないと言えば嘘にはなる。
京子の様子は、どう差し引いて見ても一矢を意識しているとしか思えない。こういう態度が、こちらを付け上がらせているだけと言うことに気づいていないのだろう。反省をしたのに、また軽い気持ちでちょっかいをかけてみたくなる。人の好意が透けて見えるのは、素直に嬉しい。
「どぉしたの?」
「あのね、ご、ご、ごちそうさまでしたって……お、お礼言おうと思ってて」
「ああ……そんないいのに」
どちらかと言えばこちらのセリフである。
「京子ちゃん、ロンドン行ってたんだって?」
人懐こい笑みを顔に浮かべながら小首を傾げる一矢に、京子は赤らんだ顔のままで顔を上げた。
「連絡しようと思ったら、そう聞いたから」
我ながら困った口だ。京子があの直後、日本にいなかったと知ってほっとしたその理由を、逆手にとって連絡を取らなかった理由に繋げている。一矢の言葉を聞いて、京子の顔に明らかに安堵が浮かび上がった。
「うん……PVの撮影が、あって」
「凄いな。いいね、ロンドンで撮影」
目を丸くして肩をひょこんと上げて見せると、京子は恥ずかしげな色を覗かせたままで微笑んだ。
「うん……わたし、海外に行くのが初めてで……緊張、した」
「俺も海外って行ったことないなー。旅行ってバンドで遠征するくらいしか、あんまり行かない」
京子が驚いたように目を丸くした。
「え、バンドで?ツアー?」
「ツアーと言えばそうなんだろうけど……自分らでさ。事務所入る前に」
「自分たちで?そんなこと、するの?」
京子が疑問に思っている理由がわからずに、一矢は目を瞬きながら頷いた。
「そうだけど……変?」
「あ、ううん、凄いなって思って」
「凄い?」
「そういうこと、やるんだ。自分たちで、住んでるところ以外に行ってライブやったりとか」
「うん……プロ目指してる奴らならみんなやってると思うけど……」