第4話(3)
けれど、望まぬ形で10代からひとりを強いられてしまった一矢からすれば、それさえも愛情の形のひとつに過ぎないと映ってしまう。口うるさく言うのは、子供に対する愛情があるからだ。反発する時期には気がつかない親からの愛情を、いずれ子供は省みることになる。そう感じる。
愛情がなくなれば、親さえも見捨てるのだから。
「……そうだね」
紫乃の言葉がわかる気がして言葉が掠れる一矢に、紫乃が罪のない笑みを向けた。
「え〜?18万もするマンションに住んでる神田くんにはわかんないでしょー」
「22万」
「え?」
「家賃。22万れす」
「げぇ。もっとひどい」
笑みを作りながらちらりと見下ろすと、紫乃はくすくすと楽しそうに笑っていた。怒ってばかりいる印象があるので、楽しそうな様子を自分の前で見せてくれるのはもしかすると初めてじゃないだろうかと言う気がする。少しだけ、嬉しい。
「そーんなゴージャスなマンションに住めるような放蕩息子、寂しい思いなんかしたことないでしょー」
「……はは。そんなこたぁございませんけろー」
作り笑顔が苦くならないよう、苦労した。愛情と引き換えた部屋だとは語る気になれない。語ったところで仕方がない。自分の薄暗い背景について他人に話すのは好きではなかった。武人でさえ知らないのだ。知っているのは明弘と啓一郎だけである。不幸自慢をして下がる類の溜飲など、後で自己嫌悪を引き起こすだけだ。
「ところでさぁ」
その辺りを突っ込まれる前に、一矢は意図的に話題を転換した。やや強引に捻じ曲げたが、紫乃は大して頓着なくくりっとした目を上げた。
「うん?」
「紫乃って、如月さんと何かあるの?」
「……っっっっはあ!?」
何気なく口にした言葉に、一瞬言葉に詰まった紫乃が思い切り怒鳴るように問い返す。今までさりげない顔をしていたものが、一挙に顔色が赤くなった。答えが一目瞭然で大変にわかりやすい。
「……ああそう。わかった」
「なななな何がッ」
「いや別に……」
しらっと答えながらふうん、と思う。如月――如月彗介のそっけない顔を思い出しながら、意味もなくドレスに目を戻した。
先日、紫乃とロビーで話していた時に、紫乃が逃亡を図った後、階段を下りてきた人物である。
人にわめくだけわめいて紫乃が逃げるように事務所を出て行った後、一矢が呆れたような気分でソファにずるーっと深く沈みこんでいると、2階のスタジオから出てきた如月が階段を下りてきた。それを見て、その前に聞こえた声が如月のものだったことに気がつく。
さらさらの金髪とクールな印象を与える顔立ち、ラフなその姿は大柄とは言えないにも関わらず、どこか人に威圧感を与えるような気がする。それともそれはこちらの勝手なイメージだろうか。
如月は同じ事務所に所属するBlowin'のギタリストで、ソウルやR&Bもしくはクラブ音楽を好む一矢の好みからはいささか路線が逸れる為に楽曲そのものを良く知っているわけではないけれど、知る限りではインディーズっぽいハードな、いわゆるロックっぽいバンドだと言う印象がある。男性の支持も高く、荒っぽいそのバンドのイメージから如月に対する印象もどこか怖いものになっているのかもしれない。それなりに売れているバンドだからメディアなどで以前から良く見かける割に、如月の笑顔を一度たりとも見たことがないと言うのも多分拍車をかけている。
如月は、ソファに崩れたままの一矢の存在には気がつかないで何だかぼーっと事務所を出て行った。思わず挨拶をしそびれながらその後ろ姿を目線で追いつつ、紫乃が突如血相を変えて出て行ったのは如月の存在に気がついたからではないだろうかと言う気がした。
だから何だ、と言う話ではあるが。
「如月さんねぇ……」
「……だから何がよ」
「だってこないだ、逃げたよね?」
「逃げてませんけどッッッ」
明らかに逃げただろう。
冷静に思い返せば、紫乃が急変したのは如月の声が頭上から降ってきた後なのだから。
赤くなったまま一矢の視線を避けるようにそっぽを向く紫乃に、一矢は軽く肩を竦めた。人のことばかりがたがた言っている『近所のオバチャン』かと思っていたが、意外と21歳の女の子らしく真っ当に恋愛のひとつでもしているようだ。ぴしっと無意味に紫乃の頭を指先で弾いた。
「あいたッ」
「ま、ステキなおヨメさんになれるように頑張ってね〜ん」
言いながら、トンっと後退する。からかうようににやーっと笑う一矢に、紫乃が不貞腐れたような表情を浮かべた。
「別にッ……」
「ほんじゃあね」
そのまま数歩後退して、ひらっと片手を振ると踵を返す。
(家族が出来る、か……)
紫乃の言葉が、耳に残る。
嶋村家の方向に再び歩き出しながら、一矢は無意識に、ドレスに見入っていた紫乃の横顔を胸の内で反芻させた。
――紫乃が号泣している場面に遭遇してしまうのは、それから僅か数日後のことだった。
◆ ◇ ◆
「一矢くん、このまま真っ直ぐ帰る?」
「あー……帰るけどー……俺、事務所に単車が置き去り」
「ああ、そうか。じゃあ事務所行っちゃって良いよね」
佐山の言葉に頷きながら、事務所の車の、助手席のドアを開けて乗り込む。
「しっかしあーゆーのって見る人いんのかなぁ」
「いるから成り立ってるんでしょ?ドラムの人とか見るんじゃないの?」
「俺は存在さえ知りましぇんれしたけろ」
「情報社会なんだからネットとかもっと活用しなよ」
Grand Crossはメンバーのうち2人が学生――しかも、ひとりは未だ高校生である。その都合上と言うか、ただの成り行きと言うか、バンドの顔であるヴォーカリスト啓一郎が膨大な仕事を押し付けられているが、そうは言っても啓一郎と同じく身軽な状態の一矢に仕事が回って来ないわけがない。
今のように音楽で一本立ちしているわけではない手前、そうしょっちゅうメンバーが揃いも揃って都合がつくわけでもないので、ばらばらで仕事を請けると言うことが間々ある。啓一郎が麻布の方でラジオゲストに出ている今、一矢は一矢で、マイナーなドラム専門サイトのコメント撮りに拉致されていた。和希はGrand Crossのサポートをしてくれると言うインディーズレーベル、ロードランナーとの打ち合わせに行っていると聞いている。武人は学校だ。
Grand Crossは4人のメンバーを、現在佐山がひとりでサポートしている。一矢が終了したのでこの後啓一郎のいる麻布と和希のいる恵比寿とを走り回ることになるのだろう。ご苦労様である。
「さーちゃん、この後どっち行くの?」
「とりあえず啓一郎くんの収録がそろそろ始まるはずだからそっち行って……あ、一矢くんも見に行く?」
「行かない」
「……薄情だなあ」
収録が始まったばかりでメンバーが到着してしまえば「駆けつけてくれました」だの何だのと言われてそのまま同席させられるに決まっている。
「さーちゃん、麻布直行しちゃっても良いよ?俺、別に電車で事務所行くし」
「いや、いーよ。そんなに回り道になるわけじゃないし」
2月の2週目に入った辺りから、地方遠征が開始される。その前に東京でやれるプロモーションはやってしまえとでも言うのか、何やらこのところ、小さな仕事に啓一郎は引き摺りまわされているようだ。
とは言ってもデビュー前、もちろん大手の雑誌だのラジオだのに出させてもらえるわけもない。フリー冊子や新人を取り扱っているマイナー誌、佐山の繋がりで略奪してきた地方ラジオなどである。それでも啓一郎は記事やウェブに掲載する文章を書かされたり、写真を撮られたりと、半ば逆上寸前だ。それぞれがそれなりに分担をしてはいても、どうしてもヴォーカルやバンマスに負担がいってしまうのは需要を考えれば仕方がないだろう。ヴィジュアル的にも啓一郎や和希を全面に押し出す方が目を惹くに決まっている。
今日はこれで一矢は終了だ。佐山に事務所の前で下ろしてもらい、車が走り去るのを見送ると、一矢は自分の単車を停車してある駐車場へと足を向けた。今はあまり事務所に人がいないのだろうか。駐車されている車は少ない。
事務所の建物のすぐ横に平行してある、広いとは言えない駐車場は影を落として暗かった。正面玄関と裏口の両方から出てくることが出来、右手の壁はずっと事務室や応接室である。その窓から漏れる明かりが駐車場を照らしてはいるけれど、ちらっと中に視線を向けてみれば中にいるのは事務員の女性のみだった。
その姿を横目で見て、先ほど、取材に行く為に事務所に来た時に、Opheriaがつい先日までロンドンに行っていたのだと言う話をちらりと聞いたことを思い出す。何となく気になりながら京子に連絡をしないままだったので、それで少し罪悪感が払拭されつつも、帰ってきたらしい今やはり今後の課題であることに違いはないようだ。が、「意外とこのままもありか?」と言う楽天的な気分になって来てもいる。大体再来週からはGrand Crossがそもそもそれどころではない。
一矢の単車は裏口から出てすぐ、駐車場の最も奥に駐車してある。手の中で単車のキーを鳴らしつつそんなことを考えながら、駐車場の隅の方にひっそりと停まっている単車に近付き、何気なく顔を上げた一矢は思わずそのままずざっと身を引きながら足を止めた。
(な……?)
単車の陰、裏口から下りてくる階段のところに人影が見えるような気がする。裏口の方はそもそも建物の中があまり明るくないので、建物の陰になっているせいもあって良くは見えないが。
一瞬ぎょっとしたものの、多分人が階段にしゃがみこんで蹲るようにしているのだと認識して、一矢は再び歩き始めた。気味は悪いが、自分の単車がそこにあるのだから近付かないわけにはいかない。誰かの追っかけとかだろうか。ブレインにはBlowin'もさることながら、CRYと言うかなりの大物アーティストが所属している。お目にかかったことはない。
別に声をかけなければならない筋合いはないし、そもそも事務所の真横なのだから、妙なことにはならないだろう。さっさと単車を引っ張り出して行ってしまえば良い、そう思いながらも気にならないわけがない。
視線を人影に定めたまま近付くと、足音かキーの音か、いずれかに反応して人影が微かに身動ぎした。近付いてみると、事務所の僅かな明かりでそれが女性であることが見てとれた。それも……知らない人物ではない。旧知の人間。
「……紫乃?」
単車の横に足を止めて、思わず尋ねる。さらりとした長い髪が、顔を上げるのに合わせて滑り落ちる。
「神田くん……?」
「……はい」
紫乃は、髪の隙間に顔を隠すように控えめに顔を上げた。けれどその声が、明らかに涙声だ。ぎょっとする一矢の視線を避けて、紫乃がまた階段にしゃがみこんだまま、顔を伏せる。
「……何をなさってるんですか」
「……瞑想」
どうやら泣いていることに気づかれたくないようだ。わざと強気なぶっきらぼうな口調で、紫乃が馬鹿なことを言う。こんなところで暗闇に蹲って瞑想をしていたら真実気味が悪い。
「そういう特殊な趣味はおうちでやっていただけません?」
「どこでやろーがあたしの自由でしょ」
「怖いでしょ……」
紫乃の言葉に乗ってやりながら、小さく吐息をついた。このまま去ってってやるのが親切だろうか。そう思いながらもやはり……放っておけないではないか。
少し迷って、単車のキーをポケットにしまう。紫乃の方に足を向け、その前にすとんとしゃがみこんだ。
「……どうした?」
「……」
「帰れと言われれば、帰りますが」
「……」
紫乃は、答えない。いや、答えられないのだろうか。優しく言った一矢の声音に刺激されて、紫乃の肩が小刻みに震えている。涙が溢れ出してしまったようだ。
しばらく紫乃は、声も出せないように、堪えるように、顔を自分の膝に埋めたままで押し殺すように泣いていた。手のつけようがない。一矢も無言でその前にしゃがみこんだまま動けない。
「……駄目だなあ」
しばらくじっとしていると、やがて涙が少し収まったのだろうか。俯いたまま、紫乃がぽつんと言った。涙に濡れた声が堪えた痛みを感じさせる。
「駄目?」
「あたし」
言って、紫乃は何かを振り払うように顔を上げた。涙で潤む大きな瞳は隠せていないけれど、その表情に笑顔を作り上げて、元気な素振りで。
「何が?仕事で何かあったん?」
ともかくも、口を開いてくれたので少しだけほっとしながら、紫乃を見上げる。階段の段差にしゃがみこんでいる紫乃は、駐車場続きの地面にしゃがみこんでいる一矢よりやや高い位置から一矢を見下ろした。
「ううん。……はは。失恋」
「失恋?」
先日の紫乃との会話を思い出す。Blowin'の如月、だろうか。
「あー……駄目だな。泣くなって思っても会っちゃうとまだちょっとなぁ……」
「……振られたの?」
「振られました」
「……ふうん」
また涙腺が刺激されたようだ。くしゃりと崩れそうな顔をふいっとそらして、紫乃はあらぬ方向を困ったように睨みつけながら唇を噛んだ。
「ざまぁみろって思ってる?」
「……どうして俺がそんな歪んだことを考えねばならんの?」
「ぎゃあぎゃあうるさい女だと思ってるから」
「思ってますねぇ……」
しみじみと肯定する一矢に、紫乃が微かに笑ってこちらを蹴る真似をした。
「オマエさんでも泣くんだ、とか失礼なことを考えてます」
「本当に失礼だよそれ……」
「意外に可愛いトコあんじゃん?」
にこっと笑ってやると、紫乃はそれに合わせるように笑みを覗かせた。が、次の瞬間、涙が溢れてしまった。
「……何でそこで泣くかな」
「馬鹿」
短く言って、紫乃はまた自分の膝に顔を埋めた。また収まるのを沈黙して待っていると、紫乃が涙交じりの声を押し出した。
「……ずっと、好きで。もう……1年くらいずっと好きで……仲良くもしてもらったけど、だけど……」
「1年?」
「……うん。でも、本当は駄目だろうなって……それもずっと、わかっては、いたんだけど……」
「……」
この類の話に要領を求めても仕方がない。途切れ途切れの紫乃の言葉に、一矢はぽつんと質問を投げた。
「如月さん?」
「……」
無言を肯定と受け止めて、改めて如月の顔を思い浮かべる。到底一矢とは会話が噛み合いそうにない人物だが、如月が紫乃と仲良くしていたと言うのが不思議な感じでもあった。
「……何で、駄目だろうなって?」
「好きな人、いるんだろうなって思ってたから……」
「ああ……」
「でも、付き合ってたわけじゃないから、あたしは如月さんが好きだから、頑張れるところまでは頑張ろうって……あたしはあたしで頑張らなきゃって……」
「うん……」
「でも、だけど、どうしても駄目で、仲良くなっても、全然近づけなくて……」
「うん……」
「『ごめんな』って……」
かけてやれる言葉が見つけられない。吐き出させてやった方が良いのだろうか。手を伸ばしてその頭に軽く片手を触れる。
「わかってて、諦めてたけど、だけどどうしても好きで、振られた時もいっぱい泣いて……もう、泣くのやめようって決めるけど、どうしても好きなの……」
「……」
「他の人じゃ、どうしても嫌。どうしても、嫌。忘れらんないよ……」
まさか自分にここまで吐き出すとは思わなかった。一矢に突っかかってくる姿と、目の前で頼りなく泣いている紫乃の姿が重ならない。宥めるように髪を撫でてやりながら、複雑な気持ちになる。如月を痛いほど想うその気持ちが伝わって、何とかしてやりたい衝動に駆られる。……実際は、何をしてやれるわけでもないのだけれど。
立ち上がって紫乃に近付くと、頭を撫でていた片手で紫乃を引き寄せる。別に下心があるわけではない。紫乃に対してそんな感情が湧くわけがない。ただ、他にどうしてやっていいのかわからない。
「……神田くん?」
「そーゆー時って泣くしかないでしょ、とりあえずは」
「……」
「……触れてると、ひとりじゃないような気がするでしょ」
片手はポケットに突っ込んで、もう片方の手で紫乃の頭を軽くぽんぽんと撫でてやる。一矢の胸に額を押し付けたまま、紫乃が小さく笑った。
「痴漢でもされるのかと思っちゃった」
「オマエはどういう目で俺を見とるんだ」
「だって神田くんって軽そーなんだもん」
「……胸を貸してやってる俺様にどんな言い草よ?」
くすくす笑いながらも、涙は止まらないらしい。紫乃の手がきゅっと一矢の胸のシャツを掴む。その手が、小刻みに震えている。
「安心しろよ。紫乃は俺の射程範囲に入ってないから」
「……泣いてる女の子にそっちこそどんな言い草?」
「妙な手出しをすることはありえませんので、気兼ねなく心行くまで泣けばとゆー温かいお言葉でしょ?」
「とてもそんなふうには聞こえなかった」
また泣きながら、紫乃が笑う。その小さな掠れた笑い声に、見下ろして小さく笑いながら、一矢は自分が複雑な気持ちになっていることに気がついた。
複雑な気持ちは、何のせいだろう……。
声を押し殺して泣き続ける紫乃の体が小刻みに揺れる。意外なほど細い肩をさらさらの長い髪が覆っている。
そっと紫乃の頭を撫でてやりながら、紫乃に対する意識が少しだけ、変化するのを感じた。
「……本当だね」
「……え?」
心のどこかで触れる紫乃にどぎまぎしている自分に気づいて戸惑っていると、紫乃が不意にぽつりと言った。囁くような儚い声。……らしくない、細い声。
「……何が」
「ひとりじゃない気が、するね。……安心、する」
「……でしょ」
答えながら、微かに心臓が鳴った。
ひとりで過ごす夜が嫌で、人の温もりを求めてきた。求めてきたのは多分、安心だ。
人の笑顔を見ることで、自分の存在を確かめてきた。そうでなければ不安だった。自分は、誰にとっても何の価値のある存在でもないような気がして。
けれど、今、泣き崩れていた紫乃が、自分の胸で小さな笑顔を覗かせている。――安心する、と言う言葉と共に。
「……安心するよ」
「うん……」
心臓が、音を立てているような気がする。
手を、貸してやりたいような気がしてくる。
強気な姿勢でいるくせに、本当はこんなにも脆いその姿に。
「ありがとう……」
会う度に違う色を見せる。見るたびに、新しい姿を知る。
「……」
深い意味などない、女としてなど到底見ることは出来ない。ただの興味、そう、野次馬みたいなものだ。
言い聞かせながら見下ろした、涙交じりの紫乃の笑顔に、もう一度……確かに心臓が音を立てた。
もっと……。
――紫乃のことを、もっと……知りたい。