第4話(2)
「か、一矢さ……駄目……」
「一矢だってば。……駄目?何で……?」
駄目と言われてもやめる気がない。大体こんな言い方では何の制止にもならない。煽るだけである。囁くようにいたずらめいて問い返す一矢の唇を避ける様子もない。
「だって、駄目だよ……」
「理由になってない……」
女の子の抵抗には二種類あると思う。
ひとつはその名の通り、『抵抗』である。本気で嫌がっている場合は、こちらだってさすがにわかる。それでも無理矢理何とかしようと思えば出来なくはないだろうが、生憎それは主義に反する。恋愛のゲームは、相手を本気で嫌がらせてしまってはルール違反なのだ。目付きや声音、抵抗する力加減で本気の度合いがわかる。――言葉だけの抵抗には、何の抑制力もない。その場合、ゲームを中止するには及ばない。
押し留めるように京子の手が一矢の頬に触れる。ひんやりした冷たい指先を再び手で包むと、あっさりとされるままにブロックが解かれた。間近で覗き込む京子の目が、どこか甘えるような拗ねるような色を滲ませて上目遣いに見つめ返す。
案の定、重ねた唇に、京子はすとんと抵抗する力を抜いた。受け入れてくれたのを感じて、少し調子に乗る。完全に京子を腕の中に抱き締め直して、離した唇をもう一度重ねる。
「可愛い」
「……やだ、もう」
「言ったでしょ。今日酔ったらただじゃ帰さないよって」
「酔ったら、なんて言ってないわ……べろべろになったらって言ったじゃない……」
「そうだっけ?」
都合良く作り変えた一矢の言葉に対する京子の反論は、どこか甘い。くすくす笑いながら頬に口付けて、何度目か点滅する青信号に、京子の手を繋ぎながら足を動かした。
「じゃあ……飲み直し。べろべろにさせちゃいましょ」
「馬鹿」
「急げー」
冗談めかしてちらりと向けた視線の中、拗ねるように言い返す京子の顔には、すっかり一矢に気を許し始めている笑みが覗いていた。
◆ ◇ ◆
「……大人しいじゃん、一矢」
メジャーデビューを控えている、とは言っても、これまでインディーズレーベルに所属するなどして実績を残してきているわけではないGrand Crossは、現状まだそれほどしなければならないことがあるわけではない。何せ、自主盤以外のタイトルは自費出資のVA盤しかない。レーベル出資のミニアルバムも1枚作ってはいるが、まだ発売すらされていない。つまり公然と宣伝出来るだけの物理的宣材が、ない。
もう少し時期が進めば、マネージャーの佐山が旧知の業界関係者から強奪してきた仕事がいくつかあるようだが、それもまだ先の話ではあるし、やることと言えばぽつぽつと取材を受けることとスタジオでリハ及び曲を煮詰めることくらいである。
それでも他にやらなければならないことがある他のメンバーは忙しそうではあるけれど、自分などは特にやらなければならないことがあるわけでもない。
(バイトでも真面目に始めようかなぁ……)
父親から金銭を搾り取れる期限がもう1年しかないのだし、たかだか1年程度で音楽だけで身を立てていけるようになるわけがない。『listen』で料理担当を押し付けられ、人参を睨み付けながらそんなことを思う。そう思う矢先から不真面目極まりないことに、今日は下ごしらえしてクラブに遊びに行ってしまうつもりだが。
「……そう?」
「うん。『コザル』にいじめられたか?」
「……明ちゃん。啓ちゃんがその愛称についてクレームをつけてましたけど」
「何で俺がそんなクレームに対応してやんなきゃいけねーの?って聞いといて」
「自分で聞いていただけます?」
「よし、『コザル』を呼べ」
相変わらず明弘がカウンターで一矢と向かい合うようにくだをまいている。テルは買出しに出てしまって、今はいない。
「俺、今、反省してる最中なの」
睨み付けていた人参を手にとって、包丁で皮を剥き始める。鮮やかな手並みを眺めながら、明弘は持参してきたコーラのペットボトルを指で弾いた。
「何?新しい遊び?」
「……何。遊びって」
「反省とか縁のないこと言ってっから」
「……」
それはその通りではあるが。
ため息を返事に変えて明弘の言葉を受け流すと、再び慙愧の念に眉を顰める。
(まずいことしちゃったよなぁ〜……多分)
先日の京子と会った時の自分の行動を思い返せば返すほど……ため息である。
最初は、何をするつもりもなかった。手を出したらまずいタイプの女の子だと判断したからだ。
けれど、飲んでいるうちに、可愛く見えてきた。純情すぎる素振りが、最近なかなかお目にかかっていなかっただけに軽い気持ちでちょっかいを出してみたくなった。
それ以上はさすがにヤバイだろうと自制が利いたので、キス以上のことはしていない。
けれど、路上でキスをしてしまってハードルがなくなっただけに、バーでも何度か唇を重ねてしまった。冷静に振り返ってみれば「先日はどうもゴチソウサマでした」で済むタイプの女の子であったとは思えない。また紫乃に噛み付かれる理由を増やしてしまったような気がする。しかも今度は、言い訳がきかない。
今のところ、あれから京子と何があるわけでもない。こちらから連絡をするわけでもないし、向こうからも別段来るわけじゃない。このままなし崩しで終わってしまえば良いのだが、同じ事務所に所属している以上遭遇しないとは言い切れないし、そう思えば放っておくのも引っ掛かる。
つまるところ、まんまと自分でドツボに嵌まっているような気がする。
「う〜……」
「……何唸ってんだよ。気味悪ぃ」
「ちょっとまずいタイプの女の子にちょっかいかけちゃったなぁと思って反省中です」
「ああ、その類の反省ね。あるある」
「あるんかい」
あっさり頷いた明弘の頭をぱしっとはたいて、皮を剥いた人参を刻む。
「何?つきまとわれそう?」
「それはわからんけど。そこまで向こうが俺に興味を持ったかは知らんし」
そう。京子自体が別段一矢に興味がないのなら、考える必要はないのだ。その場合は向こうにとっても「あちゃ〜」で終わるのだろう。いくら真面目だとは言っても、好きにもなれない男相手に「でもキスしちゃったし」を理由に付き合おうと考えはしないのが普通である。
問題は、京子が一矢に興味を持ってしまった場合である。ああいう状況が初めてのようでもあったし、インプリンティング的に特殊な感情を抱いてしまう可能性は、正直、ある。と言うか、バーにいる間の京子の態度を思い返すと、その可能性は非常に高いような気がする。
すると、一矢の最低度合いは急激に跳ね上がるのである。
「まあまあまあまあ、俺程度の男、いくらでも世の中にはいるわけだしね」
「……何いきなり言い訳かましてんだよ」
「俺ごときに惚れちゃうようじゃね……」
「生まれたてのヒナってのは、相手がどんな不細工な整形してようが、果ては無生物であろうが、目を開けた時に動いてりゃ上等なんだよ」
「……どんな不細工な整形って……」
余りと言えば余りの明弘の言い草に、包丁を握ったままゴンと前のめりにカウンターとの仕切りに額をぶつける。その頭を明弘が同情するようにぽんぽんと撫ぜた。
「キスのひとつでもすりゃあ、初めてならその瞬間からオマエしか男に見えなくなることは良くあらぁなぁ」
「……あのね、追い込まないで下さいます?」
「いやぁ〜ん、一矢サンたら女の子に手を出して放置しとくなんてさいてぇ〜」
へろへろと舌を出しながら追い討ちをかける明弘のセリフに、紫乃の言葉が蘇る。つくづく『反省』である。がたがた言われない為に京子と連絡を取って、更に進展してどうする自分の馬鹿、である。
(別に言われたからじゃねぇぇ〜よッ……)
胸の内で小さく反論してから、半ば無意識に大量生産している人参の銀杏切りをざらざらとざるの中に放り込んだ。
「明弘って、良く笑子さんとうまくいってるよね」
詳しくは一矢も知らないが、この男が裏でやっている行動だって相当ひどいに違いない。大体一矢と違って明弘は多少なりともルックスを武器に使える。爽やかなおにーさん風の容姿と、裏腹の危険でどこかアングラな振る舞いをアンバランスな武器に変えているに決まっているのだ。とっかえひっかえ遊びまわっているのがわかりきっているのに、良くもまあ刺されないものだと尊敬する。
「はあ〜?何でぇ?」
「明弘の2,3人、とっくに東京湾に沈んでてもおかしくない」
「いねぇよ、2,3人も……」
呆れたように小さく反論してから、明弘は行儀悪く隣のストゥールに片足を乗っけて煙草をくわえた。今更この男に行儀など期待するつもりは微塵もない。黙殺する。
「まあ、俺は笑子のツボを掴んでるからな」
「ああ、そういう話なの?」
「……どういう話だよ」
「……さて?」
しらっとした空気と突っ込みを入れるような明弘の視線を交わして、タマネギの微塵切りに取り掛かる。
「ツボねぇ……」
「……オマエ、笑子を題材に妙な想像を働かせるのをやめろ」
「そう言われるといろいろ想像したくなるなぁ……」
「コロスぞ」
自分はいろいろとろくでもないことをしているくせに、笑子のことになるとムキになる姿がおかしい。
それから、何となく武人が妃名との別れ際に残した言葉が蘇る。
――望むものを与えてあげられない俺には、彼女を幸せにしてあげることは出来ないです……
(望むもの、ねぇ……)
つまり、そういうことなのだろう。中学からの付き合いなら、笑子だって明弘がどういう奴かはわかっているはずだ。にも関わらず今付き合っていると言うことは、明弘は笑子を喜ばせるコツを知っていると言うことになるのだろう。それも、一矢が不特定多数の女の子を節操なくその場限りで喜ばせるのとは全く違う意味合いで。
それは、その特定の誰かを知りたいと強く望まなければ出来ることではない。本当に喜んでもらうには、相手のことを本当に知らなくては出来ない。それは、誰も彼もには出来ることではないのだ。財力も労力もかかる。「そうしてあげたい」とこちらも望まなければ、多分成り立たない。
望んだところで、武人のように実行出来なければ結局それは相手の為にはならないし、なかなかそううまくはいかないものだ。
つらつらとそんなことを考えながらタマネギを刻んでいると、そんな考えを読んだように明弘がふと尋ねた。
「そういや、『秀才』、どうした?」
「武人?ああ、うん……あん時、ありがとう」
「別に俺は何もしてねーけど。会えたのか?彼女」
「うん……まあ……」
時折『listen』に顔を出す武人は、明弘とも顔をあわせる。いずれは耳に届くことだろうけれど、べらべら言う気にはなれずに一矢は曖昧に言葉を濁した。
あれ以降、武人は妃名のことを一切口に出さない。が、一矢から見ている限りでは、思いの外引き摺っているような気がする。Grand Crossとして仕事をしている時には微塵もそんな様子を見せないものが、たまに一矢の部屋に転がり込んで来ている時には影を覗かせる。
とは言えまだ1週間やそこら……前に由梨亜と一緒にスタジオに遊びに来ていた武人のクラスメートの女の子の話では、武人は学校でそこそこもてるみたいだし、そのうち新しい恋愛でも見つけるだろう。時間が解決してくれる種類の話だと思っている。――啓一郎の傷と同様に。
明弘と他愛ない会話を交わしながら着々と料理の下ごしらえを済ませている間に、やがてテルが帰ってきた。一通りやることを終えてオープンの準備まで手伝い終えると、『listen』を後にする。先日中途半端に放り出した千佳から、六本木のクラブにクレームの呼び出しがかかっていた。どうやらあの後、アツシやその他の誰かが『幸運なご指名』を受けることはなかったらしい。せっかくのお誘いなので、『続き』までしっかり受け持たせていただこう。京子と違って、余計なことをあれこれ考えずに済むのだから。
自分には、やっぱり、真面目な恋愛は向いていない。
京子のような純情な女の子ではなく、千佳のような誰でも構わない相手の方がやっぱり楽だと思ってしまう辺り、今のところまだやはり必要ないのだろう。
周囲を見回しても、傷ついているばかりではないか。
そう思いつつも、なぜか小さなため息をひとつその場に残し、一矢は跨った単車にエンジンをかけた。
◆ ◇ ◆
1月も終わりに近付き、ファーストシングルのジャケ写撮りやラジオの出演などをぽつぽつとこなしている。2月に入ってからは地方営業に出る予定が急激に立て込んでいて、どうやらのんびり出来る期間も限られて来ているようだ。
あちこちの地方でライブの予定がいくつも詰め込まれているので、いろいろと準備が必要である。麻美の部屋に泊まった翌日、リハの為にスタジオへ向かう一矢は、スティックケースだけを引っ提げて池袋で電車を下りた。
昨夜、会社帰りの麻美に車で攫われてしまったので単車は自宅に置きっ放しである。池袋など交通の便が良いのだから、別段単車である必要はない。
池袋に来るのは、久しぶりのような気がした。メジャーが決まって美保のスタジオに行かなくなってからは、取り立てて用事がないので来る機会がなかった。
Grand Crossは、どうやらこの先、またも嶋村家のスタジオにお世話になることが出来そうである。一矢にしてみれば、余り事務所に積極的に近寄りたいと思わないのでありがたい。
(……ま、気楽っちゃあ気楽だよなぁ、こっちの方が)
事務所にスタジオを内蔵しているとは言え、多くはないにしろ他にもアーティストはいるわけだし、貸し借りにも鍵を借りたり届けを出したりといろいろ面倒は面倒だ。嶋村家のスタジオには、一矢自身のドラムセットが置きっ放しだし、他の誰が使うわけでもないのだから使い放題、気を使う必要もない。慣れ親しんだと言うのもあるし、やはりこちらの方が気楽である。
使えるようになった経緯は、詳しくは知らない。ただ、啓一郎の携帯に美保から「ウチのスタジオ、今まで通りに使えば?別に」と言うような内容の連絡が来たらしいと言うことだけ知っている。どんな話の流れでそんな展開になったのかはわからないが、持ち主がそうおっしゃっているのだから、こちらとしてもありがたく使用させていただくことになったようだ。
嶋村家は西池袋の方にある。それも、大通りから道を逸れて路地の方へと入っていく。妙な方へ向かってしまうとスジの方がいろいろいらっしゃる危険地域に入ってしまうが、無論そんなところばかりでもない。
西口を出て見上げた空は、乾いた冬晴れだ。空気は冷たいものの、射す陽射しが暖かく感じられる。池袋の駅前も、新宿や渋谷と変わらない人の多さだ。寝不足も手伝ってぼんやりと太陽の眩しさに目を細めながら、駅沿いにある大きなデパートのそばを通り過ぎ、芸術劇場の中を突っ切って反対側の通りに抜ける。その道沿いに歩いていると、道路を渡って反対側の道でぼーっと立っている女の子の姿に気がついた。
(……)
その後ろ姿を見て、しみじみと自分は日頃の行いが悪いのだろうかと思わざるを得ない。せっかく事務所のスタジオに行かなくて良くなったと言うのに、こんなところでばったり会ってどうする、と言う気がする。――広瀬紫乃だ。男の子っぽいキャップをかぶり、ラフに男物のシャツとジーンズを身につけているが、間違いない。
紫乃が足を止めているのは、ブライダルショップのショーウィンドウだった。純白のウィディングドレスが展示されている。
(勘弁して下さい……)
京子とどこまで仲が良いのかわからない。今はもう紫乃はOpheriaと仕事上で絡みがあるわけではないのだろうし、そもそも京子がそうべらべら紫乃に話すものなのかまでわからないが、一矢の知る限り女の子同士で彼氏とどこまで行っただのどんなことを言われただのと筒抜けになっていることは少なくなさそうだ。それを思えば、恐ろしい。近寄らないに限る。
紫乃は、完全にこちら側に背中を向けている。幸いにして一矢に気づく気配は微塵もなさそうで、ありがたく道路の反対側をそのまま気づかないふりで通過しようとして、ふと足を止めた。ちょうど対岸に紫乃の背中が見える。
(……)
通り過ぎながらちらりと目に入った元気のなさそうな顔がふと気になった。ウェディングドレスの前でため息をつきながら足を止めている紫乃、と言う図式もなかなか不釣合いである。
少し、躊躇った。自分から噛みつかれに行くようなものだろうか。そういう気はするものの、結局一矢は道路を反対側に渡っていた。
「何してんだか」
挨拶も何もなしに、唐突にそんなふうに声をかける。全く一矢に気づいていなかったらしい紫乃は、その言葉に「ふぎゃ」と小さく呟いて勢い良く振り返った。
「か、か、か、神田くん」
「ヨメにでも行きたいの?」
紫乃に目を向けず、紫乃が見入っていたドレスの方へと視線を向ける。ふわりとしたプリンセスラインの純白のドレスは、レースがふんだんにあしらわれ、細かな刺繍まで行き届いていた。ディスプレイに飾るくらいだから気合の入った一品だろう。一矢は別に着たいとも思わないが。
「……」
「うわー、すげー、じゅうはちまん!!」
無言で一矢を見上げる視線をそっちのけに、思わず値札に目が行った。それはまあこれだけ布を使用しているんだから高いのだろうが、通常1度しか身につけないだろうものにこれだけの金をかける人種が信じられない。
「ウチの家賃が払えそう〜」
「……ウチなんか3回くらい払えますけど」
「あら。お安い」
「逆でしょ……何で神田くんがそんな高いトコ住めてんのかが謎でしょ……」
放蕩息子、と毒づく紫乃の言葉に、やはりどこか元気のないものを感じて、一矢はちらりと紫乃に視線を落とした。
「何しとんの、こんなとこで」
「……カンちゃん家からの帰り」
「カンちゃん?」
誰じゃそれは、と言う一矢の視線に、紫乃はウェディングドレスに視線を戻しながら「メンバー」と短く答えた。
「はあ。D.N.A.の?」
「そう。ウチのキーボーディスト。カンちゃんが今、あそこの……マンション、見えるでしょ」
「ああ。……げえ。あんなとこ住んでるの?」
「あの陰にあるアパートに住んでるから」
「……陰にあるアパートね」
フェイントを突かれてかくんとコケながら再び紫乃に視線を戻す。
「じゃあ仕事帰りなんだ」
「そゆこと」
「で、仕事帰りに何でウェディングドレスを涎垂らして見てんの」
深い意味はなくまたもドレスに目を戻す。どうしても値札に目がいってしまう。これ一着で家賃が飛ぶとは恐ろしい衣服である。紫乃が無言で一矢の足を蹴り飛ばした。
「いて」
「涎なんか垂れてません」
「まだ危機感感じるトシじゃないでしょ」
「危機感感じてるわけじゃないもん」
「……憧れてんだ?」
人を蹴り飛ばしておきながら何食わぬ顔でディスプレイに目を向けている紫乃の横顔を睨みつけながら尋ねると、紫乃は素直にうんと頷いた。
「憧れてるの」
「へえ?意外」
「意外?そう?女の子は結構そうじゃないの?」
「そうかもしんないけど。……何か凄ぇ仕事に生きてそうだもん」
「ああ……そう?」
ちらりと紫乃がこちらに視線を向けて小さく笑った。意外なほど素直な笑みに、どうやら噛みつかれなさそうだと安心する。
「ウェディングドレスって、幸せの象徴だあって気が、しない?」
「しない」
「……そりゃあ神田くんは男の子だからそおかもしれないけどさあ〜……」
「俺がドレス見てうっとりしてたら、いよいよおかしくなったとしか思えないでしょ」
言った言葉に紫乃が吹き出す。ようやく楽しげな顔を見せてくれた気がして、一矢も少し相好を崩した。
「そりゃそーだね。……でもさ、だってさ、これを着る時ってのは、好きな人を想って……好きな人に想われて……」
「……」
「一緒に手を繋いで歩いていこうねって……そういう時でしょ?」
「……」
でしょと言われても、考えたこともないので答えが見つからない。構わずに紫乃は視線をドレスに向けたままで続けた。
「幸せいっぱい、って感じするじゃない」
「……好きな人を想って想われてってのは、別に結婚じゃなくたってあるんじゃないの」
「それは、そうだけど。でも、結婚って、お互いだけじゃないじゃない?」
「はあ?」
眉根を寄せて見下ろすと、紫乃は何だか妙に嬉しそうな表情で一矢を見上げた。
「家族が、いるでしょ。自分にも、相手にも、家族が」
「あ、ああ……」
言われてみればそんな気もする。が、そもそも一矢自身が『家族』と言える人間を自分の中で抹消してしまっているので思いつかなかった。
「あたしはさ、親、いるけど。具合の悪いおかーさんだけだからさ」
「病気なの?」
「そう。優しくしてもらったけど、でも具合良くないからあんまり一緒に何をした覚えとかないし」
「……」
思いがけず紫乃の家庭環境に触れることになって、一矢は言葉に詰まった。紫乃はさして悲しい出来事を語っているつもりがあるわけでもないらしく、あっさりと続ける。
「だからさ、相手のおとーさんとかおかーさんとかも、あたしの親になるわけじゃない。一緒にキッチンに立ったりとか、休日に犬の散歩したりとか、そういうの、出来るようになるじゃない」
「……」
「そういうの、全部、手に入るのかなあって思うと、憧れる」
「……ふうん」
なぜか、微かに胸が痛んだ。
彼女さえ作る気にならないのだから、結婚なんて考えたことがあるわけがない。ないけれど、何となく女の子にとって男側の両親なんてうざったいもののような気がしていた。こんなふうに考える女の子がいるとは、思いも寄らなかった。
「あったかい感じ、するじゃない。おとーさんがいて、おかーさんがいて、みんなでごはん食べたりとかして、時々喧嘩して。……結婚したら、そういうあったかい家族が出来るってことだよ?」
「……」
複雑である。いつかの遠い将来、一矢が誰かと結婚することになったとしても、相手の女性には紫乃が描くような家庭像は与えてあげられない。
「……自分があんまりそういうのに縁がなかったから、すーごく憧れる」
「結婚に多大な期待、してんだ」
「んー。してんのかも。現実はなかなかそううまくはいかないだろうけどね」
複雑な一矢の胸中には気づく様子もなく、紫乃は鼻の頭に皺を寄せるようにして笑った。
「嫁姑問題とか?いろいろ、あるんだろな。でも、頑張ればいつかは理想の家族になれるかもしれない」
「……どうだかね」
それからふと気づいて、紫乃に視線を戻る。
「って、あんたのおとーさまは?」
「あたし?昔死んじゃってるし」
「……ああ、そう。それは失礼」
余計なことを聞いてしまったようだ。ごにょごにょと謝罪を口にする一矢に、紫乃は屈託なく笑ってみせた。
「ああ、気にしないでよ。別に。むしろごめん」
「いや……」
さらっと流す紫乃にほっとしながら、話題を戻す。
「んじゃあ、同居とかしたいんだ」
「したいなー、あたしはー。楽しいと思うなー。おうちに帰ると必ず誰か人がいるとかって」
「……」
その言葉は、一矢にもわかる。ひとりの部屋に、帰りたくない。
誰かがいればそれはそれでいろいろあるのだろうし、口うるさい親でもいれば出来ないことなど多々あるのだろう。恋愛が親によって押し潰された妃名のように、結婚生活さえ壊されることがあるのだろうから。