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In The Mirror  作者: 市尾弘那
12/83

第4話(1)

 スタジオを終えて腕時計を覗き込むと6時30分だった。ちょうど良い……いや、少し早いくらいだろうか。けれどまあ、女の子を待たせるのは主義に反する。早めであるに越したことはない。

「一矢さん、メシでも行きません?」

「パァス。俺、今日、駄目」

 あっさり武人の誘いを断って出て行きかけた一矢の背中に、啓一郎の声が聞こえた。

「また女の子だろ」

「いえーす。んじゃあねん」

 ひらりと片手を振ってスタジオを出る。新宿東口に19時。単車なのだから、余裕だ。

 先日クラブを抜け出した一矢がかけた電話で、今日、京子と会う約束をした。さほど深い意図があるわけではない。顔を見れば紫乃ががたがた言うのでこれで少しは静かになるだろうし、実際京子に対して中途半端感が否めないからだ。一度ゆっくり話をするのも互いの為に悪くはないだろう。

 そんなつもりで、軽く食事でも出来ればそれで良いかと思っている。大体見る限り、京子は一矢が得意とする分野の女の子ではなさそうである。後々まで引き摺るつもりはない。

 割り切れない女の子は、面倒なことになるだけだ。そういうスタンスで女の子と接している一矢の周囲にいる女の子と言うのは、千佳のようにノリとルックスだけが良くて頭が悪いか、麻美のように割り切りすぎた大人の女性か、淳奈のように友達の延長線上でスポーツのように体の関係を持てるか……その類の女の子しかいない。真面目で、学生のような可愛らしい『オツキアイ』でも夢見てそうな京子とは到底イキモノの種類が違う。会話が噛み合いそうにない。

 単車を適当な場所に停め、時間の15分前に駅前についた一矢が人混みを縫っていると、人波の隙間に京子がぽつりと立っているのが見えた。それを見て軽く焦り、小走りになる。

「京子ちゃん!?」

 驚いた。早い。

 足早に近づく一矢に京子が顔を上げる。はにかんだような笑みに、妙な居心地の悪さを感じた。何か、そう……高校生同士の初デートのような、初々しい空気感。そこに登場するのが自分ではいけないような違和感。

「早いね」

 何とかその奇妙な感覚を飲み下す。軽い女の子ばかり相手にしていたものだから、戸惑いを覚えながら笑みを向ける一矢に、京子が数歩近づいた。

「あ……待たせたら、いけないと思って」

 感心なお言葉である。

「何食いたい?」

 両手をポケットに突っ込みながらにこっと笑って尋ねると、京子ははにかんだような表情のままで迷うように視線を上げた。

「あ……わ、わたしは、何でも」

 女の子が良く使うセリフだ。が、同時に、男が最も困るセリフでもある。

 男の方は、特に最初のうちなんて女の子を喜ばせたいだけなのだから、『何でも良い』はむしろこっちのセリフだ。大体長年つき合った相手ならともかく、良く知りもしない相手の好みなんてわかるわけがない。選択肢が無限に広がりすぎて、処置に困る。

 が、ここで迷っていてはポイントが下がるだけなのである。こういう時の為に、無難な店をいくつか押さえておかなければ、ルックスだけで勝負の出来ない男は負けてゆくのみだ。その為に時には男2人なんかでは到底行きたくもない店に行ったりもするのである。まったく『男の子は大変』だ。

「んじゃあ……イタリアンとかどう?うまい店、あるよ」

「あ、はい」

「んじゃ、そこ行こうか」

 新宿界隈は、いわゆる『お洒落な店』が実は少ない。安くて『お洒落に見せたチェーン店』などが溢れ、神楽坂や麻布のように本当に品のある洒落た店を探すのは大変のような気がする。それも、駅近くとなれば尚更だ。それとも探し足りないだけなのだろうか。

 一矢の持つ胸のリストの中からピックアップした裏路地の方にあるイタリアンの店は、適当にお洒落で味が悪くない。激しく混んでいるようなこともあまりない。混み過ぎて待たされたり追い出されたりしては興醒めである。『行列が出来る旨い店』は予約を入れるか付き合いが深くなってからいかないと危険だ。

「女の子に限らずさ、誰かとメシに行ったりするじゃん」

 京子は、何だかがちがちである。しゃちほこばって隣を歩く京子の扱いに少々困りながら、何とか空気を緩和させようと口を開いた。どうしてこんなに緊張されているのだろうか。

「うん」

「何食いたいかって話になって、いきなり『フレンチ』って言う奴って、なぜかまずいないよね」

「ふふ……そう?」

「うん。俺の周囲では100%いない。いる?」

「言われてみれば、いないかも。浮かばないよね……」

「大体和食、イタリアン、中華……あとは飲み?ラーメンとか焼き肉ってのもあるけど……『ドイツ料理』とか言い出す奴もお目にかかったことがない」

「あは……言われても困っちゃうよね」

「意外とレバノン料理とかは俺、店知ってたりするんだけど、残念ながら誰も提案してくれたことがない」

 そつのない、当たり障りのない会話で何とか京子を笑わせながらついた店は、予想通り適度な席の埋まり具合だ。僅かに落とされた暖色の照明と質の良い店員が2人を席に案内してくれる。メニューを広げて視線を落としながら、口を開いた。

「どーしよっかな。ドリンク、どうする?」

「ええと……」

「……京子ちゃんに酒飲ませると『女王様』だしな」

 からかうような一矢の言葉に京子が赤くなる。

「……そんなこと、ないもの」

「そう?アルコール、いく?」

「か、軽くなら」

 その言葉に一矢は笑った。

「おっけ。……でも今日は前みたいになったらただじゃ帰さないよ?」

「……ならないもん」

 赤くなったまま小さく反論する京子の前にドリンクメニューを押し出す。

「何か、ある?」

「……んー」

 メニューを前に、京子は押し黙ってしまった。それを見て、ようやく気がつく。……あまり、男と2人で食事をしたことがないのだろうか。高校生を思わせるたどたどしい様子はそのせいだろう。

「……ワインとか、飲む?」

 高校時代に付き合っていた彼女が、京子のようなタイプだったことを思い出した。可愛くて純情で、あまり自分の意志をはっきりと口にしない。

 その彼女とは1週間しか持たなかった。

 微かに湧き上がった苦手意識から目を逸らしながら、ワインリストを指でなぞる。

「あ、うん」

「白と赤、どっちが良い?」

「あんまり量、飲めないと思うから……」

「じゃあ白の軽いのがいーかな……甘すぎるとメシがうまくなくなるから、カッツのグラス辺りが無難かなあ」

「あ、はい」

「んじゃあそうしましょおか。イタリアンでドイツワインってのも何だけど」

 一矢の付け足したセリフに、京子がくすっと笑った。それを見返して微笑み返す。可愛らしいのは可愛らしいのだけれど。

(うーん、やっぱ下手な真似したら面倒臭そうだな〜)

 多分。それこそドツボにはまってしまいそうな気がする。

「料理はどうしよっか……食べられないものとか、ある?」

 この分では料理のオーダーについて意思表示はあまり期待出来そうにない。料理の方も適当に一矢の方で選定し、オーダーを済ませる。女の子の決定を待って一緒になってぐずぐずしていては、駄目なのである。さくさくと決めてあげて、しかもそれがおいしかったりすればポイントが跳ね上がることを既に一矢は熟知している。

「……良く、こういうお店とか、来るの?その……女の子とか」

 オーダーしたドリンクが運ばれてくる。軽くグラスを合わせて口をつけながら、京子が不意に尋ねた。微妙な質問である。一言で事実を答えてしまえば「その通り」となってしまうが、そんなわけにはいかない。そつのない対応を求めるくせに、経験を踏みすぎているのは嫌がる女の子が圧倒的に多い。そんな無茶な、である。場数を踏んでいなければそつのない対応など出来るわけがない。つくづく、難しい。

「それほどでもないよ。何で?」

 この手の質問は曖昧に濁すに限る。にっこりと笑みを浮かべながら問い返す一矢に、京子はグラスを指先でいじりながら上目遣いの視線を向けた。

「だって、何だか慣れてそう」

「そう?京子ちゃんの前でかっこ悪いとこ見せらんないでしょ。これでも精一杯頑張ってるから、そんなふうに見えちゃうのかなあ」

「口がうまいわ」

「全力投球です」

 そう言われて不愉快になる女の子はまずいない。グラスを持ち上げながら言ったセリフに京子がくすぐったそうな顔をした時、オーダーした料理が運ばれて来た。取り分けてやるべく、フォークとスプーンを取り上げる。

「あ、わたしが」

「いーって。俺、こういうのやるの、好きだから」

「でも」

「飽きたら勝手にやらなくなるから、そしたら代わって」

 わりと女の子は、そういうことを自分がやらなければ気が利かないと思われると思い込んでいて落ち着いて食べられないのだ、とは以前OLの女の子に聞いた。そんなふうに思うのは多分オヤジばかりで一矢みたいな若い男性はそうでもない……と言うよりは、自分で好きなようにやった方がむしろ気が楽だと思っている奴の方が多いと思うのだが、なかなかそうはいかないらしい。

 それに気がついてから、そう言ってやることにしている。『ナンパ師』としてはささやかなツボも逃すわけにはいかないのである。京子をどうするつもりがあるわけでもないのに、ほとんど条件反射で細やかな心遣いが出てしまう。我ながらご苦労様だ。

 サラダ、パスタ、ピザと運ばれてきて、それぞれの皿に料理が渡ると、食事を口にした京子が顔をほこらばせた。

「あ、おいしい」

 胃袋を掴めば印象が良くなるのは男も女も同じである。

「そう?良かった。俺ねえ、旨い店探したり自分で作ったりするの、好きなんだ」

「作るの?自分で?」

「そう。いろいろ組み合わせ考えてこーすると旨くなるんじゃないかなーとか」

「え、意外ー」

「意外?そう?今度作ってあげよーか?」

「……え、ええ?」

「可愛いひらひらのエプロン着て」

 一矢の言葉に京子が吹き出す。その笑顔に、一矢も笑みを覗かせた。人が笑ってくれるのが、好きだった。

「……何?」

 口元に微笑を浮かべて京子を見つめる一矢に、京子が戸惑ったように笑いを飲み込む。どこまでも京子はシャイなようだ。綺麗な方だと思うが、付き合ったこととかないのだろうか。つまらないことを考えながら、京子に答えて口を開いた。

「いや、一緒にいる人が笑ってくれると、嬉しいからさ」

「……うん?」

「俺といて、少しは楽しんでくれてるのかなって気になれるでしょ」

 一緒にいる相手が男でも女でも、同じである。

 笑顔は、安心する。

 自分と過ごしている時間が、ほんの僅かでも楽しい記憶として残ってくれれば、そこに自分の存在価値を感じることが出来るような気がする。

 だから、人の笑顔を見るのは、好きだった。逆に言えば、そうでなければ安心出来ないのだ。自分なんかと一緒にいても、面白くないのではないかと言う思いがつきまとう。信じ合うほど深い関係を誰とも築かない代わりに、せめて。

 そこまで語るつもりはないけれど。

「……」

 が、京子はその言葉に潜む何かを感じ取ったようだった。無言で一矢を見詰める。まずいことを言ってしまったかもしれない。突っ込まれると話題が暗くなる。暗い話題――特に自分の背景に絡む話題を好まない一矢は、話題をそらすことにした。

「全然関係ないんだけどさぁ、京子ちゃんってOpheriaでギターやってるんでしょ?」

「……え?あ、う、うん」

 本当に全く話をそらした一矢に、虚を突かれたように目を瞬いた京子は、再びフォークを取り上げながら頷いた。

「どうしてギター?って言うか、どういう経緯で始めることになったの?」

「どういう経緯って?」

「前からOpheriaってバンドでアマチュアとかからやってきてたの?」

「ああ……ううん」

「ふうん?」

 人はどちらかと言えば、人の話を聞くより聞いて欲しい傾向にあると思う。特に女の子は話を聞いてくれる男に好感を持つことが多い。京子は自分からあれこれ話す方ではないから、京子の話をこちらから引き出してあげれば尚嬉しいだろう。京子本人について質問することは、京子に対する興味と認識される。

「じゃあ前から何か、人前に出るようなことをやってたのかな」

「あ……雑誌で、モデル、やってて」

「ああやっぱり?綺麗だし、すらりとしてるから、そんな気がしたんだ」

 モデル、と言ってもピンキリである。一矢の周囲で少し綺麗目の女の子がやっているバイトとして多いのが、水商売、コンパニオンやキャンペーンガール、そしてモデルだ。ショーモデルや一流ファッション誌の専属トップモデルならばともかく、二流三流誌や、スーパーのチラシのモデル、もしくは一流ファッション誌でも専属ではなく派遣モデルであればごろごろいる。驚くほどのことでもない。モデルと水商売を掛け持ちしていたりするコも山ほどいる。渋谷辺りを歩いていれば、少し人目を惹くような容姿をしていれば片っ端から声をかけられるからである。難しいのはそこから伸し上がることだ。音楽と同じである。

「もう一杯くらい、飲む?」

 京子からモデル時代の話を引き出しつつ、気づいてみれば京子のグラスは残り少なくなっていた。一矢自身は京子のペースに合わせてのんびりと飲んでいるが、あまり飲めないと言っていたわりには思いの外ペースが早い。べろべろにならないようこっちで気をつけてやらないとまた『女王様』になってしまうかもしれない。

 そう思いつつも、もう一杯くらいは平気だろう。軽く勧めてみると京子はあっさり頷いた。

「じゃあ、もう一杯だけ」

 微かに頬が上気して来ている。合うタイプではないにしろ、可愛いことに違いはない。同じものをそれぞれもう一杯ずつオーダーし、京子に話を戻した。

「で、モデルからギター?」

「わたしのいたモデル事務所が、音楽事業を始めてね」

 アルコールが回ってきたせいか、少し態度が打ち解けてきたかもしれない。流れる空気を順調にする為にも、アルコールの存在と言うのは重要だ。

「へえ?」

「ウチのドラムのコが、そっちの……同じ事務所の音楽事業部の方に所属してて。わたしは元々音楽が好きで、友達にもらったギターをいじったりしたこともあったから、何かそんな話の流れで音楽事業部の方にも所属することになって」

「ああ、そうなんだ」

「うん。だけど、結局事務所そのものが……」

 運ばれてきたワイングラスを受け取りながら、潰れちゃったの……と京子が続けた。

「潰れちゃった?」

「そう。それで、わたしと、ドラムの令子ちゃんはブレインに引き取られるような形で、真名ちゃん……あ、ベースのコなんだけど、真名ちゃんとヴォーカルの飛鳥ちゃんはそれぞれ別のところからブレインに入って……それで、今のOpheriaが出来たの」

 では、元々は赤の他人の集まりと言うわけか。アイドルグループや、大手レコード会社が直接手がけるようなアーティストにはそういうのもいなくはない。

「じゃあ、大変だねー」

 聞く限りでは、Opheriaはそれほど売行きが良いアーティストではなさそうだった。わけもわからず事務所同士の話で移籍をさせられたりバンドをやらされたり、京子も大変だ。一矢などは元々音楽でやっていきたくてやっているし、メンバーも自分たちで決めたメンバーで気心知れているし、そういう意味では心強くもあり気楽でもある。

 どことなく、同情めいた気持ちが湧き上がった。

「京子ちゃんって、いくつだっけ」

「わたし?19歳」

「俺の2コ下か。……短大とか、行かなくて良かったの?」

 他人のことを言えたものではないが、何となく尋ねる。一矢の知る19歳の女の子は、お洒落をして適当にお金を稼いで、恋と遊びに夢中だ。責任も何もない学生と言う身分は、最もそういうゲームを楽しむのに適した職業である。仕事を持ってしまっているとそれだけでは済まない。

 一矢の問いに、京子は目を細めた。少々心くすぐらせる笑顔に、アルコールも手伝って次第に最初に持ちかけていた苦手意識が少しずつ霞んでゆく。そもそもが一矢は女の子に対して採点が甘いのだから尚更だ。

「いいの。最初は成り行きでやることになっちゃったOpheriaだけど、今は真面目にやりたいなと思ってるんだもの」

「へえ?」

「あまり、上手くはないけどね……」

「ごめんね、俺、まだOpheriaの音源って聴いたことない」

 嘘はつけない。あっさり自白した一矢に、京子はまた笑った。

「ううん。売れてるわけじゃないし」

「Opheriaって女の子ばっかだったよね。仲良いんだ?」

「うん。元々知り合いでも何でもなかったし、仕事で顔をあわせているだけだけど、そのわりには仲が良いと思う。みんなでゴハン食べに行ったりとかね、結構するし」

 話をしている間に、双方の手が次第に皿に伸びなくなっていく。食事はもう終了、と言うところだろうか。満たされた京子はほろ酔いと言う感じの、微かに色っぽい顔つきを見せていた。隙だらけである。

「デザートとか、いる?」

「ううん。もう、おなかいっぱい」

 そう言ってふにゃ〜っと笑う京子に、一矢は思わず小さく吹き出した。最初はがちがちだったくせに、だいぶリラックスしてくれたようだ。これなら、もう一軒くらい行ってみても良いかもしれない。もう少し、話を聞いてみたい気になってきている。

「……行こうか?」

「ん」

 精算を済ませて、店を出る。1月の夜風はまだ冷たく、これからまたもっと寒くなっていくのだろう。暖かい店内で食事とワインに温められた体が急激に冷える。

「さっむーい……」

 淡いサーモンピンクの柔らかそうなコートを抱き締めるように、京子が呟いた。きゅっと顰めた顔が、どこか小動物を連想させる。

「どっか、バーでも行く?」

 テリトリーである『listen』に連れて行く気はないが、遊びに行くバーならいくつか知っている。

「一矢さん、どこか良いところ、知ってる?」

「一矢」

「え?」

「一矢でいーよ。みんな、そう呼ぶし」

「……でも」

 まだ躊躇いがちな京子に、片手を差し出す。邪気だらけの癖に無邪気な笑みで手を差し伸べる一矢を、京子が戸惑ったように見詰め返す。

「……」

「手、繋ごーよ」

「でも……」

「デートってことで」

 繋いだ京子の指先がひどく冷たい。まだ店を出たばかりなのに、夜風に晒されてもう冷えてしまったみたいだ。恥ずかしそうに京子が顔を伏せる。そんな初々しい態度が、次第に可愛くも思えてくる。単純である。

「一矢、さんって……」

「一矢」

「……か、か、一矢」

「うん。な〜に?」

 名前を呼び捨てにさせる、手を繋ぐ、これをさせられれば、かなり打ち解けてきている。特に、名前を呼び捨てにすることを繰り返してくると、女の子の方も親しい気分になってくるものだ。大して京子に対して何の気があったわけでもないのにどこまでも小細工満載な一矢に気づくことなく、京子は真っ赤になって俯いた。

「一矢、は、あの……『あの日』、どうして『SWING』に、いたの?」

 何度か行ったことのあるバーに向かうべく、手を繋いで京子と夜道を歩く。表通りに出ると喧騒がうるさい。余り人気のない裏路地を選んで歩きながら、吐く息の白さに目を向けて答える。

「俺、出演者だったもん」

「え?そうなの?」

「うん。気がつかなかった?」

 見下ろす一矢の視線に、京子は少しバツが悪そうに、軽く眉を上げた。

「気がつかなかった。何番目くらいだった?」

「俺たちねえ……あの日早かったんだよね。2番……3番かな?8バンドくらい出てたでしょ、確か。前半戦」

「そっか。わたし、まだ辿り着いてなかったかもしれない」

「ああ、そうなの?」

「うん。4番目のバンドの3曲目くらいから見てた」

「そう?じゃあ俺ら終わっちゃった後だ」

 他愛ない会話を交わしながら、西口の方へと抜ける。新宿の東側はいわゆる繁華街で騒々しいが、西口の方に回ってくると少し喧騒が遠のく。こっちの方には大人向けのバーなどもないではない。すれ違う人の姿も、若者からスーツを着た社会人へと姿を変えていく。

「どこだっけな、こっちの方……」

 都庁の方へ向かう通りを逸れて、更に静かな道の方へ足を向ける。車通りの少ない横断歩道で足を止めると、高層ビルを抜ける一際冷たい風に、京子が身を縮めた。

「ふわぁ……さっむいよぉ」

「寒い?」

「ん……」

 その言葉に、繋いでいた手を外し、京子の肩を抱く。もう片方の手で、今し方まで繋いでいた京子の手を包み込んだ。顔を覗き込むようにすると、京子が完全にかちこちになっている。

(かわいーの……)

 こんなふうにされるのが、初めてなのだろうか。どこまでも純情で、ちょっかいをかけてみたい気にさせていく。面倒なことにはなりたくないけれど、キスくらいならボーダーラインだろう。隙だらけの京子の様子が、ハードルの低い一矢の遊び心をくすぐった。

(キスくらいなら……)

 抱いた京子の肩を引き寄せる。

「京子……」

「……は、はい」

 声が上ずっている。抵抗するつもりがあるのかもしれないけれど、実際問題京子は一矢に抱き寄せられるまま逃げる様子がない。青に変わった信号を視界の隅で軽く無視して、顔を近づける。


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