第3話(2)
無意味にペットボトルを弄びながらちらりと啓一郎に目線を走らせる。昨日はつくづく自分以外のメンバーの恋愛模様を目撃する羽目になった日だった。
「……あっち、行こうか」
どこか浮かない表情で立ち上がる啓一郎に従って、立ち上がる。レコスタのコントロールルームへ続く扉に和希が手を掛けるのを見ながら、ペットボトルを折り畳み式のテーブルの上に乗せた。
「お、おはよう。ちゃんと揃ったね」
コントロールルームに入ると、サウンドプロデューサーとしてついている広田がこちらに笑みを向けた。昨日、レコード会社のディレクターだと言って紹介された人物は姿がない。ディレクションをしているのが結局広田であることが何か関係しているのだろうか。余りその辺の事情は良くわからない。
「おはようございますー」
「おはようございまーす」
メインエンジニアの中丸とアシスタントエンジニアの辻川が挨拶をくれる。スタジオの奥には、レコード会社の担当者である三科と言う女性の姿が見えた。彼女もこちらに挨拶をくれる。その隣の椅子では、佐山がひらひらとこちらに向かって片手を振った。
「ちゃんと揃ったってどういう意味ですか」
広田の言葉に和希が笑った。何だかんだ言いながらも、和希はそつなく広田との関係を築いているようだ。自分以外のレコーディングの時にもずっとコントロールルームにいるのだから、いろいろ話をしているのだろう。一矢にしてみれば昨日のレコーディング体験で既に広田は『鬼』か『悪魔』にしか見えなくなっている。
「いや、自分の録りがないとだらけてくアーティストも少なくないからね。意外とオンタイムで揃っているところにびっくりだよ」
「武人、どうですか」
「いいね。今日は、良い音出してるよ」
コントロールルームの中には、現在録っているだろう武人のベースの音だけが響いている。
「中丸さん、ちょっとオケ出してもらえる?」
「はい」
広田が中丸に声をかけると、中丸がコンソールのスイッチを端のチャンネルから次々と押していく。その操作にあわせて、ベース以外のオケが流れ出す。それぞれのチャンネルにかけていたミュートスイッチを解除したのだろう。
録音をする際に、当たり前だが何のガイドもなければ音を録れない。そもそもオケはひとりで音を出しているわけではないのだ。ドラムやベースは通常クリックと呼ばれるカウントを聞いたりはするが、それだけで音楽が出来るわけではない。その為に昨日、レコーディングをする際にアーティストのガイドとなる音――プリプロを一発録りで録音している。中丸が解除して流れ出した他のパートの音は、その時の音だ。尤も、ドラムだけは昨日正式なレコーディングを終えているので、ディレクションされた後の音である。プリプロとして録った音の上に、それぞれのパートの音を上書きする形で録り直していくのだ。いろいろなやり方があるだろうが、広田はそれが自分のやり方だと言っていた。他の人の録音を知らないので、一矢などは「そうですか」と言うしかない。
「……あ、いいですね」
黙って音を聞いていた和希がぽつっと言う。コンソールの正面にあるガラス窓からはスタジオの様子が見え、ついでにその上方にあるモニターの中にも武人の姿が見える。昨日の蒼白な顔色が嘘のような、落ち着いた顔つきをしているような気がした。まだわからないが、これなら立ち直りは早そうだ。
1曲終えるまで、黙ってその場で武人のレコーディングを見守る。辻川がマッキントッシュのキーを叩いて録音をストップすると、広田は手近なテーブルに置いてある2ボタンの小さな機械に手を伸ばした。トークバックスイッチだ。そのスイッチを押すことによって、こちらの声があちらへスピーカを通して伝えられる。
「じゃあ武人くん、1度こっちに戻っておいで」
昨日散々言いたいことを言ったのか、今日の広田は穏やかだ。モニター画面とガラス窓の向こうの双方の武人が、ヘッドフォンを外しながら頷いた。ベースを置いてこちらに歩いてくる。
「あ、一矢さん、ちゃんと来たんですねー。おはようございまーす」
小憎たらしいことを言いながら爽やかな笑顔を浮かべてコントロールルームに入ってくる武人に、苦笑いを返した。
「はよ。調子、いいじゃん」
「今日は無敵です」
「じゃあプレイバックしまーす」
辻川の言葉が途切れると同時に、オケとベースが流れてきた。ベースの音が良く聞こえるよう、レベルは大きめに出してある。聴く限り、広田の言う通り良い音を出しているようだ。ドラムと絡んだ、邪魔にならない存在感を出している音。
「……あ、駄目。何か、音が細い……」
「位相切り替えてみてくれる?」
「はい」
「ああ、こっちの方が良いね……」
「もうワンテイク、いってもいーですか」
本人はとにかく気になるところがあるらしい。食い下がる武人の言葉に広田が笑った。
「何だか今日は立場が逆になりそうだね。どうぞ。じゃあもう1度、録っていこうか」
「お願いしますー」
いやに元気にスタジオに戻っていく武人の背中を見て、一矢は小さく吹き出した。さすがだ。これならきっと、心配ないだろう。
別れさえも成長の糧にして、次の恋愛ではきっと、上手く立ち回れるようになれるだろうから。
◆ ◇ ◆
昨日の不調が嘘のような絶好調ぶりで武人の録音が終わると、和希のギター、美保の代打としてキーボード、そしてそれぞれのオーバーダビング(重ね録り)がある。とりあえずオケが何となく固まったところで、ヴォーカル録りの為に啓一郎がスタジオに入っていった。残ったメンバーで佐山と共に、正式なロゴをどうするだのジャケ写のイメージをどうするだのと言った打ち合わせを済ませ、結局またも暇な時間が訪れる。
「武人、学校行くんじゃなかったの?」
一応武人は平日である今日、録音の後に学校に行くつもりで制服である。制服ではあるが、現時点で既に3時を回ろうとしている。もはや『遅刻』と言うレベルではない。
「行くつもりはあったはずなんですけどねぇ……」
「連絡、した?」
「姉貴が朝俺の代わりに『具合が悪くて遅刻します』って連絡しといてくれたんで、なし崩しで『具合が悪くて来なくなっちゃった』にスライドしてんじゃないですか?」
「……」
武人には姉が確か3人ほどいるが、1番上の姉が武人のバンド活動に大変協力的である。大変協力的ではあるが、「そんなことでいいのか?」と突っ込みたくなる。
とは言え、一矢自身も人のことが言えるような品行方正な高校時代を送った記憶はないので……大きなことは言えない。
「和希は?」
「俺?俺はまだ冬休み中だもん」
「……大学って緩いとこなのね」
「4年ともなれば尚更だよ」
今更だが、和希は未だ大学生だ。あと2ヶ月で卒業するのだからもうそれほど行かなければならないこともないのだろう。大学どころか高校すらまともに出ていないのだから、一矢にはどういう仕組みになっているものなのか良くわからない。わからないが、和希はともかく明弘が大学生をやっていられるくらいだから……日本の教育制度に思わず疑問を覚える。
「これ、啓一郎さんが詞をつけてたやつ?」
「ああ、そう」
「聴いてもいいですか?」
「どぉぞ。まだ粗いよ」
「……メンバーの俺が初めて聴くんだから、そんなのわかってます」
和希の返答に笑いながら、武人は啓一郎が放り出していったポータブルプレーヤーを取り上げた。昨日啓一郎が「歌詞を上げた」とか言っていたやつだろう。イヤフォンを耳に嵌めるのを見ながら、和希が暇そうにギターのメンテナンスを始める。ぼんやりとそれを視線で追い、昨日、京子と会った後のことを思い出した。事務所の外に、所在なさそうに佇む和希の彼女の姿が蘇る。
「……由梨亜ちゃん、昨日、何か言ってた?」
それを眺めながら口を開いた一矢に、まだ曲の再生をしていなかったらしい武人がイヤフォンを嵌めたまま顔を跳ね上げた。
「あ、そうだ、和希さん」
「ん?」
「昨日羽村に悪かったですね。謝っておいて下さい」
「……どうせ明日学校で会うんだから自分で言ってよ」
「ほとんど口利きませんもん。どうやって声かけていいのか良くわかんない」
言いながら武人の目線が下を向く。指先でリズムを取り始めているから、耳元で音楽が流れ始めたのだろう。そのままそっちの世界へ旅立ってしまったらしい武人に、軽く眉を上げてから、和希が一矢に視線を戻した。
「……何かって?」
「何も言ってなかったら別にいーんれすけろ」
和希の彼女である羽村由梨亜は、一矢の5歳下――武人のクラスメートである。ヨーロッパのどこだかと日本人のハーフで、人形のような可憐な容姿の持ち主だ。何度かGrand Crossのライブに来てくれて、のみならずメンバーやその周辺の人間と一緒にスタジオに顔を出したり遊んだりしていたことがある。その中で自然と、啓一郎、和希と三角関係のようになってしまったのだろう。まあ、良くある話だ。
一矢から見ていて最初のうちは啓一郎とくっつくかと思ったが、思いがけず最近……それこそ武人とほぼ同じ頃に、和希と付き合い始めてしまった。3人の間に何があったかは一矢は詳細を知るわけではないけれど、啓一郎が痛手を負ったのだろうことは予想がつく。
そのせいか、和希と付き合い始めてからは由梨亜もスタジオなどに顔を出すことがなくなった。それがどういう風の吹き回しか昨日……差し入れを持って事務所を訪れた。
どうしようか迷うような素振りをしていた由梨亜を、事務所の入り口からスタジオまで連れて上がってしまったのは一矢である。こちらも迷いはしたものの、見つけてしまったものを放っておくわけにはいかない。武人の言葉は、昨日、差し入れを持ってきてくれたにも関わらずろくに礼も言えずにスタジオを飛び出していってしまったことを指しているのだろう。武人は武人でのっぴきならない事情があったのだから致し方ない。
「別に、何も……」
曖昧な顔でまたギターに顔を落とす和希の横顔を見て、由梨亜が何も言わなくても和希が何か言ったんだろうと言う予想がついた。
一矢が由梨亜を連れてスタジオに戻ると、その姿を見て啓一郎がスタジオを出て行ってしまった。やはり傷が癒えるにはまだ日が浅かったようだ。悪かったとは思うが、一矢自身どうすれば良かったのか判断がつかない。和希もその後を追うようにしてスタジオを出て行ってしまい、まさか由梨亜を放って一矢まで出て行ってしまうわけにはいかないので、一矢は由梨亜のフォローをする為にスタジオに残った。ともかくも椅子を勧める一矢に、立ちすくんだままの由梨亜が泣きそうな眼差しで俯いた。
「やっぱりわたし、無神経だったでしょうか」
一矢が知っているものと思い込んでいるらしく、問うでもなく呟く姿に、正直なところどうしたものか困った。誰に直接何を聞いているわけでもないのに、余り余計なことは言えない。とは言え、啓一郎のことを思えば、無責任に由梨亜を励ますわけにもいかない。
「そうは、言わないけど……」
「わかっては、いるんです。でも、だけど……」
一矢の返答に、由梨亜は手に抱えたバスケットを握る手に力を込めて俯いた。
「……だけど、このまま会わなくなるんじゃ、本当に気まずくなりそうで。あんまり時間を置いたら、もう、口もきいてもらえなさそうで」
「……」
「わたしは和希さんと付き合ってるけど、そういうの、関係なく、前みたいに、みんなで……」
途切れ途切れに言葉を紡ぐ由梨亜としても、啓一郎と恋愛を間に挟んでの亀裂を作りたくなかったのだろう、とはその言葉と顔でわかる。
わかるけれど、好きな女の子と友達が付き合ってしまい、それを目の前で見せ付けられる啓一郎の気持ちの方が、よりわかる。
「それは、わかるけどさ。……もう少し、時間をやってくれてもいーかもしれないよ?」
「……」
「だーいじょぶだって。あいつだってガキじゃないんだから、すぐにまた前みたいにあっけらかんと話すようになるから」
今だって、普段見ている限りではどのくらい傷ついているのかわからない。と言うか、他人から見てわかるほどには表に出さない。だからその実、内面はわからないけれど、多分表に出すまいと言い聞かせているのだろうし、和希に対する態度だって、別段これまでと変わりのないものだ。
誰が悪いわけでもないものを、他人に押し付けるような奴でも、後々までこだわるような奴でもないはずだ。ただ、今はまだ立ち直るには少し早い。
「だから、少し、時間をやって」
「……はい」
「んじゃあ、せっかくだからいただこーかな。手作り?凄ぇ……」
「……」
「……すぐ戻ってくるって」
一矢の言葉を裏付けるように、何を話したのかやがて啓一郎と和希は連れ立って戻ってきた。多分、相当努力をして、笑顔を作って、何気ない顔で。
普段、落ち込んでいる様子をまるで見せないだけに、無理している笑顔が実情内心は相当へこんでいたんだろうと思わせた。可哀想になる。
その後、武人のレコーディングが中断をして出てきたので、後を追って一矢もスタジオを出てしまったから、残された3人がどうしたのかはわからないけれど……。
妃名にしろ、由梨亜にしろ、女性は残酷だ。2人が悪いと言う話ではなく、多分そういう生き物なのだろう。男とは脳の回路が完全に違う。いわば別の生き物だ。考えていることなど永久にわかるはずがないし、それにこうして振りまわされる男の方も悪いだろうか。
……それでも手に入れたいと思わせる誰かの為だったら、それでも、構わないのかもしれないけれど。
少なくとも自分は、今しばらくはそんなふうには思えそうにない。
「いーなあ、何か遊びたくなっちゃった」
何を思っているのか黙ってギターのメンテナンスに励む和希の横顔を見ながらそんなことを思っていると、不意にイヤフォンを外した武人がそんなふうに顔を上げた。
「はあ?」
「和希さん、シーケンサーとか持ってきてないんですか」
「……そんなもん、用もないのに持ち歩いてると思う?いくら俺でも」
「何だ、和希さんって機械オタのトコがあるから持ってるかと思ったのに」
「……」
無言で肩を落とした和希に笑いながら、武人はポータブルプレーヤーの再生を止めてイヤフォンを巻き取った。
「何、遊びたくなったって。高校生」
「俺、今日はもう高校生休業」
「んなこと言ってないで行きなさいよ」
「行かなきゃまずいかなあ」
言いながら武人は仕方なさそうにバッグを掴んで時計を見た。
「行っても無駄でしょ?だって」
「う、うーん」
「ここ、機材室までちゃんとあるんだから、シーケンサーのひとつくらいあるんじゃないですか。さーちゃんに聞いてこようかな」
「何する気?」
眉を顰める一矢に、武人がバッグを床に再度放り出しながら、笑い返した。
「メンバーが揃って暇してんだもん。……せっかくだから、何か曲作りましょう」
◆ ◇ ◆
武人は結局学校に行く気をなくしてしまったようだ。元々和希は曲作りだの機械弄りだのが好きだし、2人に引き摺られるような形で武人が佐山から借りてきたシーケンサーを相手にあれやこれやと曲を作り始めることになってしまった。
それはそれで構わないが、「リズムを最初において曲を作り始めるとどんな感じになるのかなあ」などと和希が言い出したおかげで、ちまちまと小さなキーボード相手にドラムのリズムを刻む羽目になって肩が凝る。ばかすかスティック握ってタイコを叩くのとはわけが違う。だるい。
煙草を買いに行くという理由で無理矢理スタジオを脱け出した一矢は、肩をぐるぐると回しながら階段を下りた。ポケットの煙草を探る。買う必要など、実はない。要はただのさぼりである。
ロビーで煙草を吸っていこーなどと舐めたことを考えながら3階、2階と階段を下りていくと、ロビーに人影が見えた。つくづく縁があるようだ。紫乃である。
「あ」
回れ右をしようかと思っていると、先方の方が先にこちらを見つけた。お構いなしに踵を返す。
「そんじゃあお疲れ様〜」
明らかに紫乃の姿を見て回れ右をした一矢に、紫乃ががくっとソファに座ったままでコケた。怒鳴り声が追いかけてくる。
「ちょっとッ。それはいくらなんでもあんまりとか言いませんか!?」
「だって俺の顔見るとがたがた言いそうだもん」
「言うかもしんないけど」
「だから言われる前に撤収」
「……いーよ、わかったよ、言わないよ別に」
折れることにしたらしい。紫乃の言葉に、一矢はもう一度くるんと振り返った。確かにこのまま本当に戻ってしまっては、それはそれで後味が悪いような気がする。
「あーたも暇やねぇ……」
「……暇なわけじゃ、ないけど」
「いっつもここにおりません?」
「……」
階段を下りながら煙草を咥えると、紫乃の座るソファの方へ向かう。一矢の言葉に、紫乃は微かに複雑な表情を浮かべた。
(……?)
首を傾げて煙草に火をつける。
「D.N.A.って今、何してんの」
「……ツアー、やろうって話で、打ち合わせ打ち合わせ打ち合わせ」
「ああ、それで……」
事務所で良く見かける理由が分かった。
「ウチのコーラス録りっていつやるんだっけ」
「来週……神田くんたちの録りが終わった後で」
「来週の?木曜だっけか」
「そう」
何か、勢いが足りない。
内心首を傾げながらそんなふうに思う。ここにいる理由を聞いたのがそんなに悪かったのか、元々テンションが低かったのか。
ともかくも噛みつかれないことにほっとしていると、紫乃は微かに目を伏せてため息をついた。やはり少し元気がないように見える。
「……どしたん?」
噛みつかれないとくれば、元々無節操に女の子に優しい一矢としては黙っているわけにもいかない。首を傾げて覗き込むように尋ねると、紫乃は浮かない表情のまま顔を横に振った。
「どうも?何で?」
「大人しいから」
「……ヒロセが大人しいと変ですか」
「変。昨日はあんなにぎゃんぎゃん噛み付いてきたくせに」
「ぎゃんぎゃんって……」
すとん、とソファに背中を預けながら、紫乃が苦笑を浮かべる。
「……悪かったですよ。あたしの言い方が悪かった」
「そうでしょ?」
「……あんたも少しは反省してくれる?何か一方的に反省しているヒロセが馬鹿みたい」
反省のカケラもない一矢の言葉に、紫乃は少し顔を顰めた。とは言っても一矢の方には反省する理由がない。
どうやら紫乃は、『一矢が京子をホテルに連れ込んで悩ませた。以上!!』で、答え合わせは知らないらしい。京子も京子だ。中途半端な情報を与えて放っておかないで、ちゃんと最後まで面倒を見て欲しいものである。
「紫乃ちゃんってさー」
「うん」
「前にOpheriaのサポートキーボーディストだったの?」
佐山が確かそのようなことを言っていた。確認すると、紫乃はこくりと頷いた。
「……うん……まあ」
歯切れが悪い。