プロローグ
女性に期待をしなくなったのは、何がきっかけだっただろう。
信用出来ないから、最初から信用しない。
心を許さなければ、裏切られることはない。
お互いに利用して遊ぶだけの関係、それだったら楽しいだけで済む。
「……んで、ライブの後は時間あるんでしょ」
片手に持った携帯を耳に押し当てたまま、空いたもう片方の手で煙草をくわえる。
寄りかかった壁には乱雑な落書きがされ、背中には中から漏れてくるドラムの低い振動が伝わっていた。
「え? 決まってんじゃーん。デートしよ、デート」
軽い口調の割には表情に明るさはない。電話の相手はそれには気づかず、笑い声を上げた。
相手の言葉に相槌を打ちながら煙を吐き出していると、ライブハウスに続く階段から誰かが上がってくるのが見えた。
(……あれ。あのコ)
以前から見覚えのある女性だ。年は多分自分と同じくらいだろう。黒くて長いさらさらの髪、男っぽそうな、少し気の強そうな目元。
さして美人と言えるわけではないが、何となく印象が強くて覚えている。きらきらと輝く黒曜石のような大きな瞳が、今は微かに曇っているように見えた。誰かを探すように辺りに視線を彷徨わせている。こちらは陰になっているのか、自分の存在には気づいていないようだ。
「え?うん、聞いてるよ。……ああ、うん……」
適当な相槌を返しながら、何となく彼女を見つめる。視界の中、彼女は携帯を取り出しては躊躇うようにしまい、駅の方角へ向かって歩いていった。帰ってしまうようだ。
「……うん。……うん。……んじゃあ明日」
通話を終えた携帯をポケットにしまい、吸っていた煙草を入り口間近の灰皿に放り込む。
自身も出演したライブイベントもそろそろ終盤、出演者も来場者も、揃いも揃って酒が回り始めていて、いささか『どんちゃん騒ぎ』めいた雰囲気が伝わってくる。
軽快な足取りで、暗い階段を地下に向かって降りていく。更に下へ続く階段の手前、フロアへ続くドアに手を伸ばしかけて、不意に背後から小さな声が聞こえるのに気がついた。手を止める。
「うぅん……はぁ〜……ン、ん〜……」
女性の声だ。寝言のようなおぼつかない小さな声。
聞きようによってはどこか色っぽくもあるその声にぎょっとして振り返るが、姿はない。どうやら下に続く階段の陰に姿が隠れて見えないらしい。
(……?)
少し、迷う。
誰かが酔った女の子をナンパでもして連れ込んでるならまだ良いが、具合が悪くて呻いてるのであれば放置は出来ない。
「う〜……ん……」
少し様子を窺ってみると、どうやらひとりらしい。まだ少し迷いつつも、扉から手を離してそちらに足を向ける。
「もしもーし……」
覗いてみると意外にすぐ近く、下り階段の上の方でショートカットの女の子がくてっと座り込んで壁に寄りかかっているのが見えた。降ってきた声にちらりと顔を上げるが、またすぐに目を閉じる。泥酔しているらしい。
「……なーにしてんの。こんなとこで」
声をかけてしゃがみこみながら、見覚えがあることに気がつく。
どこかで引っかけたことがあるだろうか。ナンパなんかし過ぎていて、相手の女の子の顔なんていちいち覚えてはいない。
「放っておいてよぉー……」
呂律がかなり怪しいので『ほおっておいへお』に聞こえる。その顔をまじまじ見ながら内心首を傾げた。
(ナンパじゃないなら客かなあ)
しゃがんだ自分の膝に頬杖をつきながら、首を傾げる。自分らのバンドを見に来たりしてくれたコだろうか。だとすれば見覚えがあっても……。
(あ……)
そこまで考えてから気がついた。見覚えがあったのは彼女ではない。彼女のツレだ。
さっき帰って行った、黒曜石のような瞳の女性。彼女と一緒にいるのをフロアで見かけたせいで、覚えていたのだろう。
彼女は多分、何度か自分たちのライブに来てくれている。さっき誰かを探しているふうだったのは、このコを探していたのだろうか。帰ってしまったようだが、どうなのだろう。
「オトモダチは?」
しゃがみこんで他人事のように見物しながら尋ねる。泥酔している女性はしばらく無反応だったが、やがてゆっくり顔を上げた。視点の定まらない目を向ける。
「シノちゃんのこと……?」
「……いや……知らんけど」
あの女性は『シノちゃん』と言うらしい。ではこのコは『何ちゃん』なのだろう。
「君は?」
「なーにがぁ」
「名前」
尋ねてみると、彼女はぼんやりしたまま小さく「キョオコ」と呟いた。
「んじゃキョウコちゃんさ、こんなとこでひとりで寝てたら、危ないよ?」
「んー……」
「そのさ……シノちゃんを呼んでくるから、待ってられる? どこにいる?」
伊達にメンバーから『ナンパ師』呼ばわりされているわけではない。女の子の扱いならそこそこ慣れている。
優しい声で覗き込むと、キョウコは小さく首を振った。
「ううん……いらーない」
「は?」
「シノちゃん、もお帰ったんらないかなあ」
「何で」
やっぱり帰ってしまったのだろうか。友達をこんな状態で放って帰るのは少々薄情だ。
そんなふうには見えなかったが何分『シノちゃん』を知らないので、何とも言えない。やや眉を顰めながら、もう一度尋ねる。
「何で、帰っちゃったと思うの?」
「だあって、さっきれんわが来たもん。『帰るからろこいるの』って言うから、『キョウコ、もうおうちに帰る』って言っちゃった」
帰ってねぇじゃん!!と思わず突っ込みたくなりながら、ぐらりと揺らいだ体をごんと頭をぶつけた壁で支える。
「……キョウコちゃん」
「あーい」
「……良かったら電話、貸してもらえる? 俺が代わりにシノちゃんに連絡してあげるから」
迎えに来させるしかないだろう。自分だっていつまでもここでキョウコのお守りをしてやるわけにはいかないし、と言って放置は出来ない。
素直に頷いたキョウコから携帯を受け取って、着信履歴を表示させる。
『広瀬紫乃』――多分これだろう。
勝手に決めてリダイヤルをしてみるが、相手は移動中なのか圏外だ。重ねてかけてみるが、結果は同じだった。
(どーしようかなあー……)
別に知り合いではないのだから、放っておいても責められる謂われはない。大体、若い女の子がライブハウスなんかで泥酔してる方が悪いのだ。
そうは思うのだが。
「……帰れる?」
「帰れなーい」
「……ですよねー」
はあっとため息をつくと、うなだれて携帯を返却する。
女の子をテイクアウトするのは慣れたものだが、前後不覚につけ込む趣味はない。自分の家に連れて帰るわけにはいかない。
「どうする?」
「飲むー」
「……もう飲まない」
仕方がない。このまま放置しておけば、自分以上にタチが悪いのに引っかからないとも限らない。自分ならまだましな方だろう。ホテルにでも放り込んでおこう。
「頼むから、せめて歩いてくれる?」
「いや」
「……立って」
俺って結構お人好し……とうなだれて手を出す。キョウコは嬉しそうに笑って、その手を掴んだ。
「どこ連れてってくれるの?」
「……俺がアブナイおにーさんだったらどうするの?」
「あぶないおにーさん?」
「何でもないよ……ほら」
何とかキョウコを立ち上がらせる。
よたよたと足元のおぼつかないキョウコを支えながら階段を上がりきると、ふらふらと踊り出しそうなキョウコを引き留めながら空車のタクシーを探した。
『シノちゃん』が、再び電話をくれれば良いのだが。
(……)
心配そうに辺りを見回す姿が蘇った。
ライブを何度か見に来てくれているのなら、自分のことは多分知っているだろう。
友達をホテルに連れてったと知ったら……別に悪さをしようと言うわけではないとは言え、心象は悪そうだ。プロを目指している自分にとって、ファンが減るのは少し困る。それにあの気の強そうな眼差しを思い出すと、「怒ったら怖そうだ」と言う気が何となくした。
と言って、仕方ないものは仕方ない。
内心、何となくため息をつくそのポケットの中で不意に携帯が鳴った。悪いが出られる状態にない。ようやく捕まったタクシーにキョウコを放り込む。
(じゃあお疲れってわけには……)
いかないだろうなあ……としばし逡巡して、仕方なく自分もタクシーに乗った。すぐその辺のホテルのベッドまで連れて行ったら帰って来よう。それでとりあえずのところは問題あるまい。
「どちらまで?」
「一番近いホテルの前でおろして下さい」
運転手の視線が痛い。どう譲歩したって『泥酔した女の子を連れ込もうとしている若い男』と言う図式は否定出来そうにない。
(……って何か出来る状態かよコレ)
細々と内心反論しながら、携帯を取り出す。
キョウコはにこにこと機嫌良さそうに、肩にもたれかかっている。可愛いと言えば言えるし、役得と言えば言えるのかもしれないが。
(やべぇ……)
吐息をつきながら視線を落とした携帯のディスプレイに、思わず顔をしかめた。バンドのヴォーカルからだ。自分を探しているのだろう。ライブが終わった後、機材などを楽屋に放りっぱなしだ。
「もしもーし」
仕方なくかけ直すと、待っていたらしく相手がすぐに出た。
「お前、どこいんだよッ」
「ごめーん。ちょいと野暮用」
「はあ!? 撤収手伝えッ戻って来いッ」
戻れない。
「撤収しといて」
「ふーざーけーんーなー」
「ちょっとね……戻れないんだわ、今」
唸るように言うと、相手も怒鳴るのをやめた。短い沈黙の後、声が続く。
「……女の子引っかけてるとか言ったらはたくぞ」
「うーん。引っかけたわけじゃないんだけどー……」
どう説明したものか。
シートにすとんと寄りかかる視界の中で、運転手がウィンカーを出して停車の姿勢に入るのが見えた。
ピンクの、いかがわしいネオンライト。
「……明日、AQUA MUSEのチケットおごる」
「はあ? 俺、ライブに行くなんて言ってね……」
「ごめんねー。よろしくぅ」
一方的に通話を切ると、運転手が振り返った。
「ここで良い?」
もうどこでも良い。
「はい」
いたたまれないながらも肯定していると、肩から顔を起こしたキョウコが覗き込むように笑顔で尋ねてきた。
「君は?」
「……え?」
「名前」
不意を突かれて、一瞬黙る。
それからキョウコを見返したままで、短く答えた。
「……カズヤ」