闇の一手
そして、再び声が響く。
『ザルード、やっと会えたわ』
誰もが微動だにしない。
目の前にまで泥人形が迫ったザルードでさえ、一歩も動かない。
だが、皆の視線は泥人形に釘付けだった。
足を止めた泥人形は、その腕をザルードへと伸ばす。
愛おしい人へと抱き付く様に。その漆黒の両腕が、ザルードの背中へと回され――
「うぐああああああああああああああああああああああああ」
ザルードの、耳をつんざかんばかりの大きな叫びに依って、それまで周囲を包んでいた静寂が破られた。
何が起こったのか。
泥人形がザルードに抱き付いた。それは分かる。だが、それが何故あれ程の悲鳴を上げる結果となっているのか。
凄まじい力によって締め上げられている訳ではない。それは、どう見ても優しく抱擁している姿にしか見えない。
と、そこで思い出す。
その姿形に気がいってしまって、それが何なのかという事をすっかり失念してしまっていた。
つまりあれは、人を狂わす黒きアルドの塊なのだという事。それに触れればただでは済まない。
抱き付いたという行動に依って、そんな事さえも頭から抜け落ちてしまっていた。抱き付かれたからではない。あの絶叫は、触られたからなのだ。
そんな僕の頭の中の働きよりもいち早く状況を察したのか、視界の中に動く影があった。
時雨だ。
能力を使っての疾走であろう。疾風の如くザルードの背後へと迫ると、その両肩をつかんで思いっきり後ろへと体を引っ張る。
見た通り、背後へと回された泥人形の腕にはほとんど力が込められていなかった様で、その身体はいとも簡単にその腕を振り解き、力任せに後方へと黒き抱擁から引き離された。
その腕の中から感触が消えた事に対し、不思議そうに小首を傾げる黒い泥人形。
対する時雨の足元には、ゼイゼイと大きく息を乱すザルードが横たわっている。
「姉さん、星河さん――こいつの治療を頼む」
時雨はそう二人へと言いながらも、泥人形への視線を外さない。
そして、一歩前に出て、ザルードをかばう様にその身の後ろに隠す。
「分かったわ、星河さん――」
「うん」
来夢と星河が頷き合い、ザルードの元へと駆け寄る。
そんな周りの動きには我関せずといった感じで、泥人形は不思議そうに自らの手を眺めている。
まるで、腕の中の感触が急に無くなったのが何故なのか分からずに、混乱しているかの様に。
「ったく、何なんだ、あいつは」
時雨がそう悪態を吐く。
「感情が有る様で、無い…そんな感じね」
そう美来さんが感想を漏らす。
「確かにな。彼の知り合いの姿の様だが…もしかしたらその感情をも模しているのかもしれないな」
父さんがそう言葉を続けた。
二人が言う通り、アレの行動は人間の様に見えてそうではない。もっと知性の低い生き物の様な…。姿を模しているのだとしたら、その行動も模しているのかもしれないという父さんの意見は間違っていないのではないだろうか。
そして、その予想は当たっていた様だ。
不意に、泥人形の表面がうごめいた。と、次の瞬間、その形が急激に変化する。
身長が十センチ近く大きくなり、丸みをおびて居たその身体はごつごつとした物へと変わる。
それが、西洋の甲冑鎧を身にまとった姿だと気が付いたのは、肩部や腰部分の出っ張りが異様に大きくなったがためだ。
顔にあたる部分も大きく変化し、髪の毛は短く、額には鉢巻の様な物を巻いている形へと変わる。
その姿はどう見ても――ザルードの姿を模したものだった。
呆気に取られる僕達の前で、新たな形へと姿を確定させた泥人形は顔を上げる。
上空に何かあるのかとその視線の先を追うが、何も見当たらない。
次の瞬間、先程の頭の中に直接響く様な声が、再び聞こえてきた。
『我はザルード=ガルティア。アンビシュンが皇帝サイタニアの第一の剣。三つの至宝を持ち帰り、シュトゥルーを救う……それが我が使命』




