うごめく悪夢
地面に落ちた汚泥の形がゆっくりと変わり出す。
周囲に飛び散っていた跡が段々と中心へと集まって行き、盛り上がり出す。
その中心の盛り上がりは、最初に地面に落ちた様に見えた汚泥の量よりも遥かに多くなり、ボコボコと地面から湧き上がる様にして大きさを増していく。
それは、ザルードが引き連れていた魔物達をさらに薄気味悪くした、不定形のうごめく魔物の様な姿となる。
と思ったら、その泥の塊の様な姿が、急激に形を変えていく。
一瞬にして姿を変えたそれは、二足で地に立っている、人の様な姿――否、人と変わらぬ姿へと変わっていた。
真っ黒な色は変わらずに、その泥は細身で柔らかい曲線で形作られた人型になる。
後頭部に当たる部分は、長い髪の様に体の後ろに伸びている。
どう見ても、女性の体を模した様なその泥の塊は、
「グガガ…グ…グガガ」
先程から聞こえているのと同じ音で、言葉にならない声を漏らす。
「お父さんあれは、凄い…凄い濃いアルドの反応が――」
星河が父親に向けてそう口にする。
驚愕、畏怖――そんな心情がその表情から見て取れる。
その理由は、僕にも分かった。そう、アルドが感じられる様になった今の自分にも。
目に見えるのは真っ黒な泥人形。確かに、それだけでも異様な光景で、恐怖するに値するだろう。
だが、アルドを感知する事が出来るならば、それ以上に異様な物が感じられる。
はっきり言って、その泥人形から感じるアルドの反応は有り得ない程大きかった。それこそ、百メートルの高層ビルディングが人の大きさにまで圧縮された様な、そんな密度をもって大量のアルドがそこに渦巻いていた。
「せ、星河、とりあえずは何もするな。あれが何なのか分からない。危険なものなのかそうでないのか――何か動き出すまでは、こちらから手を出す様な事はしない方が良い」
修司さんがそう星河に言い聞かせる。
修司さんは星河の父親ではあるが、クレセントムーンの継承者の家系の者ではないし、アルドに関する能力の訓練は全くしていない。
だから、あの高密度のアルドの化け物に対して何かするという事になっても、修司さんは手を出せずに、星河がまず対処する事になる。そのための星河への言葉だ。
「分かっている…。分かっているわ、お父さん。でも――」
クレセントムーンの力でも、あれに対処する事が出来るかどうか…そんな言葉が後には続いたのだろう。それだけ、強大な力をそこには感じるのだ。
けれども、その言葉が発せられる事は無かった。
何故なら二人の目の前に、新たに二人の人物が現れたからだ。
「おいおい、こいつはどういう事だ?」
と、リーゼントでひげをたくわえたダンディーな中年男性の言葉。
「不用意に大声を出して、アレを刺激しないでくれるかしら?」
若干、刺々しさを含んだその男性へと向けた言葉を発したのは、男性と同じ様にスーツ姿の女性だ。
「紫雲さん、美来さん!」
明らかに喜びの感じられる声で、星河が二人の名を呼んだ。
「二人とも、来てくれたか」
こちらは、ほっと息を吐く様な修司さんの言葉。
「そりゃあ、元々そういう段取りだったからな。にしてもだ、こいつはちょっとイケてないぜ」
そう言った紫雲さんの視線の先では、真っ黒な人型がドロドロとうごめいている。
二人の登場にも特に反応は見せず、ただ自らの形を確定しようとしているかの様に、女性の形を維持しながらも表面の形が変わり続けている。
「様子を見た方が良いのかしら。それとも、動き出す前に先手を打った方が……」
美来さんの呟きに、
「とりあえず、皆が揃うまでは待った方が良いんじゃないでしょうか?」
四人が居るのとは別方向から女性の声が返ってきた。
「来夢、来たか」
紫雲さんが名を呼び、新たに到着した人物が四人の傍まで歩いて来て足を止める。
「やはり、お父様、お母様よりは遅くなってしまいましたか。すみません」
申し訳なさそうに頭を下げる来夢に、
「良いのよ。私達の方が慣れた場所で、ここまで来易いのは当然なんだから」
笑顔で美来がそう言って返した。
そして、再び新しい声が響く。
「よーう、お待たせさん」
それは、僕と一緒に居るはずの、父さんの声だった――――




