ハーレム・イン・ザ・ダーク
思いつきで書きました。
残酷な描写が多々あるので、苦手な人はお引き取り下さい。
夕暮れの教室で、綾小路孝之は茫然と佇んでいた。
彼の目の前にあるのは、さっきまで人間だったものたち。常日頃から何気ないことで言葉を交わし合った人たちが、今や絶え間なく紅い液体を垂れ流すだけの物体と化していた。
彼は虚ろな目のまましゃがみこみ、1番手近にある身体に触れた。
瞬間、彼は息を呑んだ。ついさっきまで温かかったはずのその身体が、今や身の毛もよだつほど冷たかったのだ。
「奏……」
彼はそう呟くと、自身の手をその死体の顔の方に持っていく。その顔の額には10円玉ぐらいの穴が空いていて、そこから紅くてドス黒い血が溢れ出していた。
孝之は死体の輪郭をなぞった。その絶望的なまでの冷たさが彼の心まで凍てつかせていく。
堪らなくなり、彼は身体を抱きかかえようとする。だがその瞬間、硬直した死体のあまりの固さに彼は戦慄し、その身体を取り落としてしまった。
グチャリという何かが弾け飛ぶ音と共に、死体の後頭部近辺に赤黒い物体が飛び散った。
「うっ……」
それが何かを理解した途端、彼は湧き上がる吐き気を堪えきれず、生理現象のままあたりに吐瀉物を撒き散らした。
彼はふらつく足で立ち上がる。だが、いくら見渡しても教室内に生きた人間はいなかった。眼に映るのは、沢山の女の子たちの死体だけ。その手には、銃やナイフなど思い思いの武器が握られたままだった。
なぜこうなったのか、何が彼女たちをここまでの凶行に走らせ、どうしてこんな惨劇を巻き起こしたのか、それは彼には分からなかった。ただわかっていたのは、彼女たちが求めたのは彼一人であったということだけであった。彼を求め、手に入れるために争った。単純なことだ。だが、だからといってこの状況を理解できるわけではない。彼自身、自分にそこまでの価値があるとは思っていなかったし、争いがここまで凄惨なものになるなんて思ってもみなかったのだ。
きっかけは1人の少女が、ナイフでクラスメイトの腹を刺したことだった。孝之と話していたのは幼馴染の沙羅だった。そんな彼女の腹部を、あるクラスメイト(いやこの場合は彼のハーレムを形成していた要素の一人とでも言おうか)が突然ナイフで一突きしたのだ。彼女の口から吹き出される血。彼女自身、何が起こったのか、なぜ自分は血を吐いているのか全く理解できなかったであろう。
ナイフは引き抜かれ、そして、女は次にナイフを真一文字に振るった。沙羅は喉を切り裂かれていた。そしてなす術もなく倒れこみ、少しの間痙攣した後、彼女はあっさり絶命した。
孝之は驚きのあまり全く声を出せなかったが、近くにいたクラスメイトが代わりに絶叫した。それが合図だった。恐怖、愛情、嫉妬……。それらの感情がグチャグチャに混じり合い、少女たちはそこかしこで殺し合いを始めた。
銃がどこから持ち出されたのか、それは誰にもわからない。あまりに自然に銃がこの教室に持ち込まれ、少女たちの命を簡単に奪っていった。
孝之は義妹である奏を守ろうとした。だがそれが逆効果だった。嫉妬に狂った女が引鉄を引き、彼女の脳漿をいとも容易く吹き飛ばした。
それから後のことを、彼はよく覚えていない。気付いた時にはクラス中の人間が死体に変わっていた。誰がサブマシンガンを持ち込んだのか、どうして誰一人生き残っていないのか、彼には全く理解できなかった。
この事件は世間を震撼させた。互いに殺しあったクラスメイトたちの人間関係がニュースでさかんに取り上げられるようになった。だがその内容はどれも信ぴょう性のない話ばかりであり、真実などどこにもなかった。綾小路孝之はそれらを死んだような目で見つめることしかできなかった。
○
提坂玲緒奈は憤慨していた。彼女は例の事件を面白おかしく引っ掻き回そうとするテレビ局や週刊誌へ憤りを覚え、また事件の当事者になってしまった綾小路孝之のことを思って心を痛めていた。
玲緒奈はM.A.C.の隊員だった。M.A.C.は宇宙からの侵略や攻撃、病原体の侵入から地球を守るのが使命であり、東京の霞ヶ関に本拠地を構える国家機関である。
ここの隊員はみな魔術師であった。魔術を駆使し、宇宙からの脅威と日夜戦いを繰り広げていた。
「おはよう玲緒奈。例の彼なら客間にいるよ」
黒くて長い髪を揺らして廊下を歩く玲緒奈に馴染みの男性隊員がそう声を掛けた。
「そうですか。わかりました」
形だけの謝意を伝えると、玲緒奈はまっすぐ例の「客間」へと向かった。
玲緒奈はまた憤った。彼の言う客間というのは実際は客間とは程遠い空間であることを彼女は知っていたからだ。
玲緒奈は「客間」の前までやって来た。小さな彼女の力ではとても開けられそうにない分厚い鋼鉄製の扉の向こうに、例の凄惨な事件の当事者がいる。彼女は僅かに鼓動をはやめながらも、意を決して中に入ることに決めた。
指紋認証に彼女が手を載せると、電信音が辺りに響き渡った。
「開けてちょうだい」
次に玲緒奈がそう言うと、女性の声で「指紋、声紋確認致しました。魔術師レオナ、どうぞお入り下さい」とアナウンスが流れ、扉が一人でに開いた。
扉の内側は真っ白で何もない空間だった。そしてその部屋の真ん中には机と椅子が1つずつ置いてあり、彼はその椅子に腰掛けていた。
玲緒奈が彼の元へと近づくと、彼は尋ねた。
「どなたですか……?」
その声には張りがなく、彼が疲れ切っていることが玲緒奈にはよくわかった。
「はじめまして、綾小路孝之さん。わたしの名前は提坂玲緒奈です。わたしはこのM.A.C.の隊員です」
「あなたも隊員なんですか。僕とあまり歳も変わらなさそうなのに、凄いですね」
「いえ、わたしなんてただの下っ端ですから。それよりも綾小路さん、あなたと少しお話したいのですが、よろしいですか?」
玲緒奈がそう尋ねると、孝之の表情が更に強張った。
「たいがいのことはもうあなたの上司に話しましたよ。今更話すことなんて、もうないと思いますが……」
孝之が拒絶の意思を示す。
事件の概要については当然玲緒奈もよく知っていた。
綾小路孝之は、都内の私立高校に通う普通の学生だった。学力、運動神経ともに普通。身長は170センチ、体重は52キロ、容姿も特に際立っているわけではない。ただ、性格は極めて真面目で、人に優しく彼を慕う人間が多かったのは事実だ。
だからと言って、彼がクラス中の女性陣が争奪戦を繰り広げるほど魅力的かと問われれば疑問符をつけざるを得ない。彼の通う高校は男女共学で人数比も1:1だ。そんな中、彼だけが恋愛の対象になるなどという話はどう考えてもおかしい。
彼には妹がいた。名前を綾小路奏という。彼女は孝之との血の繋がりはなかった。それでも孝之は妹のことを溺愛していた。と言ってもそこに恋愛的な感情があったわけではなく、あくまで兄妹の域を出るものではなかった。
それが、ある時を境に変わった。
奏が彼の寝室にやってきて、キスを求めたのだ。しかし、彼には一線を越える意思はなかった。妹はあくまで家族。両親の離婚で家族の別離を体験した彼にとって、せっかく得た家族を一時の感情で失いたくはなかった。なんとか妹をなだめた孝之。だが、彼の受難はそれだけでは終わらなかった。
気の良い友人でしかなかった幼馴染の伊集院沙羅が、いつも他愛ない話をするだけだったクラスメイトの女の子たちが、揃いもそろって彼に求愛するようになったのだ。そして、次第に彼を狙う女の子たちは彼を巡って散発的に小競り合いをするようになっていった。
最初は口げんか。だが、その内容は次第にエスカレートしていく。相手の名誉をことごとく傷つけるようなネガティブキャンペーンを、校内のみならずインターネットを駆使してまで行うようになっていった。
学校中に、特定の女子生徒の顔写真に誹謗中傷するような落書きがほどこされたものが貼り出され、中には過去の男との間で撮られたであろう女の子の全裸の写真などがばら撒かれるようになった。
もはや、孝之に事態を止めることはできなかった。もちろん、教員や保護者の意見など彼女たちが聞き入れることもなかった。
そしてついに、恐れていた事態が発生した。傷害事件が発生したのだ。
持ち出されたのは、弓道部の弓矢、そして金属バット。
1人の女生徒は、矢で片目失明の大怪我を負わされ、金属バットを受けた者は右腕、ならびに顔の骨を折る重傷を負った。
事件を重く見た行政側から、学校側に1週間の休校の処分が言い渡された。
事件の渦中にいた孝之は女生徒から引き離され、警察の保護の元軟禁生活を強いられた。取り調べとはいかないまでも、彼は警察関係者から執拗に根掘り葉掘りプライベートなことを問い詰められた。だが、何を言われても彼には何の心当たりもなかった。彼女らを誘ったことも、行為を迫ったこともただの一度もなかった。結局、警察側も彼に不審な部分を見出すことはできなかった。どこにでもいる普通の生徒で、性格は極めて真面目、素行は優良。今回のような事件を誘発する人物ではない事は疑いようがなかった。
1週間の休校の後、授業は再開された。孝之はクラスには参加せず保健室登校となった。その間、学校中の女生徒は静かだった。誰一人として彼を巡っていざこざを起こす者はいなかった。
しばしの監視の後、事態は鎮静化したと学校側は判断した。そしてついに孝之のクラス登校が許された。
だが、その判断が全ての間違いだった。女生徒は誰一人として孝之を諦めてなどいなかった。しかし、それを事前に察知できた者はいなかった。当然それは、孝之も同じことだった。
事件が発生したのは甲月乙日の昼休み。第一の犠牲者は彼の幼馴染の伊集院沙羅だった。
突然の凶行。一瞬にして血の海と化す教室。クラス中、いや学校中が一瞬にしてパニック状態となった。ナイフを持った女生徒は標的を変え、次々と襲いかかった。
後でわかったことだが、その瞬間学校の昇降口には全て鍵が掛かっていたようだった。そして、襲われたのは全て女生徒であり、男子生徒は誰一人として死者はいなかった。ただ彼らは学校が閉じられていたせいで逃げることができず、女生徒たちが殺し合う様をまざまざと見せつけられてしまった。
初めの発砲音がしたのは、事件発生から30分ほどしてからのこと。腹を撃ち抜かれた女生徒はフラフラと後退した後、開いていた窓から落下し陰惨な音を木霊させた。
サブマシンガンの威力は絶大だった。体育館で殺し合う女生徒目がけて発射されたそれは、瞬く間に20人近くの命を奪った。
その頃孝之は義妹の奏と行動していた。いつも封鎖されている1階のある教室の床下にある物置に2人は潜んでいた。極限状態で正常な思考を失っていた彼は、妹から求められるがままに行為に及んだ。
夢中で腰を振り、妹にむしゃぶりついていた彼は間近に迫る危険を察知する能力を欠いてしまっていた。
いつの間にか間近で起こった銃声。中に出し終え冷静な思考を取り戻した彼は、裸の妹を守るべく銃声の方へと向かう。自分を呼ぶいかれた女の声。入口を蹴り破り、女生徒を卒倒させることに成功した。奏に服を着せ手をとって走りだす。だが、鎌を持ち、金属バットを持ち、拳銃を持つ女どもを前に、2人はすぐに追い詰められる。そして、事件発生から3時間は経過した頃、彼らは元いた自分たちの教室まで戻って来ていた。もうすでに、辺りは死体で溢れていた。
狂気じみた女が引き金を引く。それは孝之の自由を奪うべく身体の一部を狙ったものだったが、奏はそれを身を呈して守った。だがそれが決定打だった。標的を奏に変えたその女は全く慈悲を与えることなく、簡単に彼女の脳天を撃ち抜いた。最後の言葉も残せず、先程の幸福な時間を噛みしめることもできないまま、彼女は絶命した。
「そうですね。確かに事件の概要についてはわたしもよく存じています」
「だったら……」
「ですが、わたしがあなたとお話したいのはそれとは全然関係のないことなんです」
怜緒奈は声のトーンを極力柔らかくして言った。
「関係のないこと、ですか……?」
「ええ。わたしはただ、あなたとお話したいと思っただけです。例えば趣味のお話とか、将来の夢とか、そういったお話です」
ニコリと、彼女は孝之に笑いかけた。
孝之は彼女の意図を計りかねながらも、悪意を感じをない彼女の求めにひとまず応じることにした。
繰り広げられたのは、本当に他愛ない話だった。友達同士がするような普通の会話。孝之は自分よりも幼いと思っていた玲緒奈が実は自分よりもよっぽど大人びていることに驚きながらも、時折見せる年相応の笑顔に魅力を感じるようになった。だが、あの時身体を重ねた妹のことも忘れることができず、複雑な思いを腹に抱えたまま、彼女との会話を続けたのであった。
○
「事件が発生しているのは東京A地区! 今回も例の『綾小路事件』と同様の事件と思われるため、本作戦には女性隊員の参加を禁止する!」
本部内に以上のアナウンスが轟いた。玲緒奈はまたしても憤慨していた。例の事件を彼の人権に一切配慮しない「綾小路事件」と呼称されることが彼女にとっては我慢ならなかったのだ。
「何やら慌ただしいようですけど、玲緒奈さんも準備しなくて大丈夫なんですか?」
孝之は毎日甲斐甲斐しく「客間」を尋ねてくる玲緒奈の身を案じて尋ねた。
「大丈夫です。上の人達はどうやら自信があるようですから、わたし1人いないところでどうということはないですよ」
チクリチクリと不満を言いながらも、玲緒奈は笑顔を崩さずにそう言った。
もちろん、玲緒奈も心配していないわけではなかった。世間一般に言う「ハーレム」による事件はすでに彼の事件を含めて2件発生していた。もう1件はあの事件ほど大きな被害は生まなかったが、多数の負傷者を出した。そして今日発生している3件目の事件はどうやら死者が発生しているらしい。
ただの1人の人間が発端となって発生する一連の事件の原因をM.A.C.をはじめ彼女もある程度理解していたが、現在までに事件の発生を食い止めるには至っていなかった。
「もしかして、また僕の時と同じような事件が起きたのですが……?」
孝之がふと尋ねた。
「どうしてそう思うのですか?」
だが、玲緒奈は動揺した様子も見せずに孝之に質問で返した。
「少し、胸騒ぎがして……」
それに対し、孝之は沈痛な面持ちでそう答えた。
「孝之さん、あなたは宇宙人についてどれくらい知っていますか?」
話の流れを遮るように、玲緒奈が言った。
「どれくらい、ですか。宇宙には数えきれないほどの星があって、中には領土を広げるために地球を侵略しようと企んでいる宇宙人がいて、それらの宇宙人とあなた方MACは日夜戦っている、ということぐらいしか……」
「それでだいたい合っています。ですが、少しだけ間違っていることがあります」
彼女の言葉に孝之は首を傾げた。彼はそれ以上宇宙人に対する知識は持ち合わせていなかったし、そもそも今なぜ宇宙人の話をしているのかも彼は理解できていなかったのだ。
「それは、宇宙人には必ずしも深い目論見がある訳ではない、ということです。先日起きた連続通り魔事件の犯人も宇宙人でしたが、彼には別に地球を侵略する気はありませんでした。他の地球人の犯罪者と同じ様に、彼も非常に屈折した感性の持ち主で、世間への不満を我々地球人で発散していたに過ぎなかったんです」
「ストレス発散のために、地球人を殺したっていうんですか……?」
玲緒奈の話に孝之は戦慄した。惑星間戦争に発展しかねない大事件が、まさかその程度のことで起きていたという事実に彼は驚くしかなかった。
「ええ。大変恐ろしいことですが、その程度のことで宇宙人は地球で事件を起こすんです。そして、あなたの事件でも、恐らく似た様なことが起こったものと思います」
そう言って、彼女は持っていた鞄から書類の入った封筒を取り出した。
「これは?」
「事件の発生原因についてまとめてあるデータのファイルです。普通、MAC以外の人間が見てはいけないものです」
そう言いながらも、玲緒奈は易々と書類を封筒から引っ張り出した。
「結論から言わせてもらえば、あなたに異常を発生させた原因は、ある『宇宙線』であることが分かりました。これを浴びた人間からは目には見えないオーラのようなものが発生します。そして、それを直接長時間浴びてしまった異性はあなたの虜になってしまう。いわゆる、『ハーレムの一員』になってしまうということですね。あとのことは、あなたがご存じの通りです」
信じられない様な話が玲緒奈の口から次々と繰り出される。とんでもない話に彼はただ混乱しているようだった。
「ちょ、ちょっと待ってください! それってつまり、僕の周りの人間がおかしくなったのは、僕が原因ということですか?」
「違います。これは宇宙人による攻撃です。あなたはその標的になっただけです」
興奮する孝之をなだめるように、玲緒奈はいたって冷静に言った。だが、それでも彼の気持ちはおさまりを見せない。
「ですが、そうだとしても、僕が標的になったせいでみんなを巻き込んだことには違いないじゃないですか! 僕のせいで、奏や沙羅が死んだことは……」
その瞬間だった。普段自身の息遣いしか聞こえないようなこの真っ白な空間に声が響き渡ったのは。
『司令部より伝令! 魔術師レオナ、ただちに出動してください! 繰り返します! 魔術師レオナ、ただちに出動してください!』
アナウンスが終わり、静まり返る室内。先に口を開いたのは孝之だった。
「さっきの話が本当なら、もし僕がその『宇宙線』というものを浴びていたのが原因なら、どうしてあなたは何ともないのですか? 僕をこんなところに閉じ込めている以上、僕の異常はまだ治っていないはず。なのにあなたはどうして普通に僕と接することができるのですか……? それに、ここまでわざわざあなたを呼びだすくらいですからきっと今大きな事件が起こっているんでしょ? その事件はもしかして、僕の事件と同じなんじゃありませんか? だとしたら、やはり女性であるあなたを作戦に参加させるなんておかしい!」
孝之は声を荒げてそう言った。ここ数日、荒みきった彼の心を癒やしてくれたのは紛れもなく目の前の少女だった。そんな彼女をもし自分のせいでまた失うことになってしまったら、今度こそ彼は絶えられる自信はなかった。
だが、それでも彼女は笑っていた。初めて会った時から何も変わらない笑顔で、玲緒奈は孝之を励ましていた。
「大丈夫ですよ。わたしにはその呪いはきかないので。早く戻って来て、またあなたとお話をさせてください。だからあなたは信じて待っていてください。ね?」
彼女の笑顔を見て、孝之はそれ以上言葉が出なかった。この子のことを信じてみたい。彼の心にはその想いだけが渦巻いていた。
○
玲緒奈が出ていってから、数分の後のこと。
彼を隔離していたはずの部屋の壁が突如として破壊された。
何事かとやって来たのは、残っていた女性隊員だった。そして彼女たちは倒れていた彼の姿を発見してしまった……。
それから数時間後。彼が目を覚ました時には、既に本部内は地獄の様相を呈していた。
頭を撃ち抜かれ、脳しょうを散らしている者。腹部に大きな風穴を開け、ピンク色の臓器を飛び出させている者。上半身と下半身が別々の場所で倒れている者など、数えきれない死体が目覚めたばかりの彼を出迎えていた。
「うわああああああああ!!」
絶叫を上げる孝之。だがそれもすぐに別の銃声によってかき消された。
彼はこの事態の原因が自分にあることをすぐに察知した。自分から発せられている「宇宙線」を浴びてしまった女性たちが、また自分をめぐって殺し合いを始めたのだ。しかも、よりにもよって本部にはちょうど女性隊員ばかりが残っていた。
まただ! また自分のせいで人が!
彼は自分を責めた。彼は今度こそ自分を殺すため、落ちていた拳銃を拾おうとする。だが、
「何をやっているの?」
後ろから迫っていた女に羽交い締めにされ、それを取り落としてしまった。
「は、放して!」
「嫌よ。あなたが死んでしまったら私は生きていけない」
その女の目は既に普通ではなかった。彼の「宇宙線」を浴びた人間はいかなる者も正常な思考回路を失う。いくら彼が説き伏せても聞かないことは、彼自身が痛感していることだった。
もはや自分で死ぬこともできない。このままでは被害が広がるばかりだ。だが、そう思った瞬間だった。
突如として自分を拘束していた力が緩んだ。彼は瞬間的にそれから脱出した。そして、彼は自身を助けてくれた人間を見た。そこにいたのは、
「玲緒奈さん!」
彼をいつも助けてくれた凛々しいあの少女だった。だがそれはあり得ないことだ。自分がまだ異性を狂わせる「宇宙線」を撒き散らしている以上、この女の子が無事であるはずがないのだ。この女の子も他の人と同じ様に、彼を求めて殺し合いをするのが普通なんだ。なのになぜ彼女はいつもとなんら変わりがない彼女のままなのか? どうして自分が知っている凛々しい彼女のままなのか?
「遅くなってごめんなさい。外の事件はなんとか片付けたのだけど、まさかこちらを狙われると思っていなくて……。あなたに謝らないといけません。またあなたに、こんな地獄を味あわせてしまって……」
彼女は心底申し訳なさそうにそう言った。だが、彼はそれ以上に尋ねたいことがあった。
「僕のことはいいんです! それよりあなたです! あなたは平気なんですか!? 僕の近くにいたら、他の人と同じ様なことに!」
彼の焦りをよそに、彼女はあくまで悠然と彼と向き合っている。
「大丈夫ですよ。あなたの『宇宙線』は視覚に訴えるものなんです。視えなければ、どうということはありません」
「視えないって、あなた、まさか……!?」
彼の問いに、やはり玲緒奈は笑顔で応えた。
「はい。実はわたし、生まれつき目が視えないんです。だからあなたと接していても大丈夫だったんです」
その言葉に、彼は心の底から驚いていた。今まで一度だってそんな素振りを見せなかったのに、今になって何も視えていなかったなんて、彼はとてもではないが信じられるようなことではなかった。
「騙すつもりじゃなかったんです。ただ、あなたには普通の女の子としてわたしと接してほしいと思ったんです。普通の女の子として接してあなたの傷を癒やせるなら、自分のことは隠し通そうと思ったんです。でも……」
そう言いかけて、彼女の目から涙が零れた。
「わたし、失敗しちゃいました。あなたにまた傷を負わせてしまいました。この事態を予想出来なかったわけじゃないのに、本当に迂闊です。わたしはどうしようもなく駄目な人間です。だから本当に、ごめんなさい……」
玲緒奈は子供のように泣いていた。いつもの大人びた雰囲気とは似ても似つかない、年相応の仕草だった。
そんな彼女に、これ以上泣いて欲しくなくて、自分を思ってくれた人を、これ以上悲しませたくなくて、彼は玲緒奈の身体を抱きしめていた。
「孝之さん……?」
「君は駄目なんかじゃない。君がいたから僕はここまで立ち直ることができたんだ! だから全部君のお陰なんだ! だからもう泣かないで」
彼は優しい声で言った。
彼の言葉を受け、玲緒奈は再び前を向いた。
「ありがとう、孝之さん」
光のない彼女の目が、今確かに希望の光を見出そうとしていた。
○
玲緒奈は本部内の女性隊員を無力化させると、全員を各部屋に拘束した。
今回の事件の被害も甚大だった。だが、今回の事件に関しては犯人は致命的なミスを犯していた。
いつも高みの見物を決め込んでいた犯人が、今回に関しては能動的に事件を発生させたのだ。つまり、犯人は現場にいたということだ。
「宇宙線」の呪いと同じ様に、その宇宙人は視覚をコントロールする術を持っていた。だが、もとより視力を持たない玲緒奈には関係のないことだった。
己の感覚のみで犯人を捜し出した玲緒奈は、犯人をあっという間に組み伏せてしまった。そして駆け付けた他の隊員たちの手によってあえなく御用となった。
犯人の目的はやはり玲緒奈の見立て通り、ただの憂さ晴らしでしかなかった。100人以上の死者を出した一連の事件を受け、犯人の故郷である星と地球の間で会談が持たれた。そしてその場で、その星の代表者から全人類に向け謝罪が述べられた。
あまりに多くの人が死に、多くの人の心に爪痕を残した。そしてそれは、この事件の渦中の人物に勝手にさせられてしまった綾小路孝之にも、大きな十字架となってのしかかった。
それでも彼は前を向いた。
未だに「宇宙線」の影響で人前には立てず、誰の温もりも得られないはずだった彼を支える人がいる。
いつか呪いが解け、亡くなった人の墓標に祈りを捧げられるようになったら、2人は手を取り合って進んでいくはずだ。
まばゆいばかりの笑顔で、年相応ではない大人びた言動で、彼を引っ張っていってくれるはずだ。
「行こう! 孝之!」
玲緒奈がそばにいる。孝之は、それだけで前に進める気がしていた。