9.
演奏や作法をアニーに習うことを、イーダッドは反対しなかった。レギンに会った翌日から、イーズはレギンの棟へ通うようになった。
アニーはよい教師だった。説明は事細かで、親切で、的確だった。言い方や態度は相変わらず淡々としていたが、練習が終わるまでずっと付き添い、イーズが困ったそぶりを見せると、すぐ丁寧に指導した。
「ありがとうございます、助かります」
「竜王祭で失敗されては、ニールゲンの恥ですから」
アニーの答えはそっけなかったが、イーズは気にならなかった。レギンが一番のアニーは他に冷淡だが、公正だ。気分屋の皇太后よりは付き合いやすい。
「どうぞこちらへ」
練習が終わると、イーズはレギンの前の席を勧められた。お茶が差し出されるが、とまどいからすぐには手を出しかねる。レギンがくすりと笑った。
「そんなに驚かなくても。アニー、あれでアルカのこと結構気に入っているんだよ」
「そうかなあ。迷惑って思われてないかな」
「ないよ。アルカみたいに一生懸命頑張る子、アニーは好きだもの」
夫人は白磁の皿に果物や焼き菓子をいろどりよく盛りつけ、茶菓子を用意していた。早く追い出されるようなけはいは全くなかったので、イーズは安心した。お茶を一口ふくむと、ゆたかな香りが口いっぱいにひろがった。この棟の内装や調度と同じく、高貴で優雅な味わいだった。
よい教師と巡り合え、イーズの笛はみるみるうちに上達した。アニーの教え方がうまかったのもあるが、イーズも寸暇を惜しんで練習するので余計にだ。ある日、イーズが鍛錬場で笛を吹いていると、鍛錬場を一周して帰ってきたシャールは拍手をした。
「お上手です。とても三ケ月前からはじめたとは思えませんよ」
「そ、そうかな?」
イーズは頭をかいたが、周囲で鍛錬をしていた兵士たちもシャールの評価にうなずいていた。
「毎日練習して、偉いねえ。お嬢ちゃん」
「その笛ですてきな旦那さんを呼び止められるといいね」
「……ええと。はい」
竜笛を吹いていてもなお、皇帝の婚約者だとは思われていないようだ。イーズは凹んだ。シャールが誤解を解こうとしたが、イーズは止めた。あまりに情けない。
「やっぱり私ってむいてないね、シャール」
「そんなことございませんよ。アルカ様ならきっと、ニールゲンの伝承のように赤竜王様を笛の音で引き寄せてしまいますよ。――ほら、噂をすれば」
シャールは鍛練場の入り口を指差した。兵たちは練習を止め、その場にひざまづく。赤い髪の年若い皇帝が鍛練場にやってきていた。
「笛の音がすると思ったら。やっぱりアルカか」
周囲にならおうとしていたイーズは、中腰姿勢のまま静止した。シャールに背を叩かれ、まっすぐ立つことを選ぶ。途端、周囲から驚愕の視線を矢のように浴び、イーズはもじもじと、居心地悪そうにした。
「アルカも鍛錬するんだな」
「シャールについてきているだけだよ。走ったり、弓を触ったり、かるく身体を動かす程度」
イーズは皇帝の背後にイーダッドの姿を認め、小首をかしげた。
「ハルミットがニールゲンの兵を見たいといったものだからな。連れてきたんだ。エルダから和平の使者が来た褒美だ」
イーダッドは皇帝に断ってから、鍛錬場を歩き回りはじめた。ティルギスとはちがう鍛練風景を物珍しそうにしている。
鍛錬場を見せてもらえるほどにイーダッドは信用されたのだとイーズはよろこんだが、そのそばにはバルクが付き添っていた。監視はまだ外れていない。イーズはシグラッドをほんの少し、恨めしげにした。
「なんだ、アルカ。物言いたげにして」
「な、なんでもないよ」
視線に気づかれて、イーズはうろたえた。眉間にしわを寄せたシグラッドに一歩詰め寄られ、反射的に一歩下がる。下がってから後悔した。皇帝のしわがさらに深くなった。
「常々思っていたんだが。アルカは私のことを避けるな」
「避けてないよ。普通にしてるよ」
「嘘だ。私とあの鳥の巣頭といるときでは、全然態度が違う」
シグラッドの言う通りだった。しどろもどろの弁明とは裏腹に、イーズの上半身は微妙に後ろに反っている。
「逃げないっていったくせに。じつは未だに逃げる気満々なんじゃないのか?」
「ちがうよ! ……その、シグは近づきにくくて。私、草原で狼に出くわしちゃったときみたいな気分になるんだよ」
申し訳なさそうなイーズの告白に、シグラッドは心外そうにふてくされた。だが、自分のするどい爪や、大きな彫像を持ち上げることもできる腕や、ティルギス人よりも立派な身体を婚約者と見比べ、顔にとまどいを浮かべた。
「アルカに乱暴なことはしてないだろう。信用してないんだな」
「ごめん。でも、シグだって未だに私のこと信用してないでしょ?」
「どうして」
「バルクがイーダッドおじ様の案内役だなんて、半分嘘だってきいた」
図星を指されて、シグラッドは嫌そうな顔をした。婚約者から顔をそむけ、バルクをにらむ。何十歩とはなれていたが、バルクは背筋をぶるりとふるわせていた。
「アルカのことを信用していないわけじゃない。他国の軍師が来たら、警戒するのは当然だろう」
「わかってるよ。シグが用心深いのも知ってるから、べつにいいけど」
イーズはまた笛に口をつけたが、流れ出た音色はどこか悲しげだった。シグラッドは気まずそうにしたが、見張りをどうするとはいわず、別の話題をふった。
「ティルギスだと、どんな鍛練をするんだ? 馬に乗ってするのか」
「そうだよ。馬と弓の練習が主かな。ティルギスの鍛練風景、シグにも見せてあげたいな。陣形を作る練習がとくにすごくてね、指揮官の合図一つで次々形が変わっていくの。絶対感動すると思う」
故郷の風景を脳裏に思い浮かべて、イーズは誇らしげに語った。懐かしさといとおしさに、語る調子も興奮ぎみになる。いつも不安に揺れていることの多い黒目が、今は活き活きと輝いてた。
「弓も、うまい人になると信じられないような芸当をするんだから」
「すごいんだな」
イーズは熱っぽさとは対照的に、シグラッドは淡白だった。イーズが故郷のことを楽しそうに語っていることがおもしろくなさそうだ。
イーズは困惑した。イーダッドや故国への疑念を払拭するために、ティルギスの良いところを知ってもらおうとしたのだが、逆効果だったようだ。シグラッドは踵を返し、鍛練場の外へと歩き出してしまう。
「もう、公務にもどる?」
「いいや。アルカ、ついてこい。いいもの見せてやる」
促されるがまま、イーズは婚約者につづいて鍛練場を出た。行き先は、本宮に付属する塔の一つだった。塔は本宮の屋上よりも高く、目がくらむほど高い。あまりの高さにイーズは及び腰になったが、シグラッドに背を押され、塔のきわまで出た。髪が風に踊る。
「アルカ、下を見ろ。――これが私の兵だ」
本宮と城門の間の、ひろい空間。赤い絨毯が敷かれたかと見まがうばかりの光景だった。そこには赤い鎧をまとった兵たちが、整然と整列していた。城から流れる川のように、列は城門の外までつづいている。
「どうだ。すごいだろう」
シグラッドは勝ち誇ったようにいった。今日は竜王祭のために兵が集まり、当日の演習をしているらしい。いるのはニールゲンの兵の一部だけだが、イーズには見たこともない兵の数だった。圧倒的な兵力を見せつけられて、ただ感嘆のため息をもらした。
「これをシグが動かすの?」
「もちろん。私が王だからな」
自分では想像もできないことに、イーズは感心を通り越して呆けた。風に吹かれて乱れる髪にかまわず、彼方までつづく人の群れをながめる。
「すごいね。これが全部一人のものなんて」
「兵だけじゃない。城門の外も、都の外も、川のむこうも、あの山のむこうも私のものだ。そのうち、平原の果て、大地の果て、海の果てまですべて私のものにする」
「世界を丸ごとってこと?」
「その通り。ニールゲンを歴史上、後にも先にもないほど豊かで広大な国にするんだ。ニールゲンの始祖、赤竜王ですら叶えられなかった夢を叶えるのが私の夢だ」
燃えるように赤い髪を風になびかせ、明るい黄褐色の瞳を陽で金にきらめかせ、自信に満ちた口調でシグラッドはいった。
壮大で荒唐無稽な夢だというのに、イーズは不可能だとか、無理だとかいう言葉が出せなかった。目の前の少年なら、その夢を果たしてしまいそうな気がしたのだ。シグラッドには人に絵空事のような夢すら信じさせるふしぎな魅力があった。
「シグならきっとできるね」
「そう思うか?」
「姿形は子供でも、シグは赤竜王様みたいだもん。今は無理でも、大人になったら必ずできるよ」
少し弱気に聞き返してきたシグラッドに、イーズは力強くうなずいた。断定の言葉がうれしかったのか、シグラッドは口の端をあげた。婚約者の右手を取って、やさしく握る。
「楽しみだな」
「何が?」
「結婚が。ニールゲン人の祖先である赤竜は、地に降り、人と交わったとき、空を自由に飛び回る翼を失った。だが、ティルギスの圧倒的な機動力をそなえた軍が手に入れば。翼を失った赤い竜もふたたび翼を得られるだろう」
シグラッドは真白い手の甲をなでた。イーズの右手に、自分の紋章が刻まれる日を夢見てうっとりと。
イーズは世界を自分のものにしたいとは思わなかったが、国が統一されればよいとは思った。それはティルギスの王である、アデカ王の望みでもあるからだ。平和を願って、イーズは自分から皇帝の隣にならんだ。
「アルカ、私を裏切るなよ。約束だ」
「うん」
夏草のにおいが混じりはじめた風に吹かれながら、二人はそうしてしばらく、広大な皇国の風景をながめていた。