7.
不安な出だしの講義だったが、二度目はきちんと講義を受けることができた。竜王祭でイーズが吹くのは、竜笛という横笛だ。ニールゲンの伝統的な楽器で、ニールゲンの貴族の子女ならば幼少の頃から習う。
しかし、イーズは吹いたことがないため、音を出すことが一苦労だった。曲自体は簡単なものだが、一通り音の出し方を教わった後は、四苦八苦しながら、一人笛を吹き鳴らす日がつづいた。
「へたな蛇使いの笛みたいだ」
嘲笑に、イーズはへたな笛を止めた。戸口で、ブレーデンが金の毬をかかえてニヤニヤと笑っていた。
「君の場合、呼ぶのは地下の黒い竜かな。また城を壊すなよ」
「はじめたばかりなんだから、しかたないでしょ。これからうまくなるの」
イーズはブレーデンをかるく睨み返し、また笛に口をつけた。ブレーデンは毬を足先や膝や頭を使って蹴り上げ、部屋で遊びはじめる。イーズがうるさく思っていると、音が止まった。
「ねえ。ここに最初きたとき探してたやつ。見つかったの?」
ブレーデンは無愛想な口調で切り出した。
「まだだけど……」
「なんなら協力してやってもいいよ。僕なら母上のところから物を持ち出すことくらい、簡単だから」
イーズは笛を下ろした。上から目線の申し出だというのに、ブレーデンは詳しい話を聞きたそうにうずうずしていた。これ幸いと頼むことは簡単だが、イーズは断った。
「皇太后様にとっても大事なものだから、ブレーデンは巻き込めないよ。ブレーデンだってお母上が困るのは嫌でしょ?」
「べつに母上なんて! 関係ない。どうだっていいよ」
ブレーデンは協力すると、駄々をこねるように主張した。シグラッドやレギンたちより一つ年下なだけのはずだが、母親に甘やかされて育ったせいか、ブレーデンはまだ本当に子供だった。忠告に耳を貸そうともしない。使命と人情との間に板ばさみになって、イーズは困った。
「ブレーデンはどうしてそんなにシグのことが好きなの?」
「どうしてって、カッコいいもん。勉強も運動も良くできるし、強いし、大人相手でも負けないし。王宮内のだれよりも竜の血が濃いし」
ブレーデンは自分の肌色を隠すように、手を後ろに回した。ブレーデンは肌色がうすめで、髪も赤っぽいだけで、ニールゲン人らしいとはいいにくい。元々外見に劣等感があるので、完璧な兄に心酔しているようだった。
「手紙を取ってくるからさ、代わりに竜涎香をちょうだいよ。竜王祭のときに使いたいんだ」
「竜涎香って?」
「牙みたいな形の、三角形のお香だよ。兄さんなら持っていると思う。一度だけ見せてもらったことがあるんだ。こんな大きさの赤い瓶に入ってた」
イーズは記憶をさぐった。シグラッドの部屋には各地のさまざまな薬を集めた隠し戸棚があるのだが、その戸棚のすみで見かけた気がした。
「竜涎香には竜の血を一時的に目覚めさせる効果があるんだ。それを使えば、僕も強くなれる」
竜の血が目覚め、ニールゲン人らしい身体になった時を夢見て、ブレーデンはうすい色の肌をながめていた。が、近づいてきた足音に身をひるがえす。入れ替わりに、ブリューデルが顔を出した。
「今日はそろそろ終わりになさいな、アルカ殿下。お疲れでしょう」
イーズははい、と頭を下げかけ、皇太后の背後の人影に気がついた。暖かくなったというのに外套を羽織り、杖をついて立っている男。イーダッドだ。
「片付けたら、勝手にお帰りなさい。わたくしはこれから、そちらの軍師様とお話がありますので、これで失礼しますわ」
皇太后の足音と共に、杖先が床を打つ音が遠ざかっていく。イーズが笛を片づけていると、棟内の情報収集へ出かけていたシャールが帰ってきた。
「先ほど、杖の音がしたような気がしたのですが」
「イーダッド様だよ。皇太后様とお話なんだって」
イーズは応接間を気にした。皇太后に遠慮させられたのか、イーダッドは護衛を連れていなかった。二人は心配になり、足音を忍ばせて応接間へ近づいていた。扉に耳をそばだてる。
「――兵を引けというのは、どういう意味でしょう。この間、エルダの前線が後退したという吉報が届いたばかり。引く理由をお聞きしたいのですが」
「エルダに援軍を送るのであれば、わざわざティルギスから送るよりも、グリーンシャルデあたりから送るのが適当でしょう?
そちらも他人の家の火事を肩代わりするほど、お暇ではないはず。すでに充分一仕事していただきました。後はこちらにお任せなさい」
「なるほど。クノル卿と結託して追い払ったパッセン将軍に帰ってきてもらいたくない、というわけですか」
イーダッドと皇太后の会話を、イーズはハラハラしながら聞いた。どうやら、皇太后とゼレイア将軍は敵対する仲だったらしい。イーダッドがゼレイアの帰還に関して半年の期限を定めたのは、ニールゲン内部からの反発を見込んでのことだったのだろう。
「ニールゲンのために尽くしてくれた礼はします。わたくしの弟はアスラインの宗主。ティルギスに鉄鋼を融通するよう、口を聞いてあげますよ。宮廷内でも顔が利くようにもね」
「魅力的な提案ですね」
「では」
「しかし、私は陛下の盟友ですので。この話は聞かなかったことにいたします」
杖が床を突く音がした。イーズが心配するまでもなく、イーダッドはブリューデルの話に乗る気など、さらさらないようだった。
「あんな子供に盟を約してなんの得があります」
「目先の銀貨より、明日の金貨を待つというのが私のやり方です」
「金貨? 土くれがいいところでしょうよ」
緊迫した雰囲気に、イーズは扉に強く耳を押しつけた。イーダッドは今、危害を加えられたらひとたまりもない状態だ。なにか起きたらすぐに助けに行けるよう、シャールが扉の取っ手に手をかけた。
「後悔したいの? ハルミット。新参者が宮廷で大きな顔をしていれば、周囲も黙っていないわ」
「重ねて申し上げますが、目先の利に興味はございません。失礼いたします。同郷の者を外に待たせておりますのでね」
イーダッドはイーズたちが隠れる間も与えず、扉を開いた。ブリューデルは、愚か者と揶揄するようなイーダッドの物言いに激怒していた。夕陽に顔を赤く染め、緑色の目を敵意でぎらぎら光らせる。まるで魔物のような形相だった。
「大丈夫なの? 皇太后様を怒らせて」
棟の外に出てから、イーズはイーダッドに不安げに尋ねた。ブリューデルは毒でも盛ってきそうな勢いだ。
「仕方ない。パッセン将軍をもどすことが先決だ」
「ティルギスがそこまで協力する意味があるのでしょうか。大使が心配そうになさっていらっしゃいました。エルダへの出兵、アデカ王のご許可は降りておりますが……」
「はたから見ればただ働きの出兵だ。私を嫌う者たちは、さぞ渋い顔をしただろうな」
恨むでもなく、イーダッドは苦笑した。国の発展に大きく貢献したイーダッドには、賛同するものもいれば、当然、反発する者もいる。反対派の中には過激な者もいるので、大使やシャールはイーダッドの身の安全を案じていた。
「今度こそ後ろから矢で射られるやもしれんな」
「笑い事ではございませんよ。やはり、始終見張られていては、信頼を得たいというお気持ちが焦りますか?」
「見張り?」
イーズが思わず口を挟むと、シャールが斜め後ろに目をやった。潅木の影に、見覚えのあるもじゃもじゃの頭があった見えた。イーズは思わず身体ごと振り返ってしまい、気づいたことに気づかれた。バルクが肩をすぼめ、申し訳なさそうに出てくる。
「バルクが見張り? どうして? 案内役でしょ?」
「案内役ですヨ。案内役、兼、見張りなんデス。ゴメンナサイネ、姫サン」
何も分かっていないイーズに、バルクは苦い微笑を浮かべた。とうから気づいていたシャールは殺気立ち、バルクの後ろ襟をつかむ。
「そんな睨まないでくださいよー、姉サン。オイラだって好きでやってるワケじゃないんですカラ」
「分かっている。陛下は油断のならない御方だな」
シャールは苛々と前髪をかきあげた。イーズは胸の奥が痛くなった。イーダッドに見張りをつけたということは、ティルギスという国を疑われていたということだ。悲しかった。
「大丈夫デスよ、姫サン。ヘーカに変なコト、報告したりなんかしてませんカラ」
「妙なことを報告してみろ。その舌、切り取ってやる」
「シャール、あまり脅してやるな。その男はなかなか役に立つ」
「しかし!」
「心配ない。私が安全を保障する」
イーダッドに断言され、シャールはしぶしぶバルクの後ろ襟から手を放した。バルクはほうほうの体でその場から逃亡する。
「エルダとの戦が終われば、陛下の警戒も解けるだろう。もう少しの辛抱だ、シャール」
「はあ……」
「今はな、どうしても皇帝の信頼が必要なのだ。皇帝の関心なくして、皇妃の地位も、ひいては次代の王座もない。アデカ王の望みをかなえるためには、次代の王座が要る」
「アデカ王のために、次代の王座が?」
「アデカ王がお望みになっていらっしゃるのは、平和な世だ。ニールゲンの周囲に散らばる諸国は、ティルギスもふくめ、常に争いを繰り返している。それを平定するのがアデカ王の望みだ。
だが、統一するために国を大きくすればニールゲンににらまれる。ニールゲンは積み木を崩すように、まとまりかけた諸国の結束を打ち砕いてしまう。
ならば、そのニールゲンを取り込むのが得策のがではないか? ティルギスの血を引く子が大国の王となれば、諸国の平定はずっと楽なものになる」
イーダッドの論理に、シャールは瞠目した。片膝をつき、恥じ入るように頭を下げる。
「申し訳ございません。そのような深いお考えがあるとは気づかず、余計な口出しを」
「最良だとはいわん。ひどく時間のかかるやり方だ。だが、空高く舞うためには、長く地を這う必要があるものだ」
イーダッドは挑むように、真っ赤に燃える空をあおいだ。不自由な足をもちながらも、イーダッドは強靭な不屈の意志を持っているようだった。
「おじ様が昔から、ニールゲン語をそのうち役に立つ、役に立つっていって私に教えてたのは、このためだったの?」
「そうだ。ニールゲンの皇帝が気に入るよう、生まれたときから育てた。だから本物でなく、おまえでなければならなかったのだ」
「生まれたときから?」
かけられた年月の長さにイーズは驚いたが、イーダッドは平然としていた。広い視野と長い目を持つイーダッドにとっては、十年の歳月などまるで問題でないようだった。
「あと少しだ。もう少しで、願いは八割方叶う」
慎重なイーダッドはいつも十割とはいわない。つたなく、しかししっかりと道を歩んでいくイーダッドの後を、イーズとシャールは粛々とついていった。