6.
イーズが食堂にあらわれると、シグラッドはあきらかにほっとした顔をした。事情を聞くとこころよく自分の隣にイーズを座らせ、食事を勧める。
「今日ばかりは、皇太后の気まぐれに感謝だ」
イーズはシグラッドの意見にうなずきつつ、飲み物に口をつけた。皇太后と食事を共にするということは、昨夜から結構な重荷になっていたので、こういう結果に終わって幸せだった。
「でも、逆に笛の練習の方が心配になるよ。ちゃんと教えてもらえるのかな」
「しっかり頼むぞ。竜王祭にはニールゲンの属国の宗主が勢ぞろいするし、各国から使者もくる。とくに、今回は、私が王になってからはじめての竜王祭だ。失敗なんかしたらこの先ずっとなめられる」
「が、がんばるよ」
イーズはそっと胃を押さえ、視線をむかいにやった。イーダッドがパンをちぎり、ゆっくり口に運んでいた。
「今日は特別だ。ハルミットがさっそく私の希望を叶えたから」
「もうエルダに軍を送ったの?」
「早ければ三ヶ月、遅くとも夏の竜王祭までに私の望む結果を出すといっているが――どうなるかな」
シグラッドは半信半疑の様子だった。パッセン将軍の場合、エルダまでの片道で一月半かかっている。早くて三ヶ月では往復で精一杯、と皇帝は疑っていた。
「シグ、できないことはないと思うよ。ティルギスならエルダまで往復二ヶ月かかるか、かからないかくらいだから」
「そんなに早く、どうやって?」
「一人が馬を何頭も連れて行くんだよ。馬が疲れたら馬を乗り換えるから、移動するのは早いよ」
イーズの語った根拠に、シグラッドは目をしばたかせた。一人の兵士が馬を何頭も持つという考えは頭になかったようだった。パンを呑みこんだイーダッドが、さらに補足をする。
「エルダまでの行程は往復一ヵ月半を見込んでいます。援軍はあくまで一時的な脅し。長期の戦争を仮定しての物資の運搬は無視させますので、二ヶ月もかかりません」
「一時の脅しでエルダが降伏するか?」
「戦を和平に持ち込む武器は、援軍だけではございません。エルダには、かねてからティルギスと顔なじみの商人を送り込んでおります。その商人は王弟と親しい」
「王弟を通じて王を説得すると?」
「エルダの現国王は、ニールゲンの関心が薄い北の国境を少しだけ変えたいと、という程度の軽い気持ちで今回の戦をはじめました。
ところが、予想外もしなかったことに、皇国軍の将軍が出陣してきた。攻めから徹底的な防御態勢に代わり、おかげで戦線は膠着。最初は賛同していた国民は、王に不満を抱きはじめています。
ティルギスの援軍登場でさらに民の不安をあおり、商人を通じて王弟に王の説得をうながせば、エルダの王は分からない王ではないと聞いておりますから、この騒ぎも終わるでしょう」
イーダッドはすらすらと根拠を述べた。三ヶ月という見立てがデタラメでないと納得したようで、シグラッドはなるほど、とうなずいた。
「それなら、ゼレイアは竜王祭までにはこっちに帰ってこられそうだな」
「戦自体は三ヶ月で終わるでしょう。将軍の帰還については、多少の不安がございますので、半年頂きます」
「ティルギスの軍は、私の予想以上に機動力が高いな。他国の内情にそれだけ精通しているのも驚きだ」
よほど感心したようで、シグラッドは自らイーダッドの杯に酒をついだ。イーダッドだけでなく、イーズにも手ずから酒をそそぐ。かなりの上機嫌で、イーズは怖いくらいだった。
「陛下。一つだけ、お願いを申し上げてもよろしいでしょうか」
「いってみろ。おまえは私の希望を聞いた。ならば私もおまえの願いを聞こう」
「ありがとうございます。では、この戦が終わりましたら、その功績はパッセン将軍のものということにしていただけますか。わたくしはパッセン将軍に個人的に恩があり、このたびのことを見かねて手助けをしたということにでも」
褒美を望むと予想していたシグラッドは、不可解そうにした。なぜだと、と聞き返す。
「将軍には出陣したという手前があります。手柄がなくては王宮へ帰りづらいでしょう」
「それではおまえはただ働きだ」
「しかし、身の安全は確保されます。目立てば妬みを買う。妬みを買えばいらぬ災難降ってくる。それは私にとって死を意味する。ならば褒美も名誉も不要です」
イーダッドは不自由な足をさすった。命を狙われても、イーダッドは逃げることが難しい。あらかじめ自分の身に火の粉が降りかからないようにすることが、一番の予防策だった。理由を聞いた皇帝は納得し、あきれ、次におもしろそうに笑った。
「おまえはおもしろい男だな、ハルミット」
「左様ですか」
「とてもおもしろい」
シグラッドは身を乗り出し、明るい黄褐色の目を爛々とかがやかせた。イーズならばここで身を縮こまらせるだろうが、イーダッドはちがった。淡々と、静かに皇帝の好奇心を受け止めていた。食事を口に運ぶ動作に乱れはなく、作法は生粋のニールゲン人と見まがうばかりの完璧さだ。とても場慣れしていた。
「そういえば、アルカ様。皇太后様のところはいかがでした。入り込む隙はありそうでしたか」
突然話題をふられ、イーズはうろたえた。パンを飲み込み、両手を膝の上におく。
「実は今日、さっそく探ってきました。でも、隠れていたブレーデンに見つかってしまって。口止めはしてきたから、大丈夫だと思います」
「大丈夫だという根拠は?」
「ブレーデンは陛下のことをすごく尊敬しているから。陛下に頼まれたっていったら、見逃してくれました」
「ブレーデン皇子か……使えそうだな」
食べる手を止め、イーダッドがつぶやいた。ブレーデンならばいつでも機会をうかがえる上、棟の中を探っていても怪しまれない。探ってもらうのにこれほど適当な人材はいなかった。
だが、イーズは内心、顔をしかめた。母親にとって大事なものを息子に盗ませるというのは、息子に母親の首を締めさせるのと同じだ。感心できた手段ではない。
すると、心情を見透かしたように、イーダッドがいった。
「先王の最後の手紙は、なんとしても皇太后から奪う必要があるものです、アルカ様。
先王は正式な遺言を残さず、跡継ぎも表明なさらないまま崩御なされました。シグラッド様が王位につかれたのは、家臣たちが相談してのことです。
もし、最後の手紙に次の王を選定する一文がありでもすれば、すべてがひっくり返る可能性は充分ある」
シグラッドが皇帝の座から降りる可能性がある、ということだ。仮定にあわて、イーズは隣のシグラッドを見た。
「退位が決まったら、どうなるかな。私だったら前の王は殺すだろうな。私たちは荒々しく残忍な赤竜王の末裔だ。簡単に退いてくれるほど、だれも甘くはないだろうから」
「そういうものなの?」
「先帝が崩御した後、家臣たちがだれを王にするか相談していたときだ。兄が私に毒を盛った」
イーズは瞠目した。シグラッドはちがう、と笑って首をふる。
「レギンじゃないぞ。一番上の、今はいない兄だ。元は四人兄弟なんだ」
「シャールからそんなこと、聞いた気がする」
「一番上は側妃の子だった。王位継承権は正妃の子でなければ持てないんだが、レギンは身体が弱いし、私やブレーデンは幼いから、そいつを王に立てるという話も出たんだ」
「それでシグを?」
シグラッドは銀の匙を指先でもてあそんだ。
「良い兄だった。十三も年上だったし、王宮で後ろ盾のない私と母に良くしてくれたから、信じて頼りにしていた。だからあっさり毒を喰らわされた。
あれは――そう、良い勉強だった。本当に良い勉強になったんだ。おかげで、私はこうして毒を警戒するようになったのだから」
シグラッドは昔を懐かしむように穏やかで、何気ない思い出話をしているようだったが、その実、目には少しも温かみがなかった。苛立たしげに、中指が親指の腹をはじいたのを、イーズは視界の端で捕らえた。静かな怒りをひしひしと感じる。
「アルカも本当に気をつけろよ。私は竜の血を引いているおかげで、身体が頑丈だったから助かったが、アルカはそうじゃない。昨日もいったが、皇太后のところでは何も食べるな。食べても吐け」
「努力する。……自信はないけど」
「なんでそう、弱気な答えなんだ。やるっていえ」
「やる! やる、けど……毒のせいで二目と見られない姿になっても、友達でいてね」
「だから、どうしてそう、最初から負ける気満々だ! 微妙に後ずさりしてるし!」
椅子ごと徐々に後退しているイーズの腕をつかみ、シグラッドは間近に引き寄せた。
「まったく、本当に臆病で心配性でどうしようもないやつだな」
「だ、だって、万が一ってことがあるし」
「ああ、もう、分かった分かった。どれだけ醜くなったって、私がちゃんともらってやるから、好きなだけ心配してろ馬鹿」
間近で見つめられて、イーズは心臓がはねた。嘘偽りのないまっすぐな視線に、身体が芯から火照ってくる。頬にまで血がのぼってきたのを感じ、照れくささからうつむくと、シグラッドに両頬をはさまれた。
「なるほど。紅潮するって、こういうのをいうのか」
「ちょ、ちょっと、や、やだ」
「血の色が透けてる。綺麗なものだな」
肌の色が濃いシグラッドは、赤らんだ頬を物珍しげにした。新しいおもちゃでも触るような手つきだ。イーズは首筋や耳も薄桃色に染め、羞恥に言葉を失くした。
「では、そろそろ私は」
澄んだ硬い音が響いた。イーダッドが食事を終え、鉄串を皿に戻していた。
「大使やシャールの報告通り、仲がよろしいようで、安心いたしました。アデカ王もさぞお喜びになられることでしょう」
イーダッドは皇帝に一礼し、杖をついて立ち上がった。淡白な態度だが、口の端にかすかに満足げな笑みが浮かんでいた。すべて、思う通りに進んでいるというように。
「後は早くお子に恵まれることを願うばかりですね」
「こ――」
イーズは絶句した。結婚の覚悟すらようやくついたか、つかないか、というところなのに、子どものことまでいわれても、まるで現実味がない。
「先王様は、正妃のナルマク妃殿下と十三でご結婚なさったそうですが、レギン殿下というお子に恵まれるまでには三十年ほどかかったそうですから。早いに越したことはございません」
「まったくだ。お二人に長い間子供ができなかったせいで、あの愚兄が生まれ、私も被害を被ったようなものだからな」
シグラッドまでそんなことを言い出すので、イーズは魚のように口をぱくぱくさせた。待ってといいたいが、父親と未来の夫は互いに深くうなずきあって、口を挟む隙間がない。
「どうした、アルカ。変なものでも食べたような顔して」
「もうそんなことも考えてたんだなって思って」
「当然だ。私は、妃は一人にすると決めているといっただろう? アルカとの間に子供ができないでいてみろ。もう一人娶れといわれるに決まっている」
「そっか。そうだったね」
「とりあえず、皇子が一人。あちこち縁つなぎのために嫁がせたいから、皇女は多めに、四人くらいは欲しいな。男一人の女四人で、最低五人か」
「数まで考えてあるの!?」
「まだ数だけだ。名前までは考えてない」
「……」
急に胃の腑が重たくなって、イーズは料理に手を付ける気を失った。皇妃になるという未来は、予想以上に着実に、後もどりできないものになっていた。