3.
結局、処刑は中止された。人々はすっきりしない表情で、各々の仕事へと散っていった。イーズたちも閑散とした広場を後にし、本宮へ引き返した。シグラッドはこれから政務なので、今朝はそこで一旦お別れだった。
「アルカは、私の隣に部屋を移るといいな」
別れ際に、シグラッドが提案した。シグラッドの部屋は、謁見や会議を執り行う本宮の上階にある。一方、イーズの棟は城の北に位置する。行き来に時間がかかるので、どちらもつねづね不便だと思っていた。
「私の隣はちょうど空いているし、本宮なら警備も固い。安心だろう」
「嬉しいけど、お妃さまとか側室の人たちは、私のいるところに住むのが普通でしょ? いいの?」
「私の隣が空き部屋なのは、先代の皇帝陛下が正妃をそばにおこうと改装していたからだぞ。かまわないだろう」
それならとイーズは納得しかけたが、側近たちは物言いたげにしていた。あからさまに否定はしないが、だれもが声に出して賛成はしない。通例を破ることに、躊躇している。やがて側近の一人が進言した。
「畏れながら、陛下。たしかに先代の皇帝陛下も、正妃をおそばにおこうとお考えになりました。ですが、改装途中に正妃ナルマク様は身罷られ、現実にはなりませんでした。部屋は改装途中のままですし、あそこに誰かが入るというのは……」
「アルカは命を狙われた。またあそこにもどしたら、同じことが起きるかもしれないだろう」
「では、警備の数を増やしましょう」
「だから。それより、部屋の改修を完了させて、一緒の棟に住んだ方が便利だし、余計な人員もいらなくなる。どうしてできないんだ」
側近はもごもごと、言い訳のような言葉を口の中にこもらせる。シグラッドは柳眉をしかめて、苛々としていた。
「ひとまず、皇太后様にご意見をお伺いしてみましょう」
「なぜ皇太后が出てくるんだ」
「次の皇妃に関することは、皇太后様にご相談するのが適当でしょう。皇太后様は先代様から陛下の補佐役にも任命されていらっしゃいますし……」
「補佐? 一度だって、朝議にも会議にも出てきたことはないのに。――ああ、分かってる。そんな顔しなくたって。
皇太后はアスラインの宗主の姉だからな。ニールゲンの三大属国アスライン。無視したくたってできないことくらいは理解してる」
幼い主君の物事を見通す聡明さと、率直な意見に、進言した側近は言葉がない。他の側近たちも舌を巻く。進言したのとは別の一人が進み出る。
「陛下のお考え自体には、私たちも賛成しております。
しかし、あの部屋は、先王様のナルマク妃殿下への想いが入ったお部屋。それも、途中で断念せざるを得なくなった、特別な部屋です。先代陛下と縁のある王族の方々にも、了解を取った方が無難でしょう」
シグラッドは明るい黄褐色の眼に、怒りを見せた。今度は怒鳴るかもしれない、とイーズはびくびくしたが、意外なことに皇帝は静かだった。深呼吸した後、分かった、とうなずく。
「仕方がない。部屋は改装途中だし、すぐに移るのは無理だな。了解が取れるまで待とう」
「申し訳ございません。双方に話はふっておきますので」
シグラッドにもう怒気は見えない。自分の意見をねじ伏せられた憤懣を押さえ込んでいる。矜持は高いが、自分の感情を統制できるだけの理性は身につけているようだった。熱い中に冷静な一面を垣間見て、イーズは意外に思った。
「じゃあ、アルカ。ここでお別れだな。これからは私が毎日、そっちに行くようにするから。食事の時間と、行く時間には顔を見せろよ」
「私の方からも、シグのところに行くようにするね」
「出てこなかったら、城中総出で探させるからな。懸賞金付きで」
「……そんな、凶悪犯みたいに」
効率的かつ効果的なやり口に、イーズはふるえた。
居館へ帰る途中、イーズはまた昨晩騒ぎのあった庭を通りすがった。片づけをしている召使の中に、青い髪の少年を見つけて立ち止まる。レギンだ。イーズが手をふると、むこうも気がついて、手を振り返してきた。
「おはよう、アルカ。クノル卿の処刑、もう終わったの?」
「ううん。まだ。途中で、場所が悪いから後日ってことになって」
「場所が悪いから後日?」
「うん……シグがね」
はっきりと理由の分からないため、説明しようがない。レギンは小首をかしげたが、それ以上追及しなかった。後でシグラッドに聞いた方が早いと判断したのだろう。
「今朝はよく眠れた?」
「大丈夫だったよ。昨日は本当に――迷惑かけてすみませんでした」
イーズの謝罪は、なかば、レギンの背後に控えている年嵩の侍女にむけられていた。レギン付きの侍女の、アニーだ。周りからはヴォーダン夫人と呼ばれているらしい。ガラス玉のような眼に見下ろされると、イーズは肩をちぢこまらせた。
さんざん荒れた庭は、レギンの棟のまん前にある庭だ。身体の弱いレギンに何かと相談に乗ってもらったり、話を聞いてもらったりしているイーズは、出入り禁止にされたらどうしよう、と小さくなる。
「ご無事だったようで、何よりです」
淡々といわれたので、イーズは最初、何をいわれたのか分からなかった。内容を理解し、目をしばたかせる。あわてて頭を下げた。
「ありがとうございます。ご心配をおかけいたしました」
「これでレギン様の心配事が減りました」
心配が自分を素通りしたので、イーズは調子が狂った。早計を恥じ、うなだれる。レギンはアニーを振りあおいだ。
「アニーってば素直じゃないんだから。探してくれていたくせに」
「わたくしは、レギン様が“だれか城の中を見回ってきて欲しい”とおっしゃったので、そうしたまでです」
「だれか、でしょ? アニーなんていった覚えはないし、見回ってきて欲しいなあっていう独り言だったんだけどな」
「左様ですか。わたくし、あんな大きな独り言は、初めて聞きました」
どちらの言い分が正しいかはわからない。レギンはあくまでアニーに絡み、アニーはあくまで澄ましていた。平行線だ。仲がいいのか悪いのか、イーズは判断しかねた。
「アルカには昨日も竜化をとめてもらったっていうのに」
「……竜化を止めた?」
感情の乏しいアニーの顔に、かすかながら変化が起きた。
「そうだよ。昨日、発作が起こって暴走しかけたけど、クノル卿に立ちむかうアルカを見たら止まったんだ。勇ましくてすごくかっこよかった。ティルギス人は誇り高い戦士っていうけど、こういうことなんだなって見惚れたよ」
レギンから憧憬の眼差しを受け、イーズは頬を赤くした。恥ずかしさから汗をかき、何度も横にふる。足はガタガタふるえ、立っているのもやっと、恥も外聞もかなぐり捨てて必死に咆えていたのだ。本人にしてみれば、綺麗どころではない。
「すごくみっともなかったよ、私。無理して褒めないで」
「全然、無理なんてしてないよ。本当にそう思ったんだから。アルカの戦っている姿を見たら、僕も勇気が出たんだ。抑えられるって自信が湧いた。今まで、そんなこと、思ったこともなかったのに」
レギンがなおも手放しで褒めるので、イーズは耳まで赤くなった。アニーは話を聞いてどう思っているのか分からない、黙っている。だが、イーズを見る目が、物体を見るような目から、生きた人を見る目に変わったのは確かだった。
少しだけ打ち解けられたのかもしれない。わずかな一歩だが、前進したことに喜んでいると、杖の音が感動を邪魔した。庭に出てきたイーダッドが、後ろに迫っていた。レギンが反応する。
「あそこにいらっしゃるのは、ティルギスからいらっしゃった方?」
「そう。私が行方をくらましたってきいて、様子を見に来てくれたんだ。無駄足させちゃったけど」
「もしかして、軍師のハルミット様?」
「知ってるの?」
「直接会ったことはないけど、マギーがね。僕の教育係が、ハルミット様と交渉の場で何度か会って話しているから、聞いたことは。――すごい幸運。一度、話してみたいと思っていたんだ」
よほど興味があったのだろう、レギンは白い頬を紅潮させていた。イーズはイーダッドに、レギンを紹介しようと口を開いた。だが、それよりも先に、イーダッドがレギンに頭を下げた。
「お初お目にかかります、レギン=カルマサス=フレイド殿下。ハルミットです。貴方様の教育係でいらっしゃるマギー老には、ずいぶんとお世話になりました。ハルミットが礼を言っていたとお伝えください」
イーズが紹介するまでもなかった。イーダッドは慇懃に、皇子に頭を下げた。レギンは微笑を浮かべて、ティルギスからの客に手を差し出す。
「はじめまして、ハルミット様。お見知りおきいただいていたようで、光栄です。僕も、マギーからは話だけは聞いて知っていましたが、実際にお会いできて嬉しいです。
あのマギーにボードゲームで勝ったと聞いて、一度、勝負させていただきたいと思っていたものですから」
レギンは興奮ぎみに言葉を吐き出したが、イーダッドは、ああ、とそっけなくつぶやく。
「あれですか。たまたまですよ」
「たまたま? あなたの出す結果に、まぐれは無いはずです」
レギンはぴしゃりと跳ねつけるようにいった。足が不自由で、色白の、一見、ひ弱そうな相手の本質を確信しているように。
イーダッドは片眉が上がる。感心しているのだと、イーズはなんとなく察した。イーダッドがだれかに感心するのは、まれなことだった。
「ずいぶんと買い被ってくださっているのですね」
「ハルミット様の外交や戦の様相を聞いていると、たまたまという言葉は似つかわしくない気がしただけです。相手をしていただけませんか?」
「この後は、アルカ様とこみ入った話をさせていただきたいのですが」
「今とはいいません。ハルミット様の都合に僕が合わせますから、後でも」
レギンは譲歩して食い下がったが、イーダッドは承知しないうなずかない。結局、レギンが折れた。
「ティルギスは忙しいときですよね。わかりました。またいつかお願いします」
「申し訳ございません――アルカ様、参りましょう」
イーダッドはかるく頭を下げ、踵を返した。イーズは口をとがらせる。父親に愛想が無いことは知っているが、それでも冷たい気がした。ティルギス語で抗議する。
「少しくらい、時間取れないの? 私への説教の時間を減らして」
「あの皇子と皇帝が対立する仲だということは知っているな?」
イーダッドの返答に、イーズは眉間にしわを寄せた。
「対立なんてしてないよ。仲良いよ。本当にいいんだから」
「あの二人の仲はまったく問題でない。レギン皇子には皇族と先代からの重鎮が、シグラッド様にはそれと対立する貴族や、現体制に不満を持つ者たちがついている。そういう問題だ」
反論はあっさりねじ伏せられた。イーズはなおも言い募ろうとしたが、イーダッドのくろく冷たい目をむけられると、口を閉じた。苛立ちは、吐き出されることも消化されることもなく、もやもやと胸に溜まった。
「つまり、私はどうすればいいの?」
「肩入れするなということだ」
イーダッドは自分たちを見送っているレギンを一顧だにしなかった。庭から廊下へ上がり、冷たく扉を閉じる。
イーズは返事をしなかった。もちろんそれは、納得したからではなかったが。