19.
竜王祭は夜明けとともにはじまる。国中が暗いうちから起き出して、準備をはじめる。イーズも夜中といっていい時間に起き、白い絹とレースで作られた衣装を着て、つややかな真珠ときらびやかな金剛石を身につけた。
「とてもお似合いですわ、アルカ様」
イーズを着付けた侍女たちは、主人の出来栄えにほうとため息を吐いた。
ティルギス人特有の白くきめこまかな肌に、なめらかな絹。ニールゲン人に比べ華奢な骨格に、ふわりとした形。ほそくしなやかな漆黒の髪に、純白の生地。
衣装はイーズによく似合っていた。うっすらほどこされた化粧も、少女にふさわしいだけの魅力をかもし、イーズは白い花のつぼみのようだった。異国の人間しか持ち得ない独特の魅力に、侍女たちはうっとりと見惚れた。
最後の仕上げに、ほのかに香る程度に香水をつける。準備を終えて侍女たちが皆出て行くと、入れ替わりに、首領の男が入ってきた。
「アルカ、報告だ。例の“献上品”は、さっき無事に届いた」
「間に合ったんですね。ありがとうございます。どこに?」
「広間だ。皇帝と面会している。ニールゲンの皇帝はとても喜んで、おまえを呼んでいる」
「私を?」
「そうだ。将軍に会わせたいと。それから、竜王祭のはじまりに笛を吹くようにと。すべておまえの図ったとおりになったな」
男はよくやったと褒めるような口調で、イーズに竜笛を渡してきた。イーズは頬がひきつりそうになるのを堪えながら、笛を受け取る。
「さあ、早いが広間へ行こう。もう準備は終わったのだろう?」
イーズは首を横にふった。バルクから、シャールたちが助かったという報告はまだない。報告があるまで時間を稼がなければならなかった。
「ごめんなさい、忘れていました。私が竜王祭に出席するなら、私、皇太后様にご挨拶をしておかないといけないんです。部下の方も皆一緒に行ってもらえませんか?」
「挨拶に全員? なぜ?」
「一人で行くと何をされるか分からなくて不安で。私の足を動かなくしたかもしれない相手なので……」
首領の男は分かったと了承し、部下を呼び寄せた。イーズはほっと胸をなで下ろした。皇太后の下へ行くのに同郷の人間が一緒なのは心強い。また、自分が全員を連れて行けば、バルクがシャールたちを救出しやすくなるだろう。
補修された杖と、小道具の入った袋を手に、イーズは首領の男に抱えられて廊下へ出た。竜王祭の日がいつもそうであるように、城内にはたくさんの火がともされ、赤い竜の壁掛けや、赤い竜の旗であざやかにいろどられた。空はまだ暗く、月や星の光がはっきり見えるほどだが、城の中は煌々として、城全体が一つの燃え上がる炎のようだった。
皇太后を訪ねていくと、当然のことながら、朝早すぎる、時刻をわきまえない訪問に、皇太后の侍女は怪訝にした。
「こんな時刻にすみません。竜王祭で笛を吹くことになったので、一言皇太后様にお断りをと思って」
「わざわざ?」
「先ほど、陛下から急に命じられたものですから、作法のことでお聞きしたいこともあって……」
皇太后が、今の皇妃候補に笛を吹かせることを反対することは、確かめるまでもない。侍女は呆れた様子だったが、主人の下へ報告へ走った。
ほどなくして、イーズは中へ通された。首領以外は外で待機となり、首領も、皇太后の部屋にイーズを下ろすと、外へ出るよう指示された。
「何か、妙な子ねえ」
身支度をあらかた終えていた皇太后は、目の前の少女に、あきれたような、不可解そうな声でいった。扇子で左の掌をかるく叩きながら、イーズに問う。
「竜王祭にあなたが出席することを私が反対していることくらい、知っているでしょうに。一言断りにきた? 何のために? 意味が分からないわ」
「すみません、皇太后様。挨拶に来たというのは、嘘なんです。――これに見覚えはありませんか?」
イーズは手に持っていた袋から、布につつまれた小さなものを取り出した。幾重にも巻かれた布を取り、中身の香水瓶を露にすると、皇太后の扇子を動かす手が止まった。
「私のものではないわね」
「でも、覚えがあるはずです。皇太后様が、私のために特別な手をほどこしてくださった香水ですから」
「なんのこと?」
「ハルミットに危害を加えようとしたのは、あなたですか? 皇太后様」
「知らないわよ」
「ティルギスが用意したニールゲンへの献上品を汚したのもあなたですか?」
「いいがかりはよして。話がないなら、追い出すわ」
「この香水をつけて外に出てくださいといったら、皇太后様はできますか?」
イーズが強い口調でたずねると、皇太后は口を閉ざした。少し扇子を開き、口元に当てる。
「たかだかそのくらいのことで私を脅そうなんて、百年早いわ。おちびさん」
「では、これでは?」
イーズは手に持っていた袋の中から、よれた一枚の封筒を取り出した。封蝋の捺された面をブリューデルに見せ付ける。最初は訝しげにしたブリューデルだったが、三つ数えたところではっきりと顔色が変わった。
「な――何を持っているの?」
「つまらないものです。とても」
イーズは最後に袋から黒いインク瓶を取り出すと、それを封筒にかけた。ブリューデルが手紙を奪い取るが、もう遅い。封筒はべったりと黒いインクに汚れ、中にまで染みていた。
「このっ――小娘!」
「それ以上近寄ったら、私の部下たちを呼びます」
皇太后が小卓を倒して迫ってくると、イーズはするどい声で牽制した。皇太后をにらむ。
「もう足の引っ張り合いなんて、やめましょう。アスラインはニールゲンの一部で、ティルギスはニールゲンの同盟国。私たちは仲間です」
ブリューデルは扇子を強く握りしめて黙った。が、切り札を失った怒りは、理性を壊した。感情に任せ、イーズを床に引き倒し、扇子を握った手をふり上げる。
そのときだった。突然、階下で、ガラスの割れる音がひびいた。使用人の慌てふためく声があがり、幼く甲高い叫びがひびいた。
「竜に――竜になるんだ!」
ブリューデルの手が止まった。焦げ臭いにおいが、イーズの鼻先にもただよってきていた。扉と床のわずかな隙間から、うっすらと黒い煙が入り込んでくる。
煙と共にかすかにただよってくる甘い香り。この香りをイーズは知っていた。竜涎香だ。そして、さっきの幼い声はブレーデンのものだ。
ブリューデルはイーズの胸倉から手をはなし、あわてた様子で扉を開け放った。イーズは腕の力で這って、廊下へ出る。煙は階下から上がっていた。手すりの支柱の間から階下をのぞくと、一階はすでにあちらこちらに火がつき、召使たちが逃げ惑っていた。
「ブレーデン! ブレーデン!」
ホールへ降り立ったブリューデルが、息子の名を何度も呼ぶ。イーズは煙でかすむ視界に目を凝らし、ホールの床でのた打ち回っているものを見た。
それは、手足がてんでばらばらに肥大した、不格好な肉の塊だった。爪がするどくのび、ところどころが赤いうろこに覆われた、おかしな生き物。肉は異常な増殖と破壊を繰り返していた。一部が盛り上がり、血管が破裂して血を吹く。と思ったそばから、その部分がうろこにおおわれる。かと思えば、他のうろこがはがれ落ちて、じくじくとした皮膚がのぞく。
「竜化……しようとしているんだ」
あまりに変わり果てたブレーデンの姿に、イーズは呆然とつぶやいた。竜涎香によって竜の血が目覚め、ブレーデンは竜になろうとしているが、うまくなれずに苦しんでいるのだ。
痛みにブレーデンは泣いていた。泣きながら、腹立たしさに金の目を光らせる。すると、にらんだ場所に炎が生まれた。最初はブレーデンを救おうとしていた召使たちは、自分たちまで燃やされかねないことを知ると、我先と逃げはじめた。竜王祭でもともと火の気の多かった館は、みるみるうちに火の手に絡めとられていった。
「使うなといったのに……竜涎香は竜の血を目覚めさせる香。だけれど、あまりに血の薄い人間では目覚めた竜の血が制御できず、毒になるだけなのに」
ブリューデルは息子を前にへたりこんだ。侍女が脱出をうながされると、手を借りながら立ち上がった。まだ衝撃から立ち直れてはいないようだったが、途方にはくれていなかった。緑の目には生彩があった。
「皇帝を連れてきましょう。竜の血を鎮める方法を知っているのは、代々皇帝と正妃のみ。皇帝ならば知っているはずだわ」
ブリューデルは炎を避け、玄関を目指す。イーズも脱出を急ごうと這ったが、火もある行く手にひるんだ。おまけにここは二階だ。階段という難関があった。一人では逃げられない。
「だれか――だれか呼ばなくちゃ」
イーズは叫ぼうと大きく息を吸いかけ、煙に咳きこんだ。あわてて身を伏せ、その拍子に床を転がったものに気がつく。首領の男がシグラッドから預かってきていた竜笛だ。叫ぶよりも楽な道具を、イーズは思い切り吹いた。
「今度はちゃんと呼んだな、アルカ」
叫びはとどいた。ホールにあらわれたシグラッドは、羽織っている赤いマントよりも鮮やかな真紅の髪をかきあげ、金の瞳を爛々と輝かせながら、イーズを見上げてにこりと笑った。




