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13.

 足が動かなくなったことで、イーズの行動範囲は大幅に狭まった。部屋から一歩も出ない日があることは珍しくない。


 部屋の中で、イーズは本や楽器や裁縫道具に囲まれて過ごした。少し遠くにあるものを取るだけでも、人の手を借りなければならないので、手近に物を置いておく方が都合が良いのだ。


 もちろん、侍女は増やされているので、望めば希望はすぐに叶えられる。


 だが、イーズは極力人の手を借りないようにしていた。自分のことは自分でするように育てられているせいもあったが、イーズはまだ、自分の足が動かなくなったという事実を受け止め切れていなかった。


 落としてしまった物を拾おうとするとき、何かふと思いついて立ち上がろうとしたとき、不自由な足のことを忘れ、転ぶ。イーズは床を見つめて、絶望を感じる。手足を打った痛みよりも鋭い痛みが胸を刺す。一生、この不自由な身体と付き合っていくのだという事実が、背に重たくのしかかった。


「大丈夫ですか?」


 シャールが差しのべた手を、イーズはものうげに見上げた。両足をぺったりと床につけたまま、動かない。腕もだらりと下げたままだ。あまりに無気力なイーズの態度に、シャールはとまどった表情を浮かべた。


「どこか、違うところを痛められましたか?」

「……ううん」


 答えたきり、イーズは黙りこんでしまう。シャールは腰をかがめると、イーズの身体を持ち上げようと、脇に腕を差し入れた。動けなくなった直後よりも、二十日余りたった今の方が、元気がない。日に日に無表情になっていくイーズに、シャールはどう接していいのか分からずにいた。


「訓練すれば、歩けるようになりますから。希望をお持ちになって」


 どんな言葉をかければいいのかという当惑をにじませながら、シャールは主人を励ました。途端、イーズはまだ動ける上半身をひねって、シャールの腕から滑り落ちた。自分からまた床の上に落ちたのだ。


 シャールはあわててイーズをもう一度、椅子の上に引き上げようとしたが、イーズはその手を厳しく撥ねつけた。怒りのこもった目で、相手をにらみつける。


「歩けるようになんてなれなくていい」


 拳を握り、小さな肩を怒らせて叫ぶ主人に、シャールは口ごもった。はねのけられた手をひっこめる。イーズは椅子の上のクッションをつかむと、それを自分のお尻の下に敷いた。椅子に軽くもたれ、読書をつづける。シャールの方も、また自分のしていた仕事に従事した。


「シャールは何しているの?」

「大使のお手伝いですよ。竜王祭のとき、ニールゲンにお贈りする品物を決めているんです。イーダッド様が大使の部下を使っているので、大使が忙しくなっていて」


 元々人手が少ないので大変です、とシャールは嘆息した。品物の候補の一覧を作成し終わると、今度は衣装箱に手を伸ばす。イーズが竜王祭のときに着る衣装が入った箱だ。まだ完成はしていない。イーズが試着して、サイズをあわせる作業がのこっている。箱のそばには装飾品や、靴や、香水の小瓶も一緒におかれ、主人が身につけるときを待っていた。


「竜王祭、私、出るの?」

「そのつもりで準備が進んでいます。笛を吹くだけでしたら、足が悪くともできますからね」


 イーズは衣装箱から顔をそむけた。手のとどく範囲には竜笛もおかれているが、慎重に目をそらしていた。ぼんやりと、窓の外をながめる。年老いた庭師が、せっせと花壇を整えていた。イーズに気がつくと、にこりと笑って帽子を取り、一礼する。


 ここのところ、念入りにこの花壇を手入れしているのは、庭師なりの気づかいなのだろう。イーズの気を紛わそうとしてくれているのだ。見回りの兵たちも――元バルクの部下たちだが――気を使って、わざとおどけた調子で手をふってくる。立てなくてもいいと叫んだイーズは、彼らの親切に当惑した。


「イーダッドおじ様、全然、顔見ないけど、毎日、お忙しいの?」

「ええ。命を狙われた後ですので、あまり出歩かないようにお願いはしたのですが、聞き入れていただけませんでした」

「いっつもそう。人のいうことなんて、聞いてない」

「そんなことありませんよ。あの方は人の意見によく耳を傾けられる方です。公正で、公平な方です。だからアデカ王の信頼も厚い」

「じゃあ、いうことを聞いてくれないのは、私だけなんだね」

「アルカ様」

「どうでもいいんだ……」


 イーズは遠くで教本に埋もれていた杖を掘り出した。イーズの身長と腕力に合わせて作られた、長さも重さもちょうど良い木の杖だ。杖の表面には几帳面な紋様が彫られている。だれの手によるものなのかは、イーズにはすぐにわかる。苛立たしげに杖を振り上げ、床に打ちつけた。


「アルカ様、危ないですよ」


 シャールの制止にあっても、イーズは腕を振り回した。勢い余って、杖先が制止しようとした腕を打つ。短い痛苦の声があがり、イーズはすぐに動きを止めた。


「大丈夫です。全然。そんなに痛くなかったですから」


 シャールは平気さを示すために、手をひらひらと振った。だが、イーズは両手で杖を握りしめ、うつむく。先ほどまでの憤りは一気に消え失せ、冷や水を浴びせかけられたように、急に勢いがしぼんで静かになる。


 イーズの目の端に、涙が浮かんだ。不安や苛立ちをうまく抑制できない自分に、嫌気が差した。罪悪感と自己嫌悪がどっとイーズの心を襲い、表情をひどく陰鬱にさせる。


「……ごめん」

「あのくらい、痛いうちにも入りませんよ」


 シャールは杖を布につつむと、元の通りにおいた。うなだれる主人の背をかるく叩き、立ち上がる。


「喉、渇きませんか? 今日は暑いですし、冷たいものでも用意しますよ」

「うん……」

「今日はティルギスのお菓子もあるんですよ。大使が故郷から届いたのをおすそ分けしてくれたので。それも持ってきますね」

「ありがと。……さっきも、ごめんね。手、振り払っちゃって。シャールに怒ってもしょうがないのに」


 イーズはぼそぼそと、泣き出しそうな声で謝った。シャールは痛々しそうに主人を見、茶を用意しに部屋を出て行った。


 一人残されたイーズは、しばらくしょんぼりとうなだれていた。だが、やがて、おもむろに椅子の座席部分に腕をのせた。腕の力で上半身を座席に乗り上げさせ、今度は下半身まで乗せようとしたが、腕の力だけでは無理だった。


 イーズは顔を真っ赤にしてあがいたが、最後にはまた椅子からずり落ちた。二度目の挑戦をする体力はなく、イーズは床の上にうずくまり、嗚咽をこらえた。ドレスの上から太ももを痛いほど自分で強くつかみ、動かない足を叱咤する。


「これでは竜王祭は無理ね」


 扉が開け放たれると同時に、甘ったるい香りが入ってきた。侍女を引き連れて、ブリューデルが立っていた。口元を扇子でおおい、イーズを睥睨する。もどってきたシャールが、イーズをかばうように皇太后の前に立った。


「何の御用でしょうか、皇太后様。ご来訪の知らせは、受けておりませんが」

「咎められるおぼえないわ。私はこの棟を監督する役目を負っているのですからね」

「だれからお聞きになられたのです。このことを」

「最近、アルカ殿下の姿をお見かけしないし、竜笛の演奏もめっきり聞こえないから、練習なさっているのかどうか不安になって来てみたのよ。まさかこんなことになっていたとはね」


 ブリューデルは吹かれることのないまま放置されている竜笛を一瞥した。意図を察したシャールが、威嚇するように言い放つ。


「ご心配なく。アルカ様は竜王祭で、きちんとお役目をお果たしになられます」


 強気な態度に、ブリューデルは不愉快そうに眉をひそめた。床に座り込んだままのイーズに、ふん、と鼻を鳴らす。


「ちゃんと? 笑わせないで頂戴。笛くらいは吹けたとしても、歩くことも満足にできないというのに、どうやって客人たちをもてなすというの。はいずってもてなしでもするの?」


 ブリューデルが意地悪く笑うと、付き添いの侍女たちからも失笑が漏れた。シャールは怒りに燃えて白い頬を上気させたが、イーズは失意にうつむいた。


「辞退なさい。竜王祭は他国や属国にニールゲンの威光を知らしめるための、大事な祝祭。幼い皇帝に、婚約者の足の不自由な小国の王女? ニールゲンの将来について不信を招くわ」

「陛下のご指示がございましたら辞退いたします。お引取りを、皇太后様」

「お黙り、召使風情が! 私をだれだと思っているの!」


 横っ面を扇子でひっぱたかれ、シャールはバランスをくずした。イーズはシャールの足をささえ、その影から皇太后をきっと見上げた。緑の目と合い、身体が緊張に強張る。


「よくお考えなさい、アルカ殿下。貴女、そんな身体でまだこの国に皇妃として留まるの? そんな身体では、まともな子供も産めるかどうかも怪しいのに」


 ブリューデルは侮蔑をあらわにし、足元にあった裁縫箱を蹴り飛ばした。


「ともかく。このことは、陛下に抗議いたします。こんな重大なことを隠しておくなんて。やはり陛下はまだ子供。皇妃というものがどれだけ大事な地位かお分かりでないのです」


 ブリューデルは身を翻し、荒々しい足取りで去っていった。部屋に残るブリューデルの香水のにおいを追い払おうと、シャールはすべて窓を開け放った。イーズは蹴飛ばされてこぼれてしまった裁縫箱の中身を拾い集める。


「いったいどこから」


 シャールは扇子を打たれた箇所に、濡らした布をあてて思案する。はさみや縫いかけの布を拾い集めるイーズの手が、不安にふるえた。ここには、シグラッドやイーズが本当に信用できる者しか出入りできない。だというのに、ブリューデルが知っているということは、だれかの裏切りがあったかもしれないということだった。


「偶然だよ。ここにいる皆が裏切るはずないよ」


 イーズは不安に萎縮する胃を抑え、反論した。口ではそういっても、疑心と信頼の間で心が揺れ動く。また身近に危険が迫っているのかもしれないと思うと、息ができないほど怖かった。不安のあまり手元への注意がおろそかになって、イーズは針で指先を刺した。


「見せてください、アルカ様」

「心配ないよ。ちょっと刺しちゃっただけ」


 ぷっくりと血の珠が浮かんだ指先を、イーズはくわえた。裁縫箱の残りの中身は、シャールが拾い集めた。すべて拾い終えると、白い花が浮き彫りにされたふたを閉める。そのとき、二人の視線は、ふと裁縫箱に集中した。


「この裁縫箱はたしか、ヴォータン夫人から頂いたものでしたよね」

「そう……だけど」


 シャールの言わんとすることを察して、イーズはいい澱む。


「ないよ。ヴォーダン夫人がどうしてそんなこと。お見舞いに来てくれたのに」

「たしかに、理由はございませんが」

「ヴォーダン夫人、一見、冷たい感じのする人だけど、付き合ってみると親切な人だよ。もし仮にヴォーダン夫人が漏らしてしまったのだとしても、皇太后様に無理矢理いわされたのかもしれないよ」

「……そうですね」


 シャールはうなずいたが、まだ疑っている様子だった。イーズは、おそらくシャールが正しいと思いつつも、頭の中からアニーに対する疑念を振り払った。傷つくことに耐えられず、思考を停めた。


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