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11.

 澄んだ青い空が広がっている。うすく灰色がかった雲は、ながながと筋のように伸び、風に合わせて少しずつ移動していた。土と、濃い草のにおい。いい草のにおいだった。きっと羊たちも気に入るだろうな、と、イーズはほほえんだ。


「もう、こんなに暖かくなってたんだ……」


 吹く風のあたたかさを確かめようと、イーズは手を持ち上げた、すると、その手は濃い肌色をした手につかまれた。青い空しかなかったイーズの視界に、赤い髪をした少年が入る。


「アルカ!」


 ティルギスにいるのだと勘違いしていたイーズは、シグラッドの叫びに我に返った。自分がアルカとしてニールゲンに来ているという事実を自覚し直すことからはじまったので、気絶する寸前に何が起こったかを思い出すのには、かなり時間が要った。


「何が起きたか、おぼえているか?」

「大丈夫。今、思い出したよ」


 イーズがはっきりとした受け答えをすると、シグラッドは手をはなした。イーズは状況を把握しようと、周囲を見回す。まだ広場だった。芝生の上にマントを敷いて寝かされており、周りは近衛兵たちに固められている。太陽の位置は、騒ぎが起きた時とほとんど変わっていなかった。


 イーズは身を起こそうとし、背中に走った痛みにうめいた。ふたたび芝生の上に崩れ落ちる。シグラッドが心配のあまり、怒った声を上げた。


「動くな。どこを怪我しているかも分からないのに。今、担架と医者を用意させるから」


 命じるまでもなく、皇帝の側近はさっそく担架と医師を手配していた。イーズは身体の加減をたしかめながら、ゆっくり上体を起こした。シャールの身体に背を預け、ながく息を吐き出す。


「どうして旗が落ちてきたりなんか」

「竜王祭で飾るときの位置を確認していたら、手が滑ったということでしたが」

「ブリューデル様のところの侍女さん?」


 イーズの問いかけに、シャールの顔色がさっと変わった。


「落としたと証言したのは別の人間ですが、侍女の姿を見たんですか?」

「姿は見てない。ただ、旗が落ちてくるときに、ブリューデル様がよくお使いになっている香水のにおいがしたから。気のせいかも」


 イーズは否定したが、シグラッドの顔つきは怒気を孕んでみるみるうちに険しくなった。激しく感情が昂ぶっているのだろう、瞳孔が縦にひらき、虹彩が金に変わる。


「あの女、絶対焼き殺す」


 シグラッドは土ごとつかむ勢いで芝生をつかんだ。徐々に草のこげるにおいが広がりはじめ、うっすら煙が上がる。竜の血を濃く引くシグラッドは、黒竜ほどとはいかないまでも、炎を操ることができるようだった。


 皇帝に気おされて、イーズはもちろんのことシャールも顔をこわばらせた。ただ一人、イーダッドだけが冷静に口を挟む。


「たとえ皇太后が陰で手を引いていたとしても、非を認めさせることはできません。証拠が不十分だ」

「落とした人間を拷問にかけて吐かせる」

「そうできればいいでしょうが、皇太后の性格からして、もう始末しているでしょう」


 杖をかかえ壁にもたれかかっているイーダッドに、外傷は見当たらない。指先で黒いうろこを手先でもてあそんでいる。うろこは回転するたびに日の光を反射し、あたりに光をまきちらした。


「迷信もたまには当たるね」


 イーズは勝ち誇ったようにいうと、イーダッドはうろこを芝生の上に捨てた。


「身体はいかがですか」


 イーダッドは声も表情も硬かった。他のだれも気づいていなかったが、イーズは不機嫌なことを機敏に察した。縮こまり、とまどいながら謝る。


「……ごめんなさい」

「私が礼をいうべきことではあっても、アルカ様が謝ることではございませんよ」


 落ち着いた口調で返されたが、イーズはさらにイーダッドが苛立ったことに気がついた。怒る理由が分からず、イーズはさらに困惑する。


「アルカ様はこの国の皇妃になられる御方です。それをしっかりご自覚なさってください」


 イーダッドが怒りの理由をほのめかしたが、イーズはまだどういうことなのか分からなかった。シャールがどちらのことも心配そうに柳眉をひそめ、いう。


「アルカ様なくしてアデカ王の願いはかないませんが、イーダッド様なくしても不可能です。私がアルカ様と同じ立場だったら、私も同じことをしたと思います」

「シャール、アデカ王の願いを叶えるのに、より必要な方はどちらだ」

「それは……」

「感情に流されるな。命は等しく同じ重さだ。ならばより益のあるものを生かすべきだ」


 他人の身より自分の身を優先しろといいたかったのだと、イーズはようやく理解した。それはたぶん、正しい。正しいが、納得のできることではなかった。


「目の前でおじ様が死ぬのをただ見ていろっていうのなら、私は皇妃なんてやめた方がいい」

「アルカ様はお優しいお方だ。十数年、物を教えただけの私にそこまでの気をかけてくださるとは」


 賞賛をそのまま馬鹿正直に受け取るほど、イーズは愚かではなかった。父親の表情は残酷なほど冷めている。イーダッドにとっては、己の子も理想を叶えるための道具だった。子供が肉親の情を寄せてイーダッドを助けても、それが自分の計画の妨げとなるのなら、イーダッドにとってはただの迷惑なのだ。


 イーズは、自分と父親を繋いでいると思っていたものが、ぷっつりと途切れていることを知った。くろぐろとした大きな目にはイーズの姿が映っているが、イーダッドはイーズを見てはおらず、その先にある己の理想を見ている。すがるように見つめても、目は冷たくそらされるだけだった。


「標的は私のようですから。アルカ様はこれから、私とは係わり合いになりませんように」


 担架が運ばれてきた。イーダッドは杖にすがって、立ち上がる。イーズは返事もできず、呆然と、芝生に捨てられた黒いうろこを見つめていた。アルカ様、とシャールに声をかけられて、ようやく視線をはずす。


「どうかなされましたか?」


 イーズがぴくりとも動かず、自分の両膝を凝視しているので、シャールは不審そうにした。


「……なんでもないよ。虫がいたから」


 イーズは膝の上を手で払った。払ったが、その後もじっとして動かなかった。シグラッドも不審そうにする。


「アルカ、どうかしたか?」


 イーズは答えなかった。いや、答えられなかった。遠ざかっていく杖の音がながいながい静寂を埋める。


「……かない」

「え?」


 か細く震えた声は、二人の耳に届かなかった。イーズはうつむき、衣装の裾を握りしめる。顔を死人のように青くして、もう一度、震えた声で告白した。


「足、動かない」


 イーダッドの杖の音が、止んだ。

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