1.
天鵝絨張りの長椅子とあたたかな毛布の間で、イーズは心地よい眠りからさめた。天井いっぱいに描かれた絵画を寝ぼけまなこで仰いでいたが、やがて身を起こした。床に足を下ろせば、織り紋様のうつくしい絨毯の感触があった。
つい先日までとは正反対の環境に、イーズは自分が元の場所にもどって来たことを感じた。息をひとつ吐いて、重厚な家具や分厚いカーテンのかかった室内を見回す。
ここはイーズの部屋ではなく、イーズの婚約者であり、この国の王であるシグラッドの部屋だった。ここなら警備も厳しいので、安心して眠れるだろうとシグラッドが配慮したのだった。
シグラッドの寝室につながる扉は、まだ開かない。イーズが次の行動考えて悩んでいると、扉が開いた。シグラッドが顔をのぞかせ、自分の婚約者の姿を認めて、うん、と一つうなずいた。
「ちゃんといるな」
イーズはばつが悪そうにした。またの逃亡を疑われていた。
「気分は?」
「平気だよ。……今のところ」
「今からまた次の心配をしているのか」
「そういう性格なの」
イーズがむくれると、シグラッドはくすくすと笑った。安心させるように、イーズの頭をかるく小突く。机の上の呼び鈴を鳴らすと、しずしずと侍女たちが部屋に入ってきて、カーテンを開けたり、暖炉に火を入れたりした。
皇帝の着替えがはじまると、イーズは自分の衣装がここにはないことに気がついて困ったが、シグラッドが衣装を貸してくれた。ニールゲンに来た当初は、イーズの方が背が高かったはずだが、いつの間にか追い抜かれていたらしい。借りた服は少し袖が余った。
着替えが済むと、二人は食堂へ移った。食卓を挟んで向かい合うのは久しぶりだった。シグラッドが銀の匙を取って、イーズに確認した。
「忘れてないだろうな? 私が先だぞ」
「もちろん、覚えているよ」
イーズは両手をひざにおいて、シグラッドがスープを毒見するのを見守った。毒見は済んでいるが、シグラッドがまず食べて安全を確認してから、イーズが口をつけるのが、二人の間の食事の決まりだった。
逃亡の間は毒の心配をしなくてよかったイーズは、その光景に戻ってきたという事実をより実感した。ずしりと胃が重くなったが、もどってきたのは自分の意思だ。背筋を伸ばす。
「毒のあるなしなんて、どうやって判断してるの?」
質問に、シグラッドは少し驚いたようだった。しかし、面倒がることなく説明する。
「まずは料理をよく見る。私が、食器に銀製のものしか使わないのは、銀は毒物に反応するからだ。だが、銀に反応しない毒もあるから、今度は味とにおいで判断する」
「苦味があると、警戒したほうがいいんだっけ?」
「そう。判断しやすいよう、味付けはなるべくうすくさせている。どこかに招かれて、食事をするときは、城の料理より味が濃いから分かりにくい。だれかに食べさせてから、食べるんだ。絶対に。人を信じるな」
毒見の済んだスープに、イーズは口をつけた。予行演習というように、スープをよく味わって飲む。その様子に、シグラッドは微笑を浮かべていた。自分から質問をした婚約者にやる気を見て、喜んでいるようだった。
「怖かっただろ。命を狙われているって分かったとき」
「怖かった。世の中全部が敵に見えて、何も信じられなくなる。そんな自分を嫌にもなもなるから、苦しくて、気がおかしくなりそうだった」
「何もできなくて、悪かった。気づいてはいたのに、有効な手立てを打てなかった。まだまだ私が弱いせいだな」
シグラッドはめうずらしく弱気を見せた。それだけ、何もできなかったことを悔いているのだろう。イーズは真剣で真摯な態度に、信頼をおぼえた。
「心配かけて、ごめんね。ありがとう。今度から、家出する前にシグにちゃんと相談する」
「そうしろ。たしかに私は名ばかりの王だが、人一人守れないほど無力じゃない」
シグラッドはハムを一切れ味見して、イーズの口元にはこんだ。
「そういえば、今日は朝議にティルギスの軍師――ハルミット殿がくるかもしれないぞ」
予想もしなかったことを告げられ、イーズは危うくのどにハムを詰まらせそうになった。なぜ、と怪訝そうにするイーズに、シグラッドも怪訝にする。
「アルカがいなくなって、ティルギスに連絡を入れたからな。ニールゲンとの交渉を一手に引き受けているハルミット殿が来るのは当然だろう?」
もっともなことだった。イーズはごくりとハムを飲み下し、そわそわと、自分の身だしなみを確認しはじめた。イーダッドに何をいわれるかと思うと、落ち着かないのだ。
「本当に来るの?」
「昨日城下に入ったという連絡があったから、朝議が無理だったとしても、今日には顔を出すだろう。なんなら、アルカも朝議に出るか? アルカが生きていたことを皆に知らせられるし。うん、そうした方がいいな」
イーズの返答も聞かないうちから、シグラッドがそう決めたので、イーズは朝議に出ることになった。
王の間へ行く間、イーズは父親への応対に気を重くしていた。だが、人々から好奇の視線を浴びていることに気がくと、我に返った。昨晩の騒ぎを知っている者たちは、騒ぎの張本人の登場に興味津々だった。そうでなくとも、行方不明のティルギスの姫が突然あらわれたことは、人々の注意を一気にひきつけた。
「逃げるなよ」
扉の前で立ち止まったシグラッドが、イーズに左腕を差し出した。イーズはうなずいて、その腕に腕を絡ませる。扉が開くと、深呼吸して前へ踏み出した。
中にはすでに大臣や官吏がそろって整列し、皇帝の登場を待っていた。彼らはどよめき一つ漏らさなかったが、イーズは空気のさざめきを肌で感じた。一歩進むごとに、不躾に視線が突き刺さる。
驚き、好奇心、それだけならばまだいい、かすかな落胆を鋭敏に感じ取って、歩みが止まりそうになる。ティルギスの姫がいなくなったと知って喜んだのは、何もイーズを殺そうとしていた宰相一人だけではなかったのだ。
「朝議をはじめる」
広い空間にもよく通る、張りのある声がひびいた。シグラッドの一言に、家臣たちが居住まいを正す。人々の視線は玉座の横に座っている少女にある。シグラッドの側近が咳払いを一つして、一歩前へ出た。
「皆、すでに気づいているであろうから、今朝はまずこのことから話そう。長らく行方が分からず、一時はお命すら危ぶまれていたティルギスの姫君、アルカ=アルマンザ=ティルギス様が、昨晩、おもどりになられた。殿下はこの二ヶ月間――」
説明をはじめて少しして、石床をつく杖の音がひびいた。ガツン、カツン、という音は全員の耳にもとどいた。側近の説明する声は尻すぼみになる。音を出している人物がだれか、イーズは見ずとも分かった。うつむき、両手を強く握り、近づいてくる音に身を硬くする。
「お久しぶりです、アルカ様」
金属で補強された杖先と、刺繍入りの質素な外套。イーダッドが、目の前に立っている。ただ立っているだけだというのに、声に、雰囲気に圧倒されて、イーズは返事ができなかった。広間の人々は、誰一人、この来客の唐突な行動をとがめなかった。成り行きを見守っている。
「お立ちいただけますか」
丁寧だが、有無をいわせない力があった。イーズはいわれるがまま、そろそろと立ち上がる。すると、杖先にあごを捉えられた。無理矢理に上をむかされ、イーダッドを目を合わせさせられた。
「ご説明を。あなたはこの城にずいぶんな騒ぎを起こした。その弁明は、騒ぎの張本人である貴女がするべきです。それが責任というものです。
それもできないなら、あなたにはなんの価値もない。ニールゲンの皇妃としても――ティルギスの兵としても」
イーダッドの重い言葉に、イーズは唇を引き結んだ。人々の視線はイーズに集中している。緊張ですぐには思考がまとまらなかった。長い時間をかけてまとめ、ふるえた声で説明をはじめる。
「わ――たしは、この二ヶ月間、私は地下に黒竜とともにいました。私の命を狙った者から、身を隠すためです。その者は、私だけでなく、陛下のお命をも狙っていましたが、黒竜と陛下、そしてレギン殿下の協力で、その男を捕らえることができました。昨晩の騒ぎは、そのために起こったものです」
声はときどきかすれた。イーズは自分が何を話しているかもよく分からない状態だったが、つづけた。
「陛下にも皆様にも、たいへんなご迷惑と心配をおかけし、申し訳ございませんでした。深く、お詫び申し上げます。こうして無事にもどって参りましたので、これからもどうぞよろしくお願いいたします」
いい終えた直後、イーズの心臓ははげしく波打った。沈黙が痛いと思っていると、家臣の一人が挙手をした。皇帝が発言を許可する。
「その、殿下と陛下の命を狙った不届き者というのは? 私たちもよく知る人物ですか?」
イーズははっきり告発をしていいものか迷って、シグラッドたちの反応をうかがったが、止める言葉はなかった。
「クノル卿です。宰相の」
イーズの答えに、ざわめきが起こった。中には半分事情を知っている者もいたようで、やはりと納得していた。イーズはしばらくざわめく人々をながめていたが、これにも自分が収集をつけなければいけないと気づいて、再度発言した。
「一つ、皆さんに聞いていただきたいことがあります。聞いていただけますか」
ざわめきに負けないよう、イーズは声を張り上げた。ふるえていたが、人々を静まらせることはできた。
「私はティルギスから、ニールゲンと友好を結ぶために来ました。名目は陛下の婚約者としてですが、私の役目はニールゲンと良好な関係を築くことで、名目を争うことではありません。
同盟国の使者として、ニールゲンの繁栄と幸福のために尽力する。これが私の役目だと思っています。どうか誤解なきようお願い申し上げます」
一拍おいて、小さく拍手があがった。途端、それが合図だったように、拍手が湧き起こる。ここに来た当初、ティルギスの少女は皇帝にもろくに挨拶できないほどおどおどしていた。だが、今はふるえながらもきちんと物をいえるほどに成長していた。皆のイーズを見る目に変化が起きていた。
イーダッドもイーズの説明に満足したようだった。イーズは極度の緊張から解放され、全身から力が抜けた。王座から立ち上がったシグラッドに支えられなければ、地面にへたりこんでいただろう。
「そんな砂糖菓子みたいに甘いこといってると、食いつぶされるぞ」
「そう……なのかな」
不安に表情を曇らせると、シグラッドに抱きしめられた。おかえり、といわれて、イーズもシグラッドの背に腕をまわした。ただいま、と返す。
二人の親しげな様子に、ざわめいていた家臣たちはだんだん静まっていった。粛々と、皇帝と、未来の皇妃に頭を垂れる。イーズは自分が、以前よりもずっと強固に、皇妃という立場を確立したことを知った。
朝議が終わるよりも一足先に、イーズは廊下へ出た。すぐにシャールが走り寄ってくる。ティルギスの大使もいた。二人はイーズをねぎらった後、つづいて出てきたイーダッドに頭を下げた。
「五十点、といったところか」
淡々と評価を下され、イーズはちぢこまった。
「最後のは、余計だ」
「……ごめんなさい」
イーズは蚊の鳴くような声で、謝った。さっきまで人々に叫んでいた勢いが嘘のようにうなだれる。
「ニールゲン側に何一つごまかされず、脚色されず、公衆に事実を知らしめることができたのは合格だ。ニールゲン内での出来事だ。ニールゲン側に都合のよいよう事実を捻じ曲げられる可能性は充分にあった。当分、これをネタに交渉を優位にできるだろう」
「それで何点?」
「点はない」
「な、なし?」
「事実の公知することができて五十点、おまえ自ら告発することで、やすやすといいなりにある相手でないと、他の輩を牽制をしておくことができて五十点だった。だが、後半ので台無しだ。名目を争う気はないなど……自ら皇妃になる気はないといってどうする」
「ごめんなさい。でも、それならどうして五十点なの?」
イーズはさんざんな評価に打ちのめされ、しょぼくれた。すると、イーダッドの手が頭にのせられた。くしゃりとかるく頭をかき回され、イーズは目を皿にする。
「無事で何よりだ」
今まで抱えていた不安、終わったことへの安心など、心の中のさまざまな感情があふれ、イーズは堪えきれなくなった。父親の腰に抱きつき、こぼれそうになる涙を堪える。
足の不自由なイーダッドは抱きつかれて困り顔になったが、やれやれと半分諦めた様子で、抱きつかれるに任せていた。
シャールと大使は、親子の再会を少しはなれたところで見守っていた。