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東郷尊は、いつものように寝坊した。人間にとって、二月というのは布団から出たくない季節であると思う。布団の中で時計を確認すると、尊は不承不承に起き上がった。彼にとってはもはや、寝坊することが普通であり、早起きする方が異常だった。
尊は特別焦ることもなくゆったりと準備をして、高校へと向かった。進学した公立高校までは、電車で移動する時間も含めると四十分ほどだ。学区内で一番偏差値の低いその高校は、不良の進学先として有名だった。実際は、不良じゃない生徒も少なからずいるのだが、自分のような生徒のせいでそういった噂が立つのだろうなと思う。尊は茶色に染めあげた自慢の髪の毛をいじりながら、ホームで電車を待っていた。
「いってーな!! おい待てよ、おっさん!!」
そんな怒声が遠くから聞こえてきて、尊はそちらへと目を向けた。自分と同じ制服を着た男子学生が、スーツ姿の中年男性に向かって怒鳴っている。どうも、肩がぶつかったらしい。ああいう学生がいるから、うちの高校は不良の進学先として有名なのだと思いつつ、尊は彼らの様子を見ていた。中年男性は表情を変えることなく、学生の言い分を無視して歩き始めた。そんな後ろ姿に、学生が叫ぶ。
「おい、ぶつかってきておいて、なんだよその態度!! てめえなんか【死んじまえ】!!」
――次の瞬間。
中年男性の首が、ゴキリと音を立てた。尊に背中を向けていたはずの男性の顔が、こちらを向いている。ただし、こちらを向いているのは首から上のみ。身体は、前を向いたままだ。
男性の首が百八十度回転しているのだと理解するまでに、酷く時間がかかった。
「――あ?」
声を出したのは、尊だった。中年男性はひきつったような笑みを浮かべながら、こちらを見ている。耐えきれなくなった首の皮がブチブチと音を立て、そこから鮮血が噴き出した。
「……え」
冗談のような光景に、尊は目を見開く。
真っ赤な血を勢いよく噴き出していた中年男性の身体はガクガクと痙攣しはじめ、やがて、倒れた。
「――……っ」
こみ上げてくるものを、尊はそのまま吐き出した。
――なんだ? 何が起こったんだ……?
目の前で起こった、凄惨な出来事。だが。
誰も、何も、言わない。
悲鳴をあげる者も、中年男性に大丈夫かと声をかける者もいない。まるでその光景が当たり前だと言わんばかりの顔。皆一様に、何事もなかったかのような顔をして、男性の死体は無視している。先ほど男性と喧嘩していた学生も、澄ました顔で電車を待っていた。
「……どういうことだよ」
尊は死体に目をやらないよう注意しながら、呟いた。――人が、人が死んだんだぞ。
改札口からホームにやってきた人間が、男性の死体を見下ろす。それから無感情に、近くにいた人間に尋ねた。
「……どうしたの、このおじさん」
「さあ? 勝手に死んじゃったみたい」
尊は耳を疑った。死んじゃったってどうしてそんな、簡単に……。
電車に乗ることも忘れ、尊は呆然と、人々の様子を見ていた。
やがて、誰かが面倒くさそうな顔をしながら駅員を呼びに行った。呼ばれた駅員はこれまた面倒くさそうに、警察に通報した。やってきた警察は面倒くさそうな顔をしながら、のろのろと死体の処理をし始めた。
事情聴取なりなんなりされるかと思ったが、それもなかった。
「――どうなってんだ……?」
尊はあたりを見回した。電車が来るとアナウンスする声も、落書きの目立つベンチも、駅の名前も、昨日見たそれと変わりなかった。変わっているのはただ一か所、……先ほどの男性の血痕のみだ。
悪い夢でも見ているのだろうかと考えたが、頬をつねるような古典的なことはしなかった。
「――……はい、一人目。結構嫌な死に方だったね」
尊の姿を見ながら、少年は呟いた。尊からは見えない、けれども少年からは尊の姿がよく見える位置で、彼は楽しそうに笑った。
「犠牲者その一。中年男性。頚椎骨折および失血死」
何かを記録するかのように、ニュースを読むアナウンサーのように、感情のない声で言う。
「彼を殺した言葉は、――てめえなんか死んじまえ、でした」
そこで言葉を切ると、少年は声を出して笑った。壊れたおもちゃのように、断続的に。それはそれは、楽しそうに。
「……さて」
少年は笑い終えると、尊の方を見てほほ笑んだ。それはまるで、
「君はいつ、その事実に気がつくのかな?」
まるで悪魔のような、笑顔で。