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図書室には、鍵がかかっていなかった。尊がゆっくりと扉をあけると、正面にカウンターが、そこに座っている女性の司書が見えた。気真面目という言葉をそのまま体現したかのような眼鏡の中年女性は、入荷したばかりの本にバーコードを貼る作業に夢中だった。
「――誰もいないですね」
司書のことは無視して、如月が呟いた。尊は頷く。授業中ということもあって、図書室には司書以外誰もいなかった。尊は内心で肩を落としつつ、『今月おすすめ』の棚を覗いた。そして、
「――……?」
そこに並んでいる本に、違和感を覚えた。
『今月おすすめ』の棚には、司書が推薦したものと、学生にアンケートを取って人気のあった本が並ぶ。司書推薦の本はともかく、学生が好むのは、読みやすいライトノベルが多い。なのに今、その棚に並んでいるのは
「……自殺の心理、いじめの社会学、希死念慮と鬱病、不眠症、社会不安障害、向精神薬マニュアル、自殺の費用、自傷行為を理解するには」
如月が、すらすらと本の名前を読み上げた。尊は首をかしげる。
「なんだこれ。なんでこんな……」
「鬱や自殺に関する本が多いですね。――というか」
如月は隣にある棚を覗き、
「ほとんど、その手の本しか置いていない」
不気味そうな顔で、尊に言った。尊は『完璧自殺マニュアル』を手に取り、ぱらぱらとめくりながら呟く。
「……俺の知ってる図書室は、こんな本ばっかじゃなかったぞ」
「分かってます。むしろ、これだけ偏っている方がおかしいです。心理系の学校ならともかく、…………っ」
如月の言葉が、不自然なところで途切れる。
「如月?」
不審に思った尊は、本から顔をあげた。
如月は必死になって、棚の上段にある本に手を伸ばしていた。だが、彼女の身長では、上段に手が届かない。
「どれだ?」
尊が近づくと、如月は背伸びして指を指しながら「あの本」と言った。その本は、
「……小説の書き方講座?」
尊は如月の代わりに本を取りながら、首をかしげた。これだけは明らかに、心理学の本ではない。棚から取り出してみると、その本にはバーコードがついていなかった。つまり、その本は図書室のものではなかった。
「どうして、この本だけ……」
尊が眉をひそめ、如月は首をかしげた。その時。
「あれ? たけるお兄ちゃん」
本棚の陰から、ランドセルを背負ったままの秀が出てきた。胸に、大学ノートのようなものを抱えている。
「秀! お前、なんでこんなとこに」
「なんでって、本を借りようと、思って……」
秀は、はっきりしない口調でもごもとそう言うと、自分の持っていた大学ノートを尊に差し出した。
「これ。三年一組、って書いてるから、たけるお兄ちゃんのクラスの人のだよね? 落ちてたから、渡しておいて。じゃあね」
「あ、ちょっと待て、秀!」
尊の制止を無視して、秀は図書室から出て行った。
「なんだ、あいつ……」
尊はいらいらしながらも、秀に渡された大学ノートを見る。B5サイズの、何の変哲もない青色の大学ノートだ。名前を書く欄を、尊はチェックする。
「三年一組、……くそっ、読めねえ」
名前の部分は、黒いマジックで塗りつぶされていた。
表紙を開くと、詩とも小説ともいい難い文章が、シャーペンで書かれていた。そこに書かれた小さな文字を、尊は朗読する。
『僕が生きてる証
僕が生きてる印
僕は今日も、手首に赤い線を引きます
僕の唯一の、存在証明
僕は、『そこ』にいるのでしょうか
僕はちゃんと存在しているのでしょうか
僕は、生きているのでしょうか
分かりません 分かりません
分からないから線を引きます
赤い赤い、線を引きます
僕の唯一の、存在証明
さあ、今日も涙の代わりに血を流しましょう
僕の唯一の、存在証明
僕の唯一の、存在理由』
「……なんだこれ」
「――リストカット。自傷行為のこと、みたいですね」
尊は、如月の顔を見る。彼女は笑いもせず、ノートの文字を見ていた。
「如月、お前……心理学、詳しいのか?」
先ほどから話についていけていない尊は、情けない声を出す。如月は困ったような顔で頷いた。
「心理学部に進学を希望してるんです」
「へえ……。リストカットって、あの、手首切るやつだよな?」
「そうです」
尊は思わず、如月の手首を見た。しかし、黒の長袖パーカーが邪魔で見えない。尊の視線の先に気付いた如月は、苦笑した。
「わたしはやってませんよ」
そう言って、両腕の袖を如月はめくった。傷一つない手首を見て、尊はため息をつく。そして再度、ノートに目を落とした。リストカットのことを綴った、ノート。
赤い線が無数に刻まれた手首。その映像が一瞬、尊の頭をよぎった。
「……このノートの持ち主が、あのクラスでいじめられてた奴なのかな」
「――……わたし」
「うん?」
如月は口元に手を当て、何かを思考しているようだった。身体が小さくなってしまった高校生探偵が、推理の時によくやるポーズだと尊は思った。
如月は口元から手を放すと、困惑した顔で言った。
「わたし、この文章を、見たことあるような気がします」




