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猫の墓  作者: 石井春介
8/9

8 別れ









『ね、君、いくつ?』


『じゅう』




遠い遠い記憶。



今となっては淡い記憶。






『ねぇ、お姉ちゃんと一緒に――』










朝の匂い。


少しじめっとした、澄んだ空気の匂いだ。






でも、そこに何か違う匂い――



人間?






ノシロはハッと目を覚ました。



右肩を見ると、もたれ掛かってくるウエキ。







「…………」




小さく寝息を立て、完全に寝入っている。



彼女の周りには、空になったツナ缶が散乱していた。





そうだ、昨日――ウエキが何やらツナ缶を大量に買ってきて。


食べて、そのまま眠ったんだ。






彼女に対してあまりに無防備だった自分に驚く。



昔の俺なら、人間と一緒に寝るなんて事は無かった。







確実に、俺の中の何かが、変わってきている。




人間に、ウエキに対する気持ちが、変化してきているんだ。









そんなことを考えながら寝顔を眺めていると、鼻がもぞもぞと動いて、薄く瞼が開かれた。




「……起きたか」


「………ノシロ…?」






再び目を閉じ、ウエキは小さく息を吐いた。




その吐息混じりに、掠れた声が聞こえた。







「お母さんは見つかった…?」





「…? ウエキ?」


「ん…? な…に?」






 



お母さん……?



昨日の事を思い出しているのだろうか。


あの、迷子になったという猫の一族の子を――






眩しそうに目を細めると、跳ねた髪で頬を攻撃してくる。


ノシロはウエキの攻撃から逃れた。





「おはよう…いい朝だねー」


伸びを1つ、欠伸を1つすると、彼女の頭が、ノシロの肩に寄ってくる。



「こら! 俺を枕代わりにするな!」


「あ~も~眠いよー…」





目を擦り、また欠伸をする。








ノシロは頭を掻くと、フードを深く被った。




「………」






ウエキは、昔 人を殺した。



猫を守るためとは言っても、その事実は変わりはしない。




だから、警察署長になったタガミがやって来たのだ。



ウエキを捕まえに――







「ん、なにさ?」




ふっと、振り返る。


昨日の事など、全く覚えてないような感じだ。







ったく――ちょっと心配してやればこれだ。






いつもの能天気で、昨日の出来事がまるで夢のようだ。


いや――夢ならどんなにいいことか。








「なに、人の顔じろじろ見ちゃって!」


「なんでもない」



「もー、ノシロってば!

私の事が好きなら、はっきり言えばいいのにー!」


「ばっ、ばば馬鹿か!!

何言ってるんだ!!

そんなわけあるか!!」



ウエキは唇を尖らせる。


「なにさっ、冗談だよ!

そんなに否定しなくてもいいじゃん」








突然、ウエキが立ち上がった。







「朝ごはんの時間だね!」




こいつ――飯の事しか頭に無いのか?




ウエキは振り返り、ノシロに微笑みかけた。


「私も、猫の一族に生まれたかったな」




「え?」


思わず声が漏れる。



猫の一族に?

変わった奴だ――






「だって、そのへんの猫ちゃん見てると、気ままでいいなぁって思うもん」



「…猫の一族のみんながみんな、気ままというわけでは無いぞ」



「はは、そりゃあねっ!

そうだろうけど――」




跳ねた髪を揺らして、言った。






「……人間という立場よりかはいい。

猫を殲滅した、そういう立場よりかは……」







ふっと風が吹いた。


ウエキの髪が優しく揺られる。









「…これからどうするつもりだ」



ウエキの背中は、こうして見てみると、思ったより小さい。





「んー? 大人しく捕まろうかな?」



首が右に傾く。


すると、振り返って、舌を出した。




「なんてね。

まだ捕まらないよ? 私。もっと楽しみたいもん。逃亡ライフっていうか?」






くるくると踊るように回るウエキ。







「この街を出るつもり」




小さくジャンプして、バレリーナのように、指先をやんわり伸ばす。



「生まれ育った街を離れるのは、ちょっと心が痛むけどね。

…ノシロともお別れしなきゃ」








優しい笑み、というより、無理をした笑み。







「…いずれ、帰ってくるのか」



「ほとぼりが冷めたら、きっとまた帰ってくるよ」




「そうか」









ノシロはゆっくり立ち上がると、自分のフードに触れた。



「…耳」





「ん?」



「耳、見たいって言ったな」




「…え」









大通りには人気が無い。



フードをゆっくり外した。



髪に紛れて、黒い耳が現れる。








「…み、耳…だ…

はは」




その笑った目から、涙が溢れていた。






「あ、ぅ…耳…」



ぼろぼろ溢れていく涙を止めることも無く、口角を無理矢理 上げる。







ぎゅっと目をつぶると、涙がさらに溢れ出した。




「…お別れしたくないよー…」


ゴシゴシと擦るように涙を拭う。










ぎゅっと胸が締まる思いがした。



初めての感情に、思わず自分の胸蔵を掴む。









一瞬、この人間を抱き締めたくなった。


だがすぐに、我にかえる。






…これ以上の干渉は良くない。

俺にとっても、彼女にとっても。






「…お別れだね」





――無駄な感情は持つな。

いずれ、身を滅ぼす事になる。








「…早く、帰ってこいよ」


絞り出して、ようやく出た声だ。








「……ありがとう。

またね」



語尾を潤わせて、すぐにきびすを返して去っていった。













春の風が冷たく感じて、ノシロは再びフードを深く被った。





 

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