8 別れ
『ね、君、いくつ?』
『じゅう』
遠い遠い記憶。
今となっては淡い記憶。
『ねぇ、お姉ちゃんと一緒に――』
朝の匂い。
少しじめっとした、澄んだ空気の匂いだ。
でも、そこに何か違う匂い――
人間?
ノシロはハッと目を覚ました。
右肩を見ると、もたれ掛かってくるウエキ。
「…………」
小さく寝息を立て、完全に寝入っている。
彼女の周りには、空になったツナ缶が散乱していた。
そうだ、昨日――ウエキが何やらツナ缶を大量に買ってきて。
食べて、そのまま眠ったんだ。
彼女に対してあまりに無防備だった自分に驚く。
昔の俺なら、人間と一緒に寝るなんて事は無かった。
確実に、俺の中の何かが、変わってきている。
人間に、ウエキに対する気持ちが、変化してきているんだ。
そんなことを考えながら寝顔を眺めていると、鼻がもぞもぞと動いて、薄く瞼が開かれた。
「……起きたか」
「………ノシロ…?」
再び目を閉じ、ウエキは小さく息を吐いた。
その吐息混じりに、掠れた声が聞こえた。
「お母さんは見つかった…?」
「…? ウエキ?」
「ん…? な…に?」
お母さん……?
昨日の事を思い出しているのだろうか。
あの、迷子になったという猫の一族の子を――
眩しそうに目を細めると、跳ねた髪で頬を攻撃してくる。
ノシロはウエキの攻撃から逃れた。
「おはよう…いい朝だねー」
伸びを1つ、欠伸を1つすると、彼女の頭が、ノシロの肩に寄ってくる。
「こら! 俺を枕代わりにするな!」
「あ~も~眠いよー…」
目を擦り、また欠伸をする。
ノシロは頭を掻くと、フードを深く被った。
「………」
ウエキは、昔 人を殺した。
猫を守るためとは言っても、その事実は変わりはしない。
だから、警察署長になったタガミがやって来たのだ。
ウエキを捕まえに――
「ん、なにさ?」
ふっと、振り返る。
昨日の事など、全く覚えてないような感じだ。
ったく――ちょっと心配してやればこれだ。
いつもの能天気で、昨日の出来事がまるで夢のようだ。
いや――夢ならどんなにいいことか。
「なに、人の顔じろじろ見ちゃって!」
「なんでもない」
「もー、ノシロってば!
私の事が好きなら、はっきり言えばいいのにー!」
「ばっ、ばば馬鹿か!!
何言ってるんだ!!
そんなわけあるか!!」
ウエキは唇を尖らせる。
「なにさっ、冗談だよ!
そんなに否定しなくてもいいじゃん」
突然、ウエキが立ち上がった。
「朝ごはんの時間だね!」
こいつ――飯の事しか頭に無いのか?
ウエキは振り返り、ノシロに微笑みかけた。
「私も、猫の一族に生まれたかったな」
「え?」
思わず声が漏れる。
猫の一族に?
変わった奴だ――
「だって、そのへんの猫ちゃん見てると、気ままでいいなぁって思うもん」
「…猫の一族のみんながみんな、気ままというわけでは無いぞ」
「はは、そりゃあねっ!
そうだろうけど――」
跳ねた髪を揺らして、言った。
「……人間という立場よりかはいい。
猫を殲滅した、そういう立場よりかは……」
ふっと風が吹いた。
ウエキの髪が優しく揺られる。
「…これからどうするつもりだ」
ウエキの背中は、こうして見てみると、思ったより小さい。
「んー? 大人しく捕まろうかな?」
首が右に傾く。
すると、振り返って、舌を出した。
「なんてね。
まだ捕まらないよ? 私。もっと楽しみたいもん。逃亡ライフっていうか?」
くるくると踊るように回るウエキ。
「この街を出るつもり」
小さくジャンプして、バレリーナのように、指先をやんわり伸ばす。
「生まれ育った街を離れるのは、ちょっと心が痛むけどね。
…ノシロともお別れしなきゃ」
優しい笑み、というより、無理をした笑み。
「…いずれ、帰ってくるのか」
「ほとぼりが冷めたら、きっとまた帰ってくるよ」
「そうか」
ノシロはゆっくり立ち上がると、自分のフードに触れた。
「…耳」
「ん?」
「耳、見たいって言ったな」
「…え」
大通りには人気が無い。
フードをゆっくり外した。
髪に紛れて、黒い耳が現れる。
「…み、耳…だ…
はは」
その笑った目から、涙が溢れていた。
「あ、ぅ…耳…」
ぼろぼろ溢れていく涙を止めることも無く、口角を無理矢理 上げる。
ぎゅっと目をつぶると、涙がさらに溢れ出した。
「…お別れしたくないよー…」
ゴシゴシと擦るように涙を拭う。
ぎゅっと胸が締まる思いがした。
初めての感情に、思わず自分の胸蔵を掴む。
一瞬、この人間を抱き締めたくなった。
だがすぐに、我にかえる。
…これ以上の干渉は良くない。
俺にとっても、彼女にとっても。
「…お別れだね」
――無駄な感情は持つな。
いずれ、身を滅ぼす事になる。
「…早く、帰ってこいよ」
絞り出して、ようやく出た声だ。
「……ありがとう。
またね」
語尾を潤わせて、すぐにきびすを返して去っていった。
春の風が冷たく感じて、ノシロは再びフードを深く被った。




