2 ウエキ
「ノシロー!」
遠くから聞こえた弾む声に、ノシロは顔を上げた。満面の笑顔の彼女は、両手いっぱいに紙袋を抱え駆け寄ってきた。彼の表情は変わらない。ノシロは常にこの路地裏に居座っている。ほんの少し明るすぎる彼女が毎日のようにノシロの元にやってきても、彼はこのお気に入りの場所を他の家無し人に譲る気は毛頭無かった。
「食べ物買ってきたよ、食べる?」
所々跳ねた栗色の髪も気にせず、彼女はノシロの横に勢い良く座り込んだ。乾いた泥が彼女の上着を汚したが、特に気にした様子もなく、よれた紙袋を漁り始めた。
彼女の名は、ウエキといった。
「ツナかシャケ、どっちにする?」
「ツナ」
無愛想に答えた彼は、フードのついたマントを深く被った。艶やかな黒髪が太陽から逃れる。マントは使い古されくたびれていて、ゴミと呼んでもいいようなぼろ布で出来ていた。だが彼は気にしていないようで、むしろそのマントを好んで使っているようだった。
「はい、どうぞ」
ウエキは柔らかい蓋を持ち上げ、銀色のスプーンと一緒に差し出した。わざわざ、彼女の家から持ち出したのであろう。ノシロは無言で缶とスプーンを受け取り、ツナをとにかく掻き込んだ。その際に、尖った犬歯が覗く。
「んねーぇ、ノシロ」
「にゃんだ」
ツナを口いっぱいに頬張るノシロ。
「ノシロは、人間が嫌いなの?」
「当たり前だ」
ツナ缶はあっという間に空になって、乾いた音を立て缶を地面に置かれた。ノシロは、濡れた口を親指で拭った。
「一族を皆殺されたんだ。お前ら人間にな」
「でも、もう十年も前の話だよ?」
「何年前だろうが、関係ない」
ノシロが吐き捨てるように言うと、彼女は幼い顔をつまらなさそうに歪ませた。
二人があの雨の日にこの路地裏で出会って、半年が経とうとしていた。ウエキという女性は本当に好奇心が旺盛で、そして誰に対しても平等の考えを持っていた。他から見たら家無し人のノシロに対しても、それは同じだ。
「猫の、一族だっけ? 猫の血を引いてるってことだよね? でもそれって、いったいどこのタイミングで、猫の血が入ったんだろう? だって、猫と子供を作ろうったって、いったいどうやって? ね?」
そこまで一息に言ってから、ウエキはノシロの顔を覗き込んだ。ノシロは彼女の茶色の瞳に一瞬だけ目をやって、それからまた空を見た。ウエキはそれに構わず、あっ、と思いついたように声を上げた。
「もしかして、猫の耳とか、しっぽってある?」
ウエキは今までに見たことがないくらい目を輝かせてノシロを熱い視線で見つめた。ノシロは観念したのか、うざったそうに小さく呟いた。
「耳なら」
「うそーっ! 見たーい! フード取ってよー!」
彼の鼓膜の事など考えず、大声を張り上げた。
「……静かにしろ!」
「なんでなんでー! 見たい見たいー!」
「あのなあ!」
ノシロは自分の口に人差し指を合わせる。ウエキはその人差し指に一瞬驚きながら、大きな瞳をくりくりさせてぽかんとした。
「俺が猫の一族って事は、お前以外の人間には秘密なんだ。例えお前でも、簡単に見せるわけにはいかない。もし他の人間に見られたら……」
「じゃあいつなら見せてくれる? 夜? 明日のほうがいい?」
「……」
ウエキの瞳はまだキラキラと輝いている。無防備な笑顔を振りまき、ノシロにぐいぐいと顔を近づけてくる。彼は堪らず彼女を押しのけた。
「とにかく、今はダメだ!」
「ぶー! ノシロのケチー!」




