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第八話:事件の記憶

 加治木誠司——本名、神崎光一(かんざきこういち)はこれといった特徴のない少年だった。


 IT企業に勤める両親、父、神崎康介(かんざきこうすけ)と母の神崎美咲(かんざきみさき)。そして神崎芽衣(かんざきめい)という四人家族。

 大都市東京では、石を投げれば似たような家族に何度もぶつかることだろう。

 ありふれた家族だった。


 神崎光一は特別、正義感に溢れていた訳ではない。

 普通の少年のように、戦隊ものやヒーローものに憧れ熱中する時期はあったが、小学校に入ったあたりから、そうした英雄願望も薄れていった。


 ヒーローが現実に存在しないことや、サンタクロースの正体を理解するには十分な歳だ。

 もしかしたら、空想からはなれて現実を見つめるようになった時期は、もっと早かったのかもしれない。


 当時は、労働時間規制がさほど厳しくなく、父の神崎康介は、朝から遅くまで仕事をしていた。

 他方、母の美咲は、康介ほど勤務時間が長いわけではないものの、光一や芽衣が小学校を終える頃に帰宅できるほど、自由な勤務が許されていたわけではなかった。


 そのため、光一は自然と、五つ離れた妹の芽衣の面倒を見る機会が多かった。

 芽衣が保育園児の頃には保育園に迎えに行ったり、小学校に上がってからは、一緒に登下校して面倒を見た。保育士や周囲の大人からも褒められるので、光一は悪い気はしなかった。


 芽衣は持病がある訳ではなかったが、病気がちで学校を休んだ。

 両親がどうしても会社を休むことができなかったり、同じ東京に住んでいる父方の祖父母も駆けつけられないようなときには、光一が学校を休んで面倒を見ることもあった。


 ベッドで寝ている妹の傍らで、音を消してゲームをする。

 公然と学校を休んでゲームをできる機会を光一は密かに喜んだものだが、芽衣は光一に面倒をみられることを気に病んでいたようだった。


 病身を起こし、出来ることは自分でやろうとする芽衣を押しとどめて、光一は世話を焼いてやった。

 兄なのだから、という両親の言葉を素直に実行するくらいには、光一は成熟していて、また未熟でもあった。

 芽衣はよく「ごめんね」とこぼした。

 光一は、面と向かって言われるのが気恥ずかしくて、何も返さなかった。


 ある休日だった。


 神崎一家は、東京からほど近いテーマパークへ電車で出かけ、帰ってくるところだった。

 その時の光一は、珍しく不機嫌になっていた。


 朝、家を出るまでは良かった。

 テーマパークへ着いてから、行列に並びながらも、家族でアトラクションを楽しんでいた。

 ジェットコースターのアトラクションを降りたところで、芽衣の手を引いていた光一は学校の同級生の男子児童に会った。


「誰、そいつ?」

「妹だよ」


 その同級生は、光一とは通学路が完全に異なるために、光一と芽衣が普段から一緒に登下校していることを全く知らなかった。

 それどころか、妹の髪が肩より短くて少年のようなので、初めは男子だと思ったらしい。


 光一が同級生と話している間、神崎夫妻は、PTA会長でもある同級生の父親と、談笑をしていた。


「ずいぶん、仲いいんだな」

「まあ、兄貴だし。妹は小さいし」

「うええ。おれなら嫌だなあ。そういうの、シスコンっていうんだぜ」

「しすこん?」


 光一は聞き返した。


「そう。妹が好きなやつのこと、そういうんだって」

「べつに、すきじゃないよ」

「うそつけ。すきだろ。いっしょに風呂とか、はいってるんだ」

「そんなことしない」

「シスコンは、へんたいなんだってさ。おまえ、へんたいだな」

「ちがうったら」

「でも、手をつないでるじゃん」


 光一は顔が熱くなっていくのが分かった。分からずや、と声を上げそうになった時に、芽衣がもたれ込んできた。


「……おにいちゃん」


 光一は怒りの矛先を、思わず芽衣に向けてしまった。


 突き飛ばしたつもりはなかった。繋いでいた手を振り払っただけだ。


 しかし、密かに体調を崩していた芽衣にとっては、ちょっとした力であっても、倒れてしまうには十分だった。

 光一と芽衣が繋いでいた手は、するりとほどけて、芽衣は地面に倒れた。


 芽衣は腕を怪我した。

 骨折という程ではない。擦りむいた程度だ。


 もっとも怪我だけではなく、芽衣の体調自体が優れなかったために、テーマパークの救護室で応急処置を終えた後、早々に帰宅の徒についたのだった。


 家から最寄りの駅に着いた。

 その間、光一は、ずっとむかむかとしていた。芽衣には顔も向けなかった。


 同級生にからかわれたことだけでなく、強く押したわけではないのに妹が倒れて両親から責められたこと、テーマパークから早々に帰宅しなければいけないこと、それらが組み合わさって、行き場のない不満が溜まっていた。


 駅の出口を出ると、休日の駅前は大変賑わっていた。


 梅雨の合間の、久々の晴れの休日だからだろう。あたりは行き交う人々で溢れている。

 光一は、両親や妹への不満をあらわすために、一人でどんどん歩いていった。

 その隣を、母親に手を引かれたおかっぱ頭の男の子が通り過ぎ、光一はなんとなく、目で追った。


「光一。勝手にいかないの」


 美咲の呼びかけに、光一は返事もしない。

 今にも赤に変わろうかという、点滅する青の歩行者信号を見て、光一は走り出そうとして、追いついてきた美咲に腕を強く掴まれた。

 身体が、後方に引っ張られる。


「もう! 六年生でしょう? 来年は中学生なんだから、落ち着きなさい! パパと芽衣はゆっくり歩いてるのよ?」

「知らないよ。芽衣が遅いのが悪いんだ」


 とぼとぼ歩いてくる妹と父の姿を、恨みがましく睨んだ時だった。


 光一のすぐ隣を、ものすごい勢いで、影のような何かが通り過ぎていった。


 なんだろうと思った。


 車だ。駅前広場に入っていく、黒い車。


 なんのために。


 車の行く先に気を取られて硬直しているうちに、車は、先ほどすれ違ったばかりの親子の、母親を跳ね飛ばした。

 まるで人形のように、母親は数メートル宙を飛んで、地面に転がった。

 幼い男の子は何が起こったのか分からない様子で、その場に立ちすくんでいた。


 何かの撮影だろうかと、光一は思った。さむけがした。あぶないことをするなあ、と。


 地面に転がった人は、人形だと思った。

 顔が、向こうにあったのに、まるで、お腹がいたいときのように、身体をくの字にして、背中を曲げていた。

 背中はあんなにも、まがらない。


 時間が止まったように立ち尽くす人の海を、車だけがかき分けて進んだ。

 人の海は開けて、車はどんどん進んで、やがて、止まった。


 沢山の人が、地面に倒れていた。

 もぞもぞと、芋虫のように地面を蠢く人の群れ。

 そのときに、ようやく悲鳴が聞こえた。悲鳴が、連鎖した。


 呆然として、美咲は光一の腕を引いて進んだ。


 泣き喚く声、怒声、感情的な言葉、その数々が聞こえて、光一はようやく、事故が起きたことを理解した。

 美咲は、すでに走っていた。光一もつられて走る。

 二人は、立ち尽くしていた康介と妹の元へ、駆けた。


「大丈夫か!」


 駆け寄った美咲と光一に声をかけた康介は、神経を高ぶらせていた。


「うん、でも、ひとが」


 美咲が声を震わす。


「助けなきゃ……。光一と、芽衣を頼む」

「ねえ、ちょっと!」


 美咲が止める間もなく、康介は暴走した車の方へ走り出していた。倒れている人の元へ、走っていく。


「もう、あぁ、電話しなきゃ。救急車、救急……何番だっけ、光一、何番⁈」

「119!」


 美咲は動転していた。惨劇に怯えるように、暴走車から背を向けて、電話を耳に押し当てた。美咲は電話に気を取られていた。


 倒れている人の方へ向かう芽衣に気がついたのは、光一が先だった。


「おい、じっとしてろって!」


 光一は叫んで、芽衣を追った。

 芽衣は、とぼとぼと歩いている幼い男の子の元に、駆け寄った。

 傍らの母親が跳ね飛ばされた、男の子だった。


 どこかで、再び怒号が飛び交った。


「ほら、芽衣、早く戻るぞ!」

「でも、この子」


 芽衣は、顔を真っ赤にして、汗をかいていた。泣きそうな顔で、光一を振りむいた。

 光一は、むずがゆかった。どうしていいか、わからなかった。気持ちだけが焦った。


「ねえ」


 光一は、立ち尽くす幼児に声をかけた。幼児を連れて、美咲の元に戻ろうと思ったのだ。


「まま」


 幼児は、倒れたままの母親を指さした。その母親は、さきほどから、まったく動いていなかった。

 光一は目を逸らした。見てはいけないような、そんな気がした。


「ほら、いこう」

「ままぁ」


 幼児が泣き叫んだ。


「いこう?」


 芽衣が、幼児と目線を合わせるようにしゃがんだ。

 辛そうな顔を無理やりに微笑んで、幼児の両手を取った。幼児の泣き声が音量を下げたので、光一はほっとした。


 怒号の混じる喧騒が、すぐそばまで近づいていることに気がついたのは、ようやく、その時になってからだった。


 近づいてくる誰かが視界に入って、光一は顔を上げた。

 父かと思った。眩い日差しが逆向となって影を作り、顔が見えなかった。


 芽衣は父に背を向け、幼児を宥めている。父は、芽衣の背後で腕を振り被った。きらりと、手元が光って見えた。


 コマ切れのフィルムのように、シーンが連続する。倒れる芽衣。倒れる幼児。

 突き飛ばされた自分。康介の声。

 康介が、自分に覆いかぶさっている。目を見開いたまま、動かない。


 自分は、泣き叫ぶ。


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