第七話:天穂の選択
深い溜息を吐いて、加治木はテナントビルを出た。
言いようのない、やりきれない無力感が、加治木を襲っていた。
自分の行動はここまでの懲罰を受けることだったのだろうか。
檜山警部が課長の意を体するところによれば、「頭を冷やせ」ということだったが……。
冷やしたところで、おそらく自分の判断は変わりそうになかった。
たぶん、何度同じ場面に出くわしても、テンドウの元に駆け付ける判断を下したろう。
惜しむらくは、危機的状況に対する反射神経が、この僅か三か月で随分鈍ってしまったことである。
初撃、あるいは二発目の銃声を聞いた時点で、テンドウの元に駆け付けることができていれば……。
「加治木さん」
ささやき声で、加治木は、はっと顔を上げた。
顔を強張らせた天穂の姿が、そこにあった。ジーパンに長袖の青いシャツという、私服の出で立ちである。
「少し、お話いいですか」
加治木は、天穂を連れて、行きつけのカラオケチェーン店に入った。
世間的には休日の夜間なので、人の多い居酒屋は秘密の話をするには向いていない。
その点、防音性の高いカラオケの個室は、公安警察の人間が会話をするのにふさわしい……という話を天穂から聞いたのは、加治木が転属した当初だった。
L字に組まれた安っぽいソファと、小さな机がある6畳もないような個室に入る。
明かりをつけ、新譜やアーティストの宣伝を垂れ流しているスピーカーの音量を下げてから、加治木は、部屋の奥まった側に腰かけた。
天穂は、L字のソファのもう一辺に座る。
「それで、話というのは」
天穂が座るや否や、加治木は切り出した。
尾行を止めて喧嘩を仲裁した時の、あの軽蔑するような天穂の視線を思い出した。責められても文句は言えまいとは思った。
天穂は、押し黙って卓を見つめていた。言葉が出てこないようだった。
憤懣遣る方ない、といったところか。
天穂が黙っているので、加治木は努めて、明るい声で切り出すことにした。
できるだけ、嫌味にならぬように。
「今日、大久保課長からおしかりを貰ったよ。一時的に一係を抜けて、二係へ。
それと、一週間の謹慎になった。どうもまだ、俺には勉強不足のようだ。
君の方が随分、公安捜査官をうまくやってる。さすが、歴の違いだな」
なんでもないように笑って見せる。
天穂は顔を上げ、驚愕の色を浮かべた。
「謹慎まで……」
「仕方がないさ。まんまと、潜入を自分からばらしてしまったんだから。つい身体が動いてしまった。癖だな、これは」
ソファに背中を預ける。簡単に沈み込んで、骨組みのようなものの固い感触が背中に合った。
課長室のソファとは、まったく質が違った。
「ありえない」
ぽつりと、天穂が呟く。
加治木は天穂の顔を見つめた。
天穂の頬に、目まぐるしく場面を変えるテレビの光が、きらりと反射した。瞳が潤んでいた。
「……私、わかりません。いえ。分からなく、なりました」
みるみるうちに、天穂は紅涙を絞った。口元が震えている。
「私が、うまくやったですって……。そんなことありません。動けなかっただけです。
銃声だと気が付いて、聴衆の狂気にあてられて、悲鳴に怯えて、私は自分を騙しただけです。
一般人に紛れて逃げることが、公安として最優先だと」
途切れ途切れに、天穂は呟いた。
顎を伝った雫が、ジーンズに落ちて濃い染みを作った。
「飛び出していった加治木さんを、止めることもせず、呆然と見ていました。
前から迫ってくる人の波に押されて、その時になって私はようやく、この場を去ることが正しいと思った。
思い込みました。判断じゃないんです。成り行きなんです。
私はそうやって、自分を正当化しました」
加治木は、ソファから身体を起こした。
「でも、そのおかげで、君はまだ組織に潜入できている。
首の皮一枚で繋がったのは、君の行動があってこそだ。そこにどんな経過があったとしても」
零れる涙を拭うこともなく、天穂は、きっと加治木を睨みつけた。
「嬉しくありません! だって、私が決めたことじゃない」
「君が決めたことだよ。行動とは、詮ずる所、経験だ。動くべきでないと、君は無意識に判断したんだ」
天穂は首を横に振る。
「本当の目的を忘れるなと、いつも言われてきました。
君は多くの命を救わなければならないし、救う権利が与えられた人間なんだと言われました。
私は、その言葉を胸に刻んだ。そう思うのは気持ちが良かった。
私にしかできない仕事が与えられていると思えば、何かを犠牲にするという特別な選択は、私だけの特権に思えます。
でも、目の前で、消えかけている命を初めて間近に見て……私はそれを、切り捨てることも、救うことも、なんの選択もできなかった」
天穂は、顔をくしゃくしゃにして嗚咽した。
「怖かったんです。どちらが重たい命で、どちらが軽い、死んでもいい命なのか、まるで神様みたいに、私に選択権が与えられていることに気付いてしまった。
今も、わかりません。私はいままで、何をどうやって決めて来たのか、それもわからなくなりました。
私が見捨てた命は、その家族や恋人は、きっと私を許さないでしょう。
たとえどちらを生かすか決めたとしても、ついて回る。それが、怖い……」
言葉が途切れた。しかし、天穂の嗚咽は止まらなかった。
「……決めなくていい」
加治木は、ぽつりと呟く。天穂が、涙で濡れた顔を向けた。
「どっちが正解だとか、そんなものは分かりっこないんだ。
俺たちは神様じゃないし、なんなら神様だってわからないだろう。
俺は、目の前の命も、その後ろにある沢山の命も、重いとか軽いとか、比べるまでもないと思う。
両方大切なものだ。両方を生かしたい。でも君は……」
加治木は居住まいを正し、身体を前のめりにした。
「自分の思うままに行動すればいい。助けたいと思った命を助ければいい。
時には、どうしても小さな命を諦めることが求められる時だって、あると思う。
反対に、いくつかの犠牲をおっても、どうしても助けたい一つの命だって、あるかもしれない。
正解がない以上、自分が正しいと思った道を進むしかないと、俺は思う」
不思議なほどに、心の丈がすらすらと口を衝いて出た。
幾度となく、考え続けてきた疑問だからかもしれなかった。
「加治木さんは」
天穂は、指でなぞるようにして、ようやく涙を拭った。目尻を真っ赤にはらしている。
「どうして、そんなに割り切れるんですか」
口を開きかけて、加治木は逡巡した。適当なことを言って、誤魔化すことはできた。
しかし、それは天穂のためにはならない気もした。
自分の魂が求める、本当に大切な事では、無いような気がした。
「何でもない、どこにでもある話だ」
二十年以上の昔を、加治木は思い起こして口を開いた。