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第六話:処分

 刑事部の聴取を終えたのち、加治木が呼び出されたのは警視庁公安部、公安総務課長室だった。


 ノックして戸を開けると、応接用の黒いソファに腰かけている白髪の檜山警部の姿が目に入った。

 眉を寄せ、悲哀を込めたような目が、こちらを見ていた。


 部屋の奥で、鼈甲の眼鏡をかけた、灌木のような細面の男が腰を上げた。


「神崎……いや、加治木君、ご苦労だった。檜山君の隣に座ってくれ」


 加治木は頷いた。


 公安総務課長、大久保英彦は口の端に加治木の本名を上げかけたが、業務上の氏名を言い直したことで、加治木は僅かに安堵した。

 公安部としての自らの去就は、とりあえず担保されたように思った。


 檜山警部の座る隣のソファに腰を下ろす。座った瞬間、革の匂いが香った。

 大久保課長が腰を下ろしたのは、檜山警部の対面のソファだった。


「話は聞いている。刑事部の方からも情報を貰った。犯人はまだ捕まっていないそうだ。

 幸い、中継用のカメラが、同時に録画も行っていたらしいから、手掛かりがないか念入りに調べているらしい。

 加治木君、君は、犯人を見ていないのか」


 眼鏡の奥で、大久保課長の黒い瞳が動いた。


「はい。私が被害者の元に駆け付けた時には、どこにも犯人の姿はありませんでした。追撃が無いことを確認して、被害者に接近しました」


 聴取でも説明したことを、加治木は繰り返した。

 大久保課長は、溜息を吐いた。


「そうか。銃撃犯については、一課に任せるほか無さそうだな。……危険な現場で、君は警察官としてよくやった。

 危険を顧みず、人命救助に馳せ着けたんだからな」


 加治木は、唾を飲み込んで頷いた。大久保課長の意のある所は、分かっていた。


「だが、公安警察の一員としては、致命的だった」


 加治木の見つめていた大久保課長の目線に、ぐっと力がこもった。


「そう……だと思います」

「思います、という推定は適切ではないな。これは断定だ。

 テオスゲノスの民の幹部連中には、おそらく警察の潜入が気付かれてしまっただろう。

 警戒感を高めた彼らの中で、現在潜入している天穂君の立場は、かなり危ういものになる。

 新規の潜入も難しくなった。

 無論、警察の人間として顔が割れてしまった可能性の高い君を、これ以上、テオスゲノスにかかわる任務に就けることはできない」


 反駁したくなる気持ちを、加治木は必死で抑えた。小さく、頭を下げる。


「……申し訳ありません」

「謝ることはない。私は、君を責めているわけじゃない。事実を述べただけだ。君は、警察官として、やるべきことをやったんだからな」


 言葉に反して、大久保課長の語調には、突き放したような冷たさがあった。


 はっとして、加治木は大久保課長の目を見た。

 

 その瞳に、労をいたわる温もりは感じられない。大久保課長の目線は、すっと、加治木から離れていった。


「檜山君。そういうわけだ。君の指揮する第一係から加治木君が抜ける分、もう一方の第二係から人を工面してくれ」

「了解しました」


 檜山警部が頷く。


「もし人手が足りないようならば、私に連絡するように。

 われわれ総務課の人間も、外事課にサポート要員で取られて人繰りが厳しいところはあるが……人手が要るとなれば、そのときには、何とか都合しよう」

「お気遣い、痛み入ります」

「部長も気に掛けている重大事案だからな。宜しく頼むよ」

「もちろんです」


 蚊帳の外にいるような気分で、加治木はそのやりとりを眺めていた。


 一瞬にして、力が身体から抜け去ってしまった。

 今、立ち上がれと言われたら、すぐには立てないかもしれない。


 それから、二言三言、大久保課長と檜山警部はやり取りをしていたのだが、加治木の耳にはいっかな、入ってこなかった。

 ともすれば、二言三言では済まない話だったのかもしれない。


「話は以上だ」

「大久保課長!」


 大久保課長が腰を上げかけたのを、加治木は呼び止めた。

 浮かせた腰を、下ろして、じろりとこちらを見る。


「なんだね」

「あの男……テンドウとかいう教団の幹部は、どうなったんですか」

「その話か。……テンドウカツキ、本名を大杉というんだが、あの男なら病院で死亡が確認されたよ」


 無感動に言って、大久保課長は席を立った。呆然とした加治木は、檜山警部に促されて、ようやく立ち上がった。


 檜山警部とともに警視庁を出て、テナントビルにある一係の分室に帰る頃には、既に二十時を過ぎていた。

 分室には、一係の面々は誰も居なかった。既に業務を終えて、帰宅したらしかった。


「来てもらってすまないね。椅子に掛けて聞いてくれ」


 檜山警部は、窓際の席に腰を掛ける。

 加治木は、自分のキャスター付きの椅子を、檜山警部のデスクの前まで引っ張ってきた。


「ご迷惑をかけて、すみません」


 加治木の開口一番は、その言葉だった。


「ははは。まあ、どうしようもないさ。と、私は思うんだが、課長はそうでもないのかもしれなんなあ」


 思わず、加治木は顔をしかめた。


「殺人を、見逃せ……被害者を見殺しにせよと、そういうことなんでしょうか」

「……これは、あくまで私の想像だと思って聞いてくれるかな」


 突き刺すような加治木の言葉を、檜山警部は温雅な顔で受け止めた。加治木は頷く。


「今回の件で言えば、殺人犯がどこに居るのか、拘束できるのかどうか分からなかった。

 そして被害者は倒れて、自力で動くこともかなわなかった。

 それが確認できた時点で、公安捜査員たる君は、黒子に徹するべきだった……そういうお考えなのだろう」

「しかし、それは結果論です。私が近寄った時点でもし、呼吸や意識があれば、救助すれば被害者の命は助かっていたかもしれません」


 檜山警部は、目を瞑って繰り返し頷いた。白髪が揺れる。


「加治木君。君は、現在の日本で、刑務所に収容されている受刑者の人数を知っているかい?」


 突然の問いかけに、加治木は戸惑った。いえ、と答える。


「約七万人だ。死ぬかもしれない七万人の命と、死ぬかもしれない一人の命、君は、どちらが大切だと思う?」

「それは……」


 卑怯な問いだ。天秤にかけられるものではない。


「公安には、ある種、ドライな損得勘定が求められる。最終的な巨悪を叩くために、それまでの小さな犠牲には、目を瞑る……。と、言うのが、課長の意のある所ではないかねえ」


 加治木は、言葉に詰まった。一人や二人の命なら、七万人を救う生贄になったとしてもかまわないというのか。


「素直には……承服しかねます」

「そうだろうねえ。僕も、そこまで割り切って考えられるかは、自信がないよ」

「なぜ課長はそこまで」

「真に背負うものの違い、なのかもしれないね」

「背負うもの……」


 加治木は、檜山警部の言葉を繰り返した。


「そう。加治木君は、部下三人の命を背負って捜査をする。僕は、一係と二係を背負って捜査をする。

 僕らも気持ちの上では、市井の人々の公安を守るために働いているけれど、たぶん、課長や、それ以上の役職の人たちは、部下と同じくらいに国民全体の生命を背負ったつもりでいる。

 もはや警視庁という枠を飛び越えてね。そうすると、どこかで限界に気がつく。

 すべての人間を等しく守ることができない、ということに」


 口をつぐんで、加治木は聞き入っていた。


「簡単には判断できない問題だよねえ。最大多数の最大幸福……ベンサムの言う功利主義というやつだね。

 集団のために、個を犠牲にする。

 それがいいのかと言われれば、犠牲になる個を救うべきだという非難が上がるだろうが、その非難すら甘んじて受け入れる。

 全ては、国民のため国のため。そういう差なんだと僕は思ってるよ」


 言わんとすることは分かる。しかし、加治木は素直に認めることができない。


 犠牲になる個を、百あるうちの一、のように、ただの数として扱うことなど、できやしない。

 人間には血が通っている。第一、犠牲にされた一人はどうなる。

 その一人に連なっている、犠牲者を思う家族や恋人の思いはどうなる。


 遣る方のない思いは、加治木の口を衝いて出ていた。


「……私は、目の前の一人の命を救います。そして、頑張って七万人の命も救う。そもそも、最初から思考を放棄してどちらかを選ぶのが、間違ってる」


 檜山警部は、声を出して笑った。加治木は驚いたが、不快では無かった。檜山警部の目が、輝いた気がした。


「いいんじゃないかな。善意というのは、人間の中の最も尊ぶべき感情だと言っていい。そういう考えもあると思う。

 課長たちは、なまじ頭が切れすぎるから、すぐに判断を下しがち、というきらいがあるかもしれない。

 それに僕も否定はできないところだけど、公安の人間は秘密主義にならざるを得ないから、秘密を共有している集団としてエリート意識が育ちやすい。

 だから命を選択するという優越権を、無意識的に感じているのかもしれないね。

 両方救えるなら、それに越したことはないよね」


 臆面もなく話す檜山警部に、加治木の心の奥底に燻ぶっていたものが、霧散していく心地がした。


 檜山警部の目を見ているうちに、この警部は腹を割って話せる相手だと、加治木は感じ始めていた。


「僕もね、思うことがあるんだよ。上に行くほど、現場を直接見られない。

 失敗を避けるためには、手持ちの札を過小評価して、最低限勝ち取りたい報酬に見切りをつける。

 でも現実では、現場の指揮権は現場にあるだろう。

 だから、個か集団かの二者択一じゃなくて、両方救ってしまおうという、第三の選択肢を正しく判断する技量は、現場の技量を把握しうる現場に委ねられているんだ。

 上の考えがどうだといって、僕らが与する必要は無いと思うよ」


 我が意を得たりという気分で加治木は頷いた。


「そう思います。目指さなければ、勝ち取れません」

「だろうねえ。課長も、本当はそのつもりだったんだろうけど……」


 檜山警部は、ぽつりと溢した。


「本当は、とは?」


 反射的に、加治木は聞き返していた。


「誰にも言わないでね?」


 檜山警部はそう言って、他に訊くものもないのに、顔を加治木に寄せて声を潜めた。


「そもそも、加治木君を刑事部から引っ張ってくる提案を部長にしたのが、大久保課長だったんだよ。

 今回の連続放火事件にあたっては、公安にも強行犯に対応できる現場仕込みの人間が必要だってね」


 さらに、疑問符が増える。希望して引っ張ってきた割には、ないがしろにされている気がした。


「大久保課長は、さほど私に友好的なようには、見えませんでしたが……」

「それはほら、よく言うだろう。可愛さ余って憎さ百倍というやつさ。

 薦めて連れて来た人間が、ちょっとした問題を起こしたとあっては、面目が立たないじゃない」


 そういうものか、と思う。だからと言って、課長の面目を立てるつもりは、さらさらないのだが。


「現場慣れした人間がいれば、よし強行犯と対峙しても、公安側や周囲の人間の犠牲を最小限に抑えられる。そういう采配だったんだろうね」

「そう言われてしまうと、期待を裏切ってしまったようで、面目次第もないです」

「自分を責めないでよ。今回はチャンスが無かった。

 よもや、潜入先で狙撃事件が起きるなんて、誰も想像できなかった。

 むしろ僕ら警察からすれば、犯罪者はお前ら教団だろうと思ってたんだからねえ」


 檜山警部の言葉に、加治木は唸った。


「犯人は、いったい誰なんでしょう。何の目的で……」

「私怨、なのかなあ。加治木君も現場で教団幹部の話は聞いているよね。

 随分な方便で寄進を募っていたらしいから、私財を失った信者関係者の、復讐だったのか」


 加治木は、テンドウの演説を思い出していた。


 たしかに、悪辣な内容であったように思う。

 ただ、はたして信者やその家族が、幹部に殺意を抱くまでの内容だったのかと考えると、疑問があった。


 現在の消費者契約法は、二〇二〇年代に改正されて、信者に対する宗教法人の寄付要請行為は厳しく規制されている。


 寄付の強要や、信者家族との相談の妨害、退去困難な場所に隔離するといった行為を禁止し、信者家族の生活の維持などを考慮することを銘打っていて、もし宗教法人がそれに違反すれば、罰金や行政からの勧告などのペナルティを受ける。


 また、救済措置として、先に述べた禁止行為によって生じた寄付を取り消したり、信者家族の生活や養育にかかわる範囲の金銭については、返還を求めることもできるようになった。

 法に則れば、信者が寄付した金銭の一部は、返還を求めることができたはずだ。


 つまり、殺害に至るほどの金銭トラブルが生じ得ないはずなのだ。


 加治木が近藤から聞いたところでは、教団は財の奉納を強いているわけでは無いと言った。

 財の奉納は教義ではあるものの、生活ができなければ意味がない。

 あくまで不要な範囲の財を奉納すればよいという。


 財が現世との鎖だと言っていた割には二枚舌を使うようであるが、いざ信者が返還を求めた場合にも、教団は応じていたというのだから、そのあたり、問題が起きないように気を配っていたらしい。


 とすれば、果たして、罪を犯してまで教団幹部を射殺する必要があったのだろうか。

 それほどまでに復讐心が増長する機会が生じたのだろうか。


 その疑問を加治木が口にすると、檜山警部は腕を組み、八の字を寄せて考え込んだ。


「まあ、僕ら第三者からしたら単純に考えてしまうけど、信者家族……教団の被害者からしたら、抜き差しならない問題だったかもしれないよ。怒りの感情は理屈ではないから」


 檜山警部の言葉を聞いても、加治木にはどこか腑に落ちないものがあった。

 再び思考に浸りかけた加治木を引き付けるように、檜山警部は両の手をぱちんと、一拍叩いた。

 白い頭髪を見れば高齢に見える檜山警部にしては、その手は力強かった。


「さて、この一件はここで終わりだ。事件は捜査一課の管轄になってる。僕らは僕らの仕事をしよう。……といっても、君には少し言いにくい話を、しなきゃいけない」


 頬を緩めたままで、檜山警部は困った顔をした。


 加治木は、居住まいを正した。課長と面談した時から、覚悟はしていた。

 三か月やってきた一係を離れることは、せっかく部下とチームワークを築き上げてきた手前名残惜しかったのだが——もっとも若干一名とはそりが合わなかったのが口惜しい——課長命令であれば、受け入れるしかない。


「加治木警部補。君にはしばらくの間、一係を離れて二係の業務を手伝ってもらう。あくまで業務配分の変更で、転属ではないので、そこは安心してくれていい。そしてもう一つ」


 加治木の気が逸れた。無性に、嫌な予感がした。

 課長室を離れる際に、退室間際の檜山警部が一人、大久保課長に呼び止められていたことが頭をよぎる。


 檜山警部の頬に、滲み出た悲哀が深い皺を作った。


「すまないね。私も、反論はしたんだが……。だめだった。君には一週間、業務を休んでもらうことになった」


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