第五話:第三神席 テンドウ
コウサカは、拍手が静まるまで、たっぷりと間を取った。
「開会あいさつ。第三神席、テンドウさま、よろしくおねがいします」
会場の右前方で、立ち上がる人影が見えた。どうやら、会場の上手側に教団の幹部陣が列席しているらしい。
床面より一段高くなっている演台に歩み出でた人影が、明るい照明のもとに晒される。
漆黒のスーツを着た肩幅の広い男が、威風辺りを払うような堂々とした立ち居振る舞いで、演壇に近づいていった。
距離があるので顔貌まではよく読み取れないが、髪を短く切りそろえたシルエットは、加治木に、強面で角張った顔を連想させた。
演壇に立ったテンドウは、幹部、司会、客席の三方に会釈をして、演壇の前に立った。
演壇も立派なもので、テンドウの腰から下が十分に隠れてしまうくらい、横幅が広くて高等な作りに見えた。
「ご紹介に預かりました、第三神席の、テンドウでございます」
低くて張りのある声が響く。形式的な時候の挨拶を述べてから、テンドウは言葉を切った。
黙して聴衆を見回す天道に、会場中の注目が集まる。
この沈黙は何事だろうという疑問、それが次第に緊張に変わっていくほどに、たっぷりの沈黙があった。
聴衆の緊張を肌で感じ取り、加治木もまた、思わず唾を飲み込んでいた。
テンドウは、ややあってようやく口を開いた。
「この度、会場には、一一二名の新たな信徒の皆様をお迎えしています。ひと月あたりの数としては、もっとも多い。
これもまた、ひとえにテオスの思召しであり、テオスに帰依して乱世に迷える民草を救済せしめんとする、信徒ひとりひとりの、慈愛のなすところだと、随喜の涙に堪えません。
かの哲学者カントは、善意志こそ、何ら制限を受けない善いものそれ自身であると言います。
信徒の増加は、こうした善意志の芽吹き——すなわち、離世に至るものであると、私は信じております。
さて、開会のあいさつとしてはやや堅苦しく、私はこうした説明が苦手ではあるのですが——普段、娘からは全く笑えないと痛烈な批判を受ける親父ギャグを、今日ばかりは封印して——新たに信徒となられた皆様には、テオスの教えの根幹を改めてお伝えしたい。
何故なら、信徒の皆様には、これから少しずつ、教えから離れて頂く必要があるからです」
加治木は、はっ、と我に返った。
聴衆は、我を忘れた様にテンドウの話に聞き入っているのが分かった。
沈黙や緩急を巧みにコントロールし、疑問や興味を抱かせる文句を並べて関心を惹く話術は、催眠術のように会場を支配している。
心地の良い低い声は、鼓膜を越えて脳に直接染み入るようにすら感じられた。
テンドウは、催眠術を続ける。
「カントの認識論によれば、人間は、人間に認識できる世界しか認識できません。
何を当たり前のことを、とお思いでしょう。
私もそろそろ、蚊の羽ばたくような音が聞こえなくなる歳になって参りまして、認識という枷の重みを骨身に感じています。
人間は、科学技術を発展させることで、聞こえない音、見えない電磁波を認識できるようにし、世界を拡張することに成功してきたわけでございます。
しかし、科学とは畢竟、自然であります。人間はこの自然法則という強固な因果律に縛られている以上、自然法則の外におわす、テオスの導きに預かることはできないのです。
人間と現世との因果は科学だけではありません。
資本主義社会における我々の人間の欲求は、全て『財』に結び付いています。
睡眠欲求……十分に寝るためには、寝ていても問題のない財が必要です。
食欲を満たすにも、食料を買う財が必要だ。
全ての欲は財に結び付き、更に財は、『ただの紙や金属を財と認める』という貨幣経済における人間の共通認識によって、固く現世と結びつきます。
こうして、人間—欲—財—現世は、雁字搦めに繋ぎ止められている。
したがって、科学と財の放擲こそ、人類が現世を離れ天世に至る……離世の術なのです。
そもそも、天世の話がまだでした。
天世とはテオスのおわす世界です。真の幸福が存在する第三世界です。
天世の説明のために、テオスについてお伝えしましょう。
テオスは、世に光を、生命を生み出し、その最後に人類を生み出しました。
それは、テオスの慈悲でありました。
もし、人類が一番最初に生まれていれば、どうなったでしょう。
何もない世界で、人類はただ、死ぬしかなかったに違いない。
テオスは、常に両義的であります。
陰と陽のごとく、生と死を、男性と女性を作り上げたように、テオスの御慈悲は人類に知恵をもたらし、テオスの無慈悲は思考をもたらしました。
知恵は人を豊かにしながらも、知恵の代償たる思考は、豊かな生得に対する罰となりました。
我々は、思考のせいで、幸と不幸を区別する力を得てしまった。
幸福か、不幸かを判断する力は人間だけに与えられたものだからこそ、人間は社会を発展させてきました。
そう……幸福を求めて。
しかしながら思考は罰となり、現世のすべての人間が幸福を得ることは永久に妨げられています。
なぜならば、幸福は不幸と二項対立する関係にあり、幸福の影には、必ず不幸が存在するからです。
政府と国民。
資本家と労働者。
戦争の勝者と敗者。
親と子に至るまで。
ですから、テオスが創造されたものの枠内、つまり人類の認識の世界では、生と死のいずれにおいても、我々は幸福と不幸に悩まされ続ける。
ただ死しただけでは、霊魂は永遠に死後の世界、死世に縛られることになります。
その楔から解き放たれるためには、現世でも死世でもない、テオスがおわす天世に至らなければならないのです。
繰り返しますが、テオスは両義的なのです。
両義的であるからこそ、天世は、生も死も、幸福も不幸もない、第三の世界たり得る。
テオスのおわす、現世でも死世でもない第三世界こそが、人類唯一の平穏の地なのです。
ようやく、話が最初に戻ります。
天世こそが平穏であり、現世の楔から解き放たれ離世するためには、科学と財を放擲する必要がある、と。
筆頭神席様は、人類誕生の地アフリカで死地を彷徨う中、テオスと対話をされ、こうした真理を見出しました。
しかし、その真理を教え伝えるうちに、真理に内在する両義性にお気づきになった。
教えそのもの……天世に至りたいがために、科学や財を放擲するという『欲』そのものが、現世と信徒を縛る新たな楔となるということに。
つまりは、ただ科学や財を放擲するのみでは、天世には至れない。
筆頭神席様は悩み、そしてとうとう、人類の叡智のなかに解を見つけました。それは、奇しくも再び、哲人カントの中にあったのです。
何かのために、何かをする……仮言命法の枠組みは『何かのため』という欲求の楔そのものです。
天世に至りたい、という欲求も、この仮言命法に他なりません。
しかしながら、現世にありながらも、楔に縛られないものがある。
それこそが『善意志』なのです。善意志は自己自律的な人間理性であり、道徳法則としてそれ自身で完全であります。
つまり、この現世にありながらして、第三世界のように両義性を有する唯一のものなのです。
したがって科学や財を放擲の末、善意志の自ずからの実行こそが、人類を平穏の地である天世へと、テオスの元へ導くのです。
では善意志とは、究極的に何を示すのか。
それすなわち、人を真に救うことだと、筆頭神席様は悟られました。
つまり、テオスの教えを広めることです。それも、救われるために救うのではなく、ただ救うために救うのです。
テオスの教えだからという他律的な行動ではありません。
財を放擲する。科学を放擲する。
そして、ただ迷える人間を救いたいという『善意志』で教えを広め、その無為の道徳法則を体得した時にこそ、人と現世とを結ぶ最後の因果の鎖から、人は解き放たれ、第三世界に至ることができるのです!」
テンドウは力強く拳を振り上げ、声高に言い放った。
聴衆から、感嘆の声が漏れ聞こえた。
忘我の境地でテンドウを見つめる人々が、加治木の視界に映る。
テンドウの語るストーリーの行く末を思い描き、加治木は怖気を震った。
近藤が、なぜこれほどまでに加治木を勧誘できたことに喜んでいたのか、ようやく理解できた。
「貧困、格差、差別、戦争……世界は混迷の真っただ中にある。
血で血を洗うこんな暗闇の現世から、私は、ただ救うために、信徒の皆さまを救いたい」
言葉を区切る。
たっぷりと時間をかけて、聴衆一人一人と目を合わせるように、会場を見回す。
テンドウと、視線が交錯したような気がした。
「科学、そして身に余る財を放擲しましょう。
しかしながら財は、己の手を離れてもなお『貨幣』という共通認識で、人と現世とを縛ります。
筆頭神席様が授かったテオスの御言葉によれば、来たる終末のとき、テオスは現世と死世、天世を繋げて光臨なさるという。
テオスが座すとされる聖櫃では、自意識を持たぬ事物は、天世へと、人間の認識の埒外へと捧げられます。
財は、聖櫃に奉納し、テオスへと捧げるのです。
そして、迷える民草にただ善意志から教えを広め、救うために救うのです。
さすれば我々は、テオスゲノス……神の一族の民として、天世へと至るのです……」
絞り出すようにして声を震わせ、テンドウは囁いた。その声は祈りに似ていた。
嘆きのようでもあった。
「我々は、テオスゲノスの民」
テンドウの囁きが、静寂の場内に響く。
「我々は、テオスゲノスの民」
先ほどより些か力強く、声量が増した。
「我々はッ! テオスゲノスの民! 救い救われる民! 真理を悟る、選ばれし民!」
テンドウの声を振り絞った絶叫とともに、会場が割れんばかりの喝采に包まれた。
手の平を天に向け、広げる。
テンドウが恭しいお辞儀をすると、会場の拍手は一段と大きくなった。
すぐ場を辞すことなく、万雷の拍手を噛み締めるように、テンドウは聴衆を見回す。
加治木の震えは、止まらなかった。
哲学的認識論と自然科学、基督教や仏教の教義から、経済までを混然一体とまとめ上げつつ、教えと称して金銭を自発的に巻き上げる……悪魔のような演説手腕の恐るべき扇動家を眺めて、言語に絶する恐怖に襲われた。
拍手の合間に、ぱん、と袋を破裂させたような音がした。テンドウの動きが、止まる。
聴衆は、拍手とは性質の異なる音に気が付かなかった。
ある、特定の人間を除いて、その音は巧妙に、膨大な拍手に紛れていた。
加治木は違った。また、天穂も同様であった。
どこかで聞いたことのある音だと、加治木が頭を回らせたその刹那に、もう一度、同じ破裂音がした。
演壇のテンドウが、突然後ろを振り向いた。
壇を辞すのだろう、誰もが瞬間的にそう思い、彼の労をねぎらう拍手に、一層の力を込めた時だった。
後方の席の聴衆からは、横幅のあるテンドウの身体が、ゆっくりと演壇の陰に消えたように見えた。
だが、前列の客や司会のコウサカ、教団幹部たちは、テンドウの巨躯が演台に倒れ伏すのを、しっかりと目撃していた。
何事が起きているのか。
テンドウの崩壊を今もその目で見ている者たちは、呆気にとられたように、動かないテンドウを二秒も、三秒も凝視していた。
異変を察した後列の人間からは、潮が引く様に拍手が消えていく。
コウサカがようやく、司会者用の演壇から演台へと向かう。
まばらになった拍手の合間に生まれた静寂に、もう一度、何かが弾ける音が聞こえた時、加治木の身体は思考を置き去りにして反射的に動いた。最初に動いたのは、口だった。
「逃げろ!」
加治木が叫んだのと、コウサカの甲高い悲鳴が聞こえたのは、ほぼ同時だった。
狂乱の悲鳴が、会場のあちこちで湧き上がった。
照明が、ぱっと灯って視界を明瞭にさせた。
聴衆が椅子を蹴倒して、我先にと出口に向かって殺到する。
一足早く人の海から抜き出た加治木は、演台に向かって駆けた。
下手側の空間を走り抜け、腰を抜かして座り込んでいるコウサカを助け起こした。
「すぐに、救急車と警察を呼べ!」
顔面蒼白のコウサカを怒鳴りつけて背中を叩くと、コウサカはようやく気を取り直したのか、か細く返事をして頷いて立ち上がった。
コウサカから視線を移して、さっと、演台を見やる。
テンドウがうつ伏せに倒れており、その身体と床の隙間から、赤黒いシミが広がっているのが見えた。
周囲に、不審な人間の姿は、無かった。
目まぐるしく視線を周辺に動かしながら、加治木は姿勢を低くして、テンドウに近寄った。
猫のような俊敏さで、加治木は演壇の影に入った。テンドウの首元に手を当てる。高い体温を感じるものの、脈がない。
テンドウの背中に目を走らせると、背面に傷口は無いようだった。
加治木は、急いでテンドウの重たい身体を、血で滑りそうになる衣服をしっかりと掴んで仰向けに起こした。
力なく仰向けになったテンドウの身体は、左半身から激しく出血していた。
テンドウの顔は、驚愕のために歪んでいた。年の頃は四十代、えらが張ったように頬骨が出ている。
素早く呼吸を見る。胸腹部の上下動はなく、口元にも呼吸は無かった。
加治木は、奥歯を噛み締めた。
加治木はテンドウの服を脱がせ始めた。傷口を確認し圧迫して止血するためには、血に濡れた服が邪魔だった。
絶望的な思いに駆られながらも、一縷の望みを託し、懸命に動く。
テンドウの語った『善意志』という言葉が、喋る者のいない無言の演台で、加治木の耳朶を打っていた。