第四話:テオスゲノスの民 大例会開催
足を踏み入れた会場は、加治木が想像していたような暗澹とした密教じみた装いでなく、華々しい様相だった。
天井も高く、五メートルは優に超えているようで開放感がある。
ホテルの大広間を貸し切り、優に二百人は収容できるだろう会場に、一目して数えられないほどの机と椅子が並んでいる。
既に多くの信者たちが集い、会場の前方から席が埋まっていた。
参加者用の椅子はホテルの調度品のようであり、華美とは言わないまでも安っぽさはない。
「凄いですね」
ぐるりと会場を見渡した加治木は、仕事を忘れ、思わず知らずのうちに感嘆を漏らした。
「でしょう? 初めてこの大例会に参加される方は、みんな驚かれます。
そういう効果も狙っているんでしょうけどね。
もっとも初回以降は、各支部での例会に参加することになりますので、これほど大したものではないんですが」
髪の薄く、腫れぼったい瞼をした中年男が、加治木に向かってにこやかに言った。
「近藤さんが帰依した頃から、こうなんですか」
加治木が訊ねると、近藤は首を振る。
「私が入ったときはね、新規の信徒も最初から各支部の例会だったね。それが、途中からこういう形になった。
たぶん、二〇三〇年くらいからかな」
合点がいった。朝鮮戦争の開戦後である。
その頃から、急激に信者が増加したのだろう。政情不安に神を頼みたくなる人間の気持ちも、宜なるかなである。
会場を見回していた加治木の目に、会場中央の不自然な空白が映った。
「なんでしょう、あれ。あそこだけ、椅子がないみたいですけど」
「ほんとだね。なんだろう。三脚に、カメラ……。なにか、撮影でもするんだろうか」
近藤は訝しげな顔をした。
近寄ってみると、三脚とカメラの他にも、移動式の小さな机と、机上にはパソコンがある。カメラにも、よく見るとマイクが取り付けられていた。
「結構本格的に見えますね」
「ほんとだ。こんなの、初めて見たよ」
二人して、ためつすがめつ眺めていると、カメラの元に一人の若い男がやってきた。じろじろと見ているのも邪魔かと思い、その場を去った。
加治木は、近藤に連れられて、会場正面から見て左側の席に腰を落ち着けた。隣にも、すでに人が座っている。
「いやあ。それにしても、こんなに早く古田さんに帰依を決めてもらえるなんて、思わなかったなあ」
近藤が、何度聞いたか分からないほどの台詞を吐いた。
聞き飽きているものの、こちらもまた何度繰り返したか分からない回答を返した。
「藁でも蜘蛛の糸でも、縋りたいじゃないですか。明るい世の中とは言えませんからね」
加治木は、世を憂いた口ぶりで言った。
古田という名前が、今回の捜査における加治木の仮装身分である。
新宿駅で勧誘活動を行っていた近藤に、古田という偽名で加治木がそれとなく接近したのは、僅か二週間ばかり前の事だった。
とんとん拍子に話を進めて、「帰依」と呼ばれる入会手続きを終えたのは、つい先日である。
通常は数カ月かけて捜査協力者を取り付けるなど、慎重に慎重を期して行われる捜査が、これほどまでに突貫的に実行されたのは、連蔵放火事件の重大性を鑑みた判断だった。
「みな、明日をも知れぬ身だものねえ。わかるよ。私もそうだった」
頷いた近藤は、爛々と目を輝かせた。
「でもね、奉納すればするほど、身も心も軽くなるのが分かったんだ。
財はね、人間を現世に縛り付けるんだよ。
紙幣にせよ硬貨にせよ、あらゆるものは数えきれないほどの人間の懐を巡り巡っていくだろう?
巡った分だけ、財と現世との因果は強くなる。
だから、救済されるためには財を聖櫃に奉納しなくちゃ」
加治木は、鼻白んだ心持ちで、熱心に頷いてみせた。
この教義こそ、宗教法人『テオスゲノスの民』が加速度的に財力を拡大していった要因だった。
テオスゲノスとは、「神の一族」を意味すると、近藤は教えてくれた。
教団の教えによれば、財とは、現世と魂を結ぶ鎖なのだという。
信者たちは、私財を「聖櫃への奉納」として法人に寄進することで、魂の救済を求める。
その一方で、財は魂そのものであるとも説く。
財は、無くてはならないものだが、過剰であってもいけないという両義性を付与されているわけだ。
その帰結として、信徒の自主的な寄付を推奨しつつも、過度な寄付を抑制する——言辞を弄した説法には呆れたものだが、上手く機能しているのだからあながち馬鹿にできない。
「ほら、宮島ちゃん。こっちこっち」
「そんなに急かさないでください」
すぐ後方から聞こえてきた声に、加治木は思わずぎくりとした。
「預言者様は、今日はおいでなさるんですか」
動揺に気づかれまいと、繕うようにして近藤に問いかける。
「いやあ、あの方が直接お越しになるのは十一月十一日だけでね。それ以外では、お弟子さんが来るんだよ」
へえ、と加治木は大袈裟に頷いた。
「よいしょっと。よかったわあ。前の方に座れた」
「早く来たつもりだったのに、もうこんなに人がいるなんて」
「そうなの。最前列は争奪戦よお。大例会なんて、私も信徒になったとき以来。中々見られないんだから」
加治木は、平静を保とうとした。この事態は予想外だった。
高齢の女性の声に交じって、後方から聞きなれた声が聞こえたのだ。
宮島、と呼ばれていたから、まず間違いなく天穂に違いない。
向こうもこちらに気がついただろうが、流石と言うべきか当然と言うべきか、不自然に席を移すことは無いようだった。
もし無意識にでも振り向いていたら、天穂の侮蔑に満ちた視線を目にしたに違いない。
「あらあ。近藤さんじゃないの!」
老婆の声に、加治木は思わず呻き声を上げそうになった。
「ああ、コイズミさん。これはこれは、どうも」
隣の近藤が後方に身体をよじって、座ったまま二度三度と頭を下げる。
即座に、それでいて自然に見えるように、加治木も後ろを振り向いた。
後ろに座っていたのは、ベージュのスーツを纏った上品な身なりの老婆だった。
首から、小泉、と達筆な字で書かれたストラップを下げている。
加治木も会場受け付けで書かされ、大例会中は常に胸に下げているようにと言われたものだった。
小泉は、頬は弛んで年かさに見えるが髪は黒々としており、身なりに気を使っているのが見て取れた。
その隣には、予想通り、顔面に微笑を張り付けた天穂の姿があった。
「やだ偶然ねえ。大例会で会うなんて!」
「こちらの方が、興味を持ってくれたもので、ありがたい限りでした」
近藤に水を向けられ、加治木は軽く会釈をした。頬を弛緩させつつ「古田です」と、差し障りのない挨拶をする。
「あらどーも、小泉です。この子は宮島ちゃん。若いのにしっかりして、いい子なのよお」
「宮島です」
黒のスーツを着た天穂は、背筋を伸ばしてお辞儀をした。
「ほんと、こんなことあるのねえ。不思議」
驚嘆した老婆に合わせ、同調するように頷く。
小泉の疑念がこれ以上膨らまないことを祈って加治木は黙ったのだが、意外にも次に口を開いたのは天穂だった。
「小泉さんと近藤さんは、どういったご関係なんですか?」
「わたしたち、同じ支部なの。新宿支部」
「そうなんですか。てっきり、小泉さんは大田区かと」
驚いたような顔をする天穂。
「あら、言ってなかったかしら。ごめんなさいねえ」
大例会で加治木と天穂が接触することのないように、天穂には蒲田駅で勧誘されるよう手を回したのは加治木だった。
柔和な笑みを浮かべている天穂に、加治木は天を仰ぎたくなった。
「じゃあ、古田さんも新宿区のご住まいなんですね」
「ええ。そうなんです。宮島さんは大田区か」
「大田区の蒲田のあたりです」
天穂は、はつらつと、笑みすら浮かべて答えた。つくづく肝の座った奴だと、加治木は感心した。
仕事や趣味、帰依の理由など、何を聞かれてもすぐ答えられるように頭に叩き込んでいた内容を、加治木と天穂は、初対面のように交わし合った。
重箱の隅をつつくような些細な質問がいくつも飛んできて、加治木は、天穂に試されているのかと思ったぐらいだった。
仕返しとばかりに、込み入った質問をしてみるが、天穂は難なく答えてくる。次第に疲れてしまって、加治木はさりげなく、近藤に話題を譲った。
喋るのをやめてみると、会場全体が騒々しいことに気がついた。
天穂との会話でボロを出すまいと気を張っていたから、分からなかったのだ。
後方を見ると用意された席の大半が埋まっているようで、空席は、会場後方の出入り口付近に数列を残すのみに見えた。
「ご来場のみなさま」
音響設備により拡声された、ウグイス嬢のように澄んだ女性の声が、場内を包んだ。騒々しかった話声は、潮が引くようにぽつりぽつりと掻き消えて、しまいに静寂が訪れた。
「この度はお忙しい中、ご来場賜りまして、誠にありがとうございます」
静寂に響く女性の声。前方を見ると、演台の下手に設けられた演壇に立つ、スーツを着こなした女性の姿があった。
先ほどまで後ろを向いて話していた近藤も、今では引き締まった表情で前方を見ている。
会場の照明は徐々に照度を落とし、会場の真正面にある登壇台に照明が集まっていた。
「わたくし、本大例会の司会進行を務めさせていただく、コウサカと申します。何卒宜しくお願いいたします。
さて、大例会の開催に先立ちまして、諸注意事項を申し上げます」
司会の女性は、淀みなく、注意事項を読み上げていった。
通信機器の持ち込みや使用の禁止、飲食物の持ち込みや飲食の禁止、途中退席の禁止など、事前に近藤から聞いていたものの、かなり厳しい制約が読み上げられた。
加治木は、会場入口での検閲を思い出していた。
荷物預かりと称して荷物が取り上げられ、代わりに引き換え札を渡された。
大例会が終わるまでは、引き換えできないのだという。
さらには、ハンディタイプの金属探知機を使って、全身をくまなく探査された。
電子機器の持ち込みを徹底的に封じたいようだった。
受付の女性は、安全管理のためなどと口上を述べていたが、本音は録音や録画を抑止して秘匿性を保ちたいだけだろう。
司会のコウサカは、念入りに、同じ言葉をもう一度繰り返した。
「注意事項のご留意をお願いします。なお、本大例会は、全国各地の支部にて開催しております例会に中継を行っております旨、ご理解をいただきますよう、お願いします」
不意に、加治木の頭に疑問が浮かんだ。
厳重な荷物の取り締まりで録音や録画を忌避している割には、脇が甘い。
各支部の例会で大例会の様子が密かに撮影されてしまえば、元も子もないではないか。
例会でも同様に、厳しい荷物検査が行われているのだろうか。
にわかに、場内がさざめいた。右隣の近藤や、左手に座っている二十代に見える男性も、落ち着きなく周囲を見回している。
加治木はなんとなく、大例会の中継措置はかなり珍しいものではないかと感じた。
「それでは、これより、テオス新生暦十二年、六月度の大例会を、開催いたします」
拍手が起こり、徐々に大きくなって、会場が耳を聾するほどの喝采に包まれる。視界の端では、近藤もここぞとばかりに手を打ち鳴らし、登壇台に見入っていた。